【沖縄戦:1945年4月12日】第二次航空総攻撃 第32軍の夜間攻撃の失敗 ルーズベルト大統領の急死と国内外に向けた日本のプロパガンダ
第2次航空総攻撃おこなわれる
6日に実施された航空総攻撃(菊水1号作戦)の戦果をふまえ、連合艦隊は立て続けに第2次航空総攻撃(菊水2号作戦)の実施を決定したが、8日以降天候不良がつづき決行はこの日となった。
航空部隊は前日11日夜以来攻撃を展開していたが、この日未明、陸海軍航空部隊は北、中飛行場を制圧爆撃し、大火災を生じさせた。その後、制空権を握るため数波の飛行隊が沖縄周辺に進出し、米軍機を発進させる「吊り上げ」をおこない空戦を挑んだ。この間隙をぬって艦爆や「桜花」が米艦艇に航空特攻をおこなった。この日の海軍航空部隊の作戦機数は354機、未帰還機114機、うち特攻出撃103機、未帰還69機とされる。第6航空軍や第8飛行師団など陸軍航空部隊からも100機以上が出撃している。
特にこのたびの第二次航空総攻撃で用いられた「桜花」が一定の戦果をおさめたことについて、米軍が沖縄に上陸する直前の3月21日に九州・沖縄方面へ接近した米機動部隊を攻撃するため「桜花」が神雷部隊として出撃したものの、米艦載機の攻撃によりほぼ全滅した経緯があることから、海軍航空部隊もこの日の戦果に安堵した。
第5航空艦隊宇垣司令長官は、この日の日記に以下のようにつづっている。
12日の戦況
この日、第1防衛線の嘉数高地では朝から米軍が猛攻をくわえたが、守備隊の奮戦により陣地を確保した。その他の陣地では局地的な戦闘はあったが、全体的に米軍の攻撃は活発ではなかった。
第4遊撃隊の戦闘
金武の米軍約300人はこの日正午ころ、恩納岳南東角の眼鏡山を二方向から攻撃してきた。恩納岳に拠点を構える第4遊撃隊(第2護郷隊)は3時間にわたる交戦により米軍を撃退した。米軍はさらに戦車の掩護射撃の下で再び攻撃してきたが、死傷者を収容して金武方面に撤退した。
米軍には相当の損害を与えたものの、護郷隊の損害も大きかったといわれる。これより30日ごろまで恩納岳で第2護郷隊と米軍の戦闘が展開される(第1次恩納岳の戦闘)。
若干の日付のずれがあるが、長年にわたり護郷隊などについて研究されてきた川満彰氏は、第1次恩納岳の戦闘の概要を次のように記している。
国頭支隊の戦闘
国頭支隊の拠点である八重岳では早朝から米軍機による猛烈な銃爆撃が開始され、11時ごろ国頭支隊第4中隊正面に約2個中隊の米軍が進出してきたが、第4中隊は機関銃や歩兵砲の協力によりこれを撃退した。
伊豆見方面の第5中隊は伊豆見から渡久地を結ぶ道沿いに西進しようとする米軍を撃退し、歩兵砲中隊1門はこの戦闘に協力した。
伊豆見北方の乙羽岳地区の第3遊撃隊(第1護郷隊)第3中隊および302高地の3中鉄血勤皇隊も米軍の攻撃をうけた。遊撃隊は米軍と激戦を展開し、小隊長3名、兵約10名が戦死した。
独立重砲兵第100大隊の平山大尉は、重砲の射撃を国頭支隊宇土支隊長に意見具申したが許可されなかった。結局、平山隊は一発も撃つことなく、最終的に砲を破壊し本部半島から撤退することになる。
夜間攻撃の失敗
第32軍はこの日夜を期して夜間攻撃を決行した。
夜間攻撃についてはこれまで主陣地帯全線で米軍と対峙してきた第62師団の右、主陣地帯右翼に沖縄南部から第24師団を配備し、両師団が前線左右両翼で並立して出撃する作戦であったが、第24師団主力ではなく同師団の歩兵第22連隊の配属を第62師団に配属させ、夜間攻撃が実施されることになった。
この夜間攻撃に作戦計画というほどの作戦計画はなく、軍砲兵隊の支援射撃の下、歩兵第22連隊を含む第62師団主力の突撃による力押しで米軍を押して、北谷ー島袋ー喜舎場のラインまで敵陣を突破し、その後はガマや亀甲墓を拠点として米軍部隊の後方を攪乱するというものであった。北谷ー島袋ー喜舎場のラインといえば、米軍上陸の翌日から翌々日の戦線であり、およそ10日分の戦線(距離にして約10km)を一夜にして巻き戻す作戦であり、あまりに無謀な作戦であった。
そもそも第32軍長参謀長の強い意向で本作戦を立案した八原高級参謀自身が夜間攻撃の成功について疑問視しており、これまで第24師団に配属され地の利もなく攻撃の準備も整っていない歩兵第22連隊の兵力投入は失敗すると予測していた。 実際、19時から軍砲兵隊の支援射撃が第一防衛線全線で開始され、各隊が夜間出撃するが、各隊は全滅に近い状況となった。一部で戦線を突破した部隊もいたが、それらの部隊も翌13日昼には米軍の掃討をうけ壊滅した。いうまでもなく夜間攻撃は失敗に終わった。軍は明けて13日朝、戦況を次のように報じた。
以降、第32軍は戦略持久に作戦を復旧するが、5月に入ると再び攻勢移転、総攻撃を決行し、大敗を喫することになる。
八原高級参謀は、この日の夜間攻撃について戦後次のように回想している。
壕を追い出された嘉数高地の住民たち
日米の激闘が繰り広げられた嘉数高地の戦いだが、もともと嘉数高地には嘉数集落があり、沖縄戦では多数の住民が取り残され、戦闘に巻き込まれていった。嘉数のチヂフチャーガマに避難していた約400人の住民はこの日、日本兵の命令でガマを追い出されたといわれる。
住民らは激戦が繰り広げられている嘉数の戦場に突如放り出され、南部へ避難を余儀なくされた。そして南部へ避難するまで各地の壕を転々とするが、そこでも日本軍による壕の追い出しや食糧強奪の被害をうけたそうだ。ある家族は日本兵に壕を追い出され外に出た途端、艦砲射撃が直撃し、母や兄弟が亡くなり、娘だけが生き延びた。
特に嘉数のある宜野湾の住民は移民や商売など南洋帰りで英語が喋れる者も多く、米軍のスパイと疑われたこともあったそうだ。
ルーズベルト大統領の急死
この日、米国ルーズベルト大統領が急死する。米大統領死去を知った鈴木貫太郎首相は、同盟通信社の短波放送を通じ哀悼の意を表した。鈴木首相のこの対応は、米英に「騎士道精神」として好意的に迎えられたといわれる。
他方、大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』は、米大統領死去について「伊勢の神域を怪我し、大和民族の精神力の根源も物質力の前には価値なし悉く破壊せよと豪語せし彼に神罰正に降れりと云うべし」などと記されている。
中央政界と軍中央では米大統領死去について受け止め方が異なるが、内閣側が軍部に先駆け外交的に素早い対応をとったと考えられる。
そうした上で、軍は米大統領死去について、状況に応じ複数の姿勢のプロパガンダをおこなった。
すなわち国内的には米大統領死去により米国は政治的混迷に陥り、戦争指導も動揺するなど、事態は日本の勝利に有利に働くだろうとしつつも、国民が楽天的にならぬようあまり死去の影響を過大評価しないようにとした。その一方で、外国向け放送では米大統領死去について短い声明を出すだけで批判はせず、武士道精神を示そうとした。こうした姿勢は、米国内で厭戦気運を醸成させる策略でもあった。同時に、東アジアに対してはルーズベルトの不当の野望の暴露、すなわち米国の東アジアへの領土的野心を訴えようとした。
そればかりか、前線の米兵に対し、“慎み”をもって日本との戦争は犬死を招くだけだとけしかけることもプロパガンダ戦略であった。こうした戦略に敏感に反応したのが沖縄の第32軍であり、以降、沖縄では前線の米兵に向けて米大統領死去に関連する第32軍による宣伝ビラが撒布される。
これについてはあらためて見ていきたい。
新聞報道より
この日の大阪朝日新聞に次のような記事が掲載された。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・「沖縄戦新聞」第8号(琉球新報2005年4月21日)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
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