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【沖縄戦:1945年3月23日】米艦載機延べ数百機、沖縄はじめ南西諸島全域を空襲 「マ(三・二三)」工事─「松代大本営」本体工事の着工命令が発令される

米艦載機による南西諸島全域の空襲

 この日朝7時、第32軍牛島司令官は、南西諸島全域へ空襲警報を発令する。その直後、南西諸島各地に米艦載機が来襲し夕方まで空襲をおこなう。沖縄島地区は延べ355機の米艦載機が、宮古、八重山の先島地区は延べ46機が、大東島地区は延べ49機が、奄美地区は延べ27機が襲った。
 10時30分、索敵機により沖縄島南東90km付近に空母を含む米機動部隊を、次いで夕方、沖縄島東方100km付近に艦艇群を発見した。

戦争という現実を嫌というほど思い知らされたのも、3月23日の未明のことである。空一面を覆って来襲した敵機の大編隊に地は裂け、山は割れんばかりであった。縦横無尽に空を飛び交い、息もつかせぬ猛襲をかけてきた。南飛行場の辺りはガソリンタンクでもやられたのか巨大な火柱が吹き上げ、黒煙がもうもうと天に昇っている。それは10月10日の空襲など比ぶべくもない凄まじさであった。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫

 慶良間諸島の座間味村では、米軍機の空襲により住民23人が犠牲となり、学校や民家が消失した。

真っ黒な爆風とともに砲弾の破片がどっと壕に入り込み、壕は一瞬にして崩れ落ちてしまった。ほんとに声をあげる間もなく、全員が生き埋めとなり、豚小屋に隠れた人たちは直接砲撃を受けてほとんどが亡くなったのである。壕の中で意識を失い、胸から下の方を埋められていた渡慶次春子(中山小)は、息苦しさで目がさめた。[略]自分のそばにすわっていたはずの姉は、すでに壕外に運び出されたものの、首が吹き飛んで、胴体だけが横たえられ、母親は小用で壕から出たとたんに弾に直撃されたらしく、無残な姿をさらけだしていた。

(『座間味村史』上巻)

米軍沖縄上陸について判断つかず

 17日以降、米機動部隊は北上し、艦載機が西日本一帯を空襲したことをうけ、軍中央は、米機動部隊は一度ウルシー方面に帰還し、態勢を整えて再び来攻するものと考えており、このたびの南西諸島への来襲はやや意外であった。それとともに、米軍上陸が間近であることに間違いはないが、米機動部隊が上陸部隊を伴っているか不明であり、このたびの空襲が上陸を意図した攻撃なのかそうでないのか、第32軍も軍中央も判断がつきかねていた。
 台湾の第8飛行師団は、この空襲にあたり警戒を厳としたが、隷下の第9飛行団(宮古、石垣に展開)に24日朝、機動部隊攻撃の準備を命じた。これが後の誠第17飛行隊伊舎堂用久隊長らによる特攻出撃につながるが、これについてはまたあらためて触れることになる。

各方面の動向

大本営作戦連絡会議  
 大本営ではこの日、はじめて総理大臣および陸海軍大臣が出席し、作戦連絡会議が開催された。議題は、先日までの米機動部隊による西日本一帯への空襲の戦果説明にとどまり、この日の南西諸島方面空襲は「本朝来敵機動部隊再ヒ南西諸島ニ近接中」との報告があっただけだった。大本営陸軍部第2課では、米機動部隊の南西諸島来襲を意外に早く感じたそうであり、全体として米機動部隊の動向を把握できず、対応しきれていなかった感がある。
第5航空艦隊の戦訓研究会  
 米機動部隊を迎撃した第5航空艦隊では、軍令部次長や連合艦隊参謀副長なども出席し、前日22日およびこの日と鹿屋航空基地で戦訓研究会が開かれ、特攻兵器「桜花」の神雷攻撃の失敗について総括がおこなわれるなどした。
学徒たちの戦場動員  
 この日以降、女子学徒たちは、第32軍直属の沖縄陸軍病院や各部隊の野戦病院に配属させられた。また県立八重山農学校および八重山中学校生徒による鉄血勤皇隊が編成されるとともに、県立3中鉄血勤皇隊の一部が国頭支隊に編入される。
やんばる疎開─国頭方面の状況 
 
中南部からの疎開者が約5000人が国頭村に入る。中南部から北部への疎開は2月ころよりはじまっていたが、疎開者の多くは米軍の砲爆撃がはじまった3月23日から24日以降、慌てて北部へ移動を開始した。一方、荒井警察部長は戦闘に協力できる青少年を疎開させないため、厳重取締りを警告していた。婦女子も看護・炊事班などに召集され、全てが疎開できたわけではなかった。

八原高級参謀の手記より

  第32軍八原高級参謀は戦後、この日について次のように回想している。

 アメリカ機動艦隊近接の報、頻々たる裡に、二十三日の夜は明けた。[略]
 アメリカ機来襲情報は、刻々正確に到着する。だが今や軍首脳部の関心事は、アメリカ機の去来や、その撃墜数ではなく、アメリカ軍の上陸企図いかんである。換言すればアメリカ艦隊が、沖縄島に近接しつつあるかどうか、特にその輸送船団がこれに続行しているか否かである。
  [略]
 アメリカ機の来襲は終日続いた。延べ機数千数百機、かつてない激烈さである。しかしその攻撃目標は、従来と同様飛行場、船舶、港湾に限られ、上陸の前提をなす陣地爆撃をしない。軍の電探情報で、アメリカ機動艦隊の数群が、沖縄島の東方および南方海上に行動しつつあることは明瞭である。大東島守備隊から「敵艦見ゆ」との報告があがったがこの艦隊が機動部隊なのか、上陸掩護艦隊なのか、判断するには報告があまりに簡単である。
 本日の空襲が上陸の序曲だとは上下覚悟したが、ついにその確証を握らないまま春日は八重瀬岳の彼方に没し、アメリカ機も退散し、惨として二十三日の夜幕は降りた。洞窟を出て四周を展望すれば、各飛行場や、至る所の村落は焔々たる業火に夜空を焦がし、那覇港内外には大小幾多の船舶が断末魔の火の手をあげている。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

「松代大本営」本体工事の着工命令が発令

 皇居や政府、軍部施設を長野県の松代に移転させるいわゆる「松代大本営」の建設工事は、1944年1月ごろから本土決戦を呼号する陸軍主導で構想された。同年10月4日、労務者の宿舎建設や地下壕掘削などの工事着工命令が発令され(「マ(十・四)」工事)、11月11日には発破作業が開始された。以降、「松代大本営」のための資材確保もすすみ、1945年2月には昭和天皇が皇居から松代に動座するための特殊装甲車までも用意されている。
 そして米軍の南西諸島への空襲がおこなわれたこの日、皇居の施設などを含む「松代大本営」の本体工事の着工命令が発令され(「マ(三・二三)」工事)、建設工事が急速にすすんでいく。
 同年6月、阿南惟幾陸軍大臣や宮内省加藤進総務局長などが松代を訪れている。このころには、工事は一定の進捗を見せており、宮中の神器を安置する賢所の増設なども打ち合わせされている。
 一方、沖縄では6月21日夜、壊滅寸前の第32軍に陸軍大臣・参謀総長連名の訣別電報が届いた。そこには「貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり。敵もし本土に侵寇せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」とあった。ここでいう「本土決戦の準備は完整せり」の言葉に「松代大本営」の工事進捗を読み取り、沖縄戦を本土決戦のための時間かせぎ、すなわち「松代大本営」の建設工事のための時間かせぎと見る向きもある。
 もちろん沖縄戦の意義を「松代大本営」の建設工事ただ一つに還元することはできないが、陸軍首脳部が沖縄戦を「捨て石」と位置づけ、「松代大本営」はじめ本土決戦戦略を構想していたことは、上記の訣別電報からも読み取れる。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・柴田紳一「松代大本営建設の政治史的意義」(『國學院大學日本文化研究所紀要』第72輯)
・青木孝寿「『松代大本営』の建設に関する研究」(『長野短期大学紀要』第44巻)

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3月23日、24日と米艦載機の攻撃により煙をあげる那覇の街:沖縄県公文書館【写真番号109-08-2】