見出し画像

【沖縄戦:1945年5月4日】第32軍、最後の総攻撃 「今回ノ攻勢ハ是非成功セシメタキモノ」─昭和天皇、総攻撃へ「御言葉」を賜う

総攻撃はじまる─攻撃順調、朗色満つ

 総攻撃の日のこの日、すでに前夜より左右の逆上陸部隊による後方撹乱作戦が第一波として展開していたが、未明より航空部隊が北、中飛行場および米艦艇を攻撃し、払暁より軍砲兵隊が攻撃準備射撃を開始、これを機に前線の各隊が煙幕を焚きつつ米軍占領地帯へ突撃をはじめた。

画像1

5月3日の米軍進出線と4日の総攻撃の要図:「沖縄戦新聞」第9号(琉球新報2005年5月5日)

 第32軍司令部は朝7時過ぎ、「軍ハ五月四日〇四五〇予定ノ如ク攻撃ヲ開始シ第一線ヲ以テ〇五三〇翁長東北方稜線陣地ニ突入セリ」と関係各方面に打電した。地上戦開始以来、戦略持久、攻勢移転、攻勢撤回、攻勢延期などと動揺しつづけた第32軍の最後の総攻撃がはじまり、その猛攻は各隊に攻守ところを代えた感を抱かせるものがあったという。
 午前中、軍司令部には第24師団の特に歩兵第89連隊による右突進隊の攻撃成功の快報がしきりに飛び込み、司令部は朗色に満ちた。司令部は11時ごろ、次のような電報を発した。

 軍ノ攻勢予定ノ如ク進展シ右正面ニ於テハ敵動揺ノ徴アリ 目下戦場附近ノ艦砲射撃及航空銃爆撃極メテ低調ニシテ攻撃ノ必成ヲ確信シアリ 之我カ陸海軍航空ノ絶大ナル協力特ニ昼間ノ艦艇攻撃及制空ニ依ルモノニシテ軍ノ攻勢進展ノ重大ナル素因ヲナセシモノト確信感佩ニ堪ヘス
  [略]
 今後共直協的ニ有利ナル攻撃ノ持続ヲ望ム

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 八原高級参謀は戦後、総攻撃当初の状況について次のように回想している。

 お昼ごろには、軍を始め各司令部は、何か大きなものを期待する空気が充満して、人々は攻勢の前途に自信を強めたかにみえる。私はいうまでもなく、攻勢反対論者であるが、皆とともに順調らしい攻勢の発足を心から喜んだ。運命の打開を願う心は同じだからだ。軍司令官が、上気した顔つきで「八原! そろそろ軍司令部を前田高地に進める時機ではないか?」と申される。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 米軍戦史は総攻撃の開始を次のように記す。 

 日本軍は、墨を流したような暗闇の中を、米軍戦線めざして進撃していった。そして、午前五時ちょうど、二つの火の玉があがった。攻撃命令の合図だった。たちまち日本軍の猛烈な砲撃がはじまり、それは、いよいよ熾烈さを増していった。翁長の村落から真北にあたる丘の上にいた第一七連隊A中隊のガード兵は、驚いてとびさがり、峰の下に身をかくした。彼は、日本軍はもう攻撃してくることはあるまい、と安心しきっていたのである。だが、実際には、日本軍は攻撃してきた。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

画像9

日本軍の攻撃により48時間も足止めを食った丘を進撃する第5海兵連隊第2大隊A中隊 45年5月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-06-2】

攻撃進展せず、憂色深し

 総攻撃は第24師団歩兵第89連隊による右突進隊、同師団歩兵第22連隊の一部による中突進隊、同師団歩兵第32連隊による左突進隊、戦車連隊、軍砲兵隊を主な攻撃部隊としたが、正午過ぎには各隊それぞれ目立った戦果はないことが判明し、軍司令部は憂色を深めはじめた。
 右突進隊の第一線は小那覇北側、101.3高地南側、156.8高地南側付近にあることが判明し、中突進隊も戦力低下し見るべき成果はなく、左突進隊は前田高地を占領するに至らず、戦車連隊の現況は不明といった状況であった。
 軍司令部は15時ごろ次のように電報した。

 初期発煙ノ効果ニ依リ戦況順調ニ進捗セルモ午後ニ至リ戦況停滞シ右師団第一線ハ小那覇北側、一〇一・三南側、一五六・八南側、一五四高地附近ニテ激戦中ナリ 爾他正面ハ概ネ旧態勢ヲ保持シアルモ前田附近ハ彼我混戦中ナリ

(上掲戦史叢書)

 外間守善氏はこの日の総攻撃を次のように回想している。

 四日未明、総攻撃は開始された。第三十二連隊の攻撃には日本軍の砲兵、戦車も支援したが攻撃は失敗した。戦車連隊は首里の付近で全滅したらしい。夜に入っても攻撃をくり返し、第一大隊(隊長伊東大尉)は棚原北側高地に進出し高地を奪取したが、第二大隊(隊長志村大尉)の前田高地攻撃はふたたび失敗した。四日の前田付近の戦闘は激烈だった。私は手榴弾で応戦していたが、標的など定めようもなく、やみくもに敵のいるほうへ向かって投げつけるのが精一杯だった。爆雷の凄まじい爆風に幾度となく地面に叩きつけられた。それから間もなく私は壕口での手榴弾戦で、右手右足に小銃弾、手榴弾の破片を受けて負傷、大隊本部壕に担ぎこまれた。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 こうした戦況であったが、牛島司令官は依然攻撃続行を指示し、翌5日払暁以降、独立混成第44旅団を右翼正面から戦線投入して大山方向へ突進させることを企図した。
 軍はこの日夕、次のように電報した。

一 航空攻撃ノ甚大ナル戦果真ニ祝福ニ堪ヘス
二 軍ノ攻撃ハ右正面ニ於テ順調ニ進展中ニシテ一五〇〇ニ一部ハ上原棚原附近ニ進出シアルモノノ如シ 軍ハ五日払暁以降独混旅団ヲ右翼正面ヨリ投入大山方面ニ向ヒ戦果拡大ヲ期ス
三 海上挺進部隊ハ東西両岸トモ上陸ニ成功セリ
四 軍攻勢ノ両側面ノ戦艦、巡洋艦ノ攻撃ニ関シテハ此ノ上トモ配慮煩ハシ度

(上掲戦史叢書)

 この電報の地上戦況の報告は、実情とは異なっている。なぜそういう報告がなされたか、あるいはなぜそういう報告が残っているかは不明である。
 この日、第二防衛線左翼では安波茶─沢岻北方─安謝の全正面は強力な米軍の攻撃をうけ多数の死傷者を生じたが、おおむね現陣地を保持した。
 軍はこの日の武器弾薬の状況を次のように報じた。

 第三十二軍ノ十五加、十五榴ノ損傷続出シアルモ現地修理ニテ総数ノ八〇%健在シアリ
 残弾左ノ如シ(一門平均各一〇〇発)
 十五加五千 十五榴二万 機関砲一五万 歩兵砲三万 迫撃砲一万 手榴弾一五万 擲弾筒(五〇〇)榴弾五万 一式点火管七万

(上掲戦史叢書)

 残弾の一門平均各100発は各1000発の間違いかといわれる。
 また大本営陸軍部は沖縄島に対し、九州から歩兵連隊、在宮古の第10方面軍から二個大隊程度の規模の逆上陸を準備したが、実施には至らなかった。

画像5

バズーカ砲などで日本軍陣地を攻撃する海兵隊 安謝・勢理客付近と思われる 45年5月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-21-1】(siggraph2016_colorization でカラー化)

各隊の攻撃状況

右突進隊 
 歩兵第89連隊による右突進隊は、右第一線の第3大隊(和田大隊)、左第一線の第1大隊(丸地大隊)、第二線攻撃部隊の第2大隊(深見大隊)などからなる。
 右一線の和田大隊はこの日朝3時ころまでに小波津川の線に攻撃準備を整え、5時ごろまでに攻撃前進を開始した。大隊正面に対する砲兵の支援射撃は濃密ではなかったという。
 小波津川を通過したころより米軍の射撃をうけ、小那覇集落を通過するころには射撃が激烈となり、大隊は内間北側高地および小橋川北側高地に突入したが、夜明けとともに米軍の砲爆撃は苛烈となり、死傷者続出し攻撃は頓挫した。和田大隊は小橋川、内間、小那覇付近で米軍の相対峙したが、和田大隊長以下多数の死傷者を生じ戦力は極端に低下した。部隊は低地にあり、台上の米軍から見下ろされ、昼間は部隊間の連絡は全くとれない状態となった。
 左第一線の丸地大隊はこの日朝3時ごろから小波津東方地区において小波津川の線に攻撃準備を整えた。
 4時50分から砲兵の攻撃準備射撃が開始されたが、丸地大隊長は攻撃時刻前に前進を開始したため、準備射撃は大隊が前進した後方に落下するようなあまり意味のない状況だった。
 丸地大隊は呉屋北側44・6高地の米軍を奇襲し陣地を突破して稜線沿いに突進して台上を占領したが、7時ごろから米軍機の機銃掃射をうけ、また棚原方向から戦車3~4両の反撃をうけ死傷者が続出した。丸地大隊長は大隊砲による射撃を命じ戦線を整理したが、この日昼には丸地大隊長以下全滅的な損害をうけ、夜に入り生存者が運玉森地区に後退した。
 このように右突進隊(歩兵第89連隊)の攻撃は、一時左第一線大隊(丸地大隊)が棚原南東方台上に進出するも、この日夕刻には両大隊ともに全滅的打撃をうけ攻撃は失敗した。

画像2

右突進隊の進出図 3Bn/89ⅰとは歩兵第89連隊第3大隊を指す:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

中突進隊
 歩兵第22連隊による中突進隊は、幸地付近の防御を担当しており、戦力は低下していた。中突進隊は左右両突進隊の攻撃の進展に伴い、棚原北東地区への進出が命じられていた。
 また総攻撃開始に際しては、一部をもって翁長北西台上の米軍を攻撃し、右突進隊の攻撃に協力するよう命令されていた。このため朝5時ごろより第11中隊が攻撃を開始した。同中隊は果敢に攻撃したが、夜明けとともに米軍戦車が出現し、中隊長以下全滅した。
 その後、幸地付近は有力な米軍部隊の攻撃をうけ、中突進隊は目立った行動はできず、防戦に努める状況となった。
 なお第1大隊が派遣した後方潜入部隊の数組は、幸地後方1000メートル付近への潜入をはたしたといわれる。

画像7

中突進隊の進出図:同上

左突進隊 
 歩兵第32連隊による左突進隊は、右第一線の第1大隊(伊東大隊)、左第一線の第3大隊(満尾大隊)からなる。
 右第一線の伊東大隊は、2日午後総攻撃の連隊命令を受領し、120高地・前田高地を経て棚原北東高地への進出を目指し、146高地で攻撃を準備した。伊東大隊長は120高地を突破し、一挙に棚原北東側の154・9高地に突進する方針をとり、配属の独立速射砲小隊は大隊の前進に追いつくことが難しいため平良町付近に配置し、大隊の前進を掩護させることにした。
 この日0時、伊東大隊の第3中隊を第一線として146高地付近から攻撃前進を開始した。隠密前進の予定であったが、第3中隊は途中120高地付近で米軍と交戦状態となり、多大の損害を出して前進を停止した。伊東大隊長はこのまま力攻めをしても成功しないと判断し、この夜の攻撃の断念と明夜攻撃再行を決心し146高地へ後退を命じた。
 伊東大隊長は敵情地形を偵察し攻撃計画を練るとともに、仮に攻撃が成功しても部隊の損害も多大であり、作戦全体として将来に有利ではないと攻撃中止を連隊長に進言した。連隊本部としては伊東大隊長の意見に同情的であったが、最終的には攻撃再行を命じられた。
 左第一線の満尾大隊は前田洞窟にある志村大隊と連携し、前田集落南側の米軍陣地を突破し、棚原北西側高地に進出することであったが、満尾大隊各中隊は多大の損害を生じており、各中隊の中隊長は全員死傷しているようなぼろぼろの状況であった。
 満尾大隊長は隷下の第11中隊を右第一線、第9中隊を左第一線としてこの日2時ごろ行動を開始し、砲兵隊の射撃に支援されながら前田集落南方の130高地帯の米軍陣地に突入したが、砲兵隊の射撃が終わると米軍の迫撃砲や機関銃の猛射をうけ多大の死傷者を生じた。朝7時ごろには130高地頂上付近に進出したが、米軍機や戦車の射撃により死傷続出し、夕方には攻撃準備位置に後退せざるをえなくなった。
 前田高地は引き続き日米の激戦、死闘が続いた。
 独立第26大隊は第二線大隊とされ、棚原西方143・4高地に突進する任を命じられた。同大隊はこの日未明行動を開始し、宜野湾街道に沿って北進し一部をもって130高地を攻撃したが、大隊長が負傷し、中隊長も戦死といった状況となり、勝山集落に後退した。

画像8

左突進隊の進出図 2Bn/32iは歩兵第32連隊第2大隊、すなわち前田洞窟の志村大隊:同上

戦車第27連隊 
 村上乙連隊長率いる戦車第27連隊は、第24師団長の指揮下にあり、総攻撃にあたって当初左突進隊の戦闘に協力し、続いて中突進隊の戦闘に協力する任務であったが、戦車連隊と各突進隊の間で戦闘について打ち合わせする時間もなく、各個の戦闘となった。
 村上連隊長は3日夜、運玉森南側の宮城付近から首里北側石嶺付近の攻撃準備位置に連隊を推進させた。連隊の第1戦隊(軽戦車11両)は予定通り石嶺に進出したが、第2戦隊(中戦車11両)の中戦車は首里東南側の路上の弾痕により進出できず、ようやく2両が攻撃の時間に間に合うというような状況だった。村上連隊長は身動きがとれなくなった中戦車隊に搭載機関銃をはずし、徒歩での戦闘を命じた。
 こうして四苦八苦する状況のなかで戦車連隊は攻撃を開始し、120高地および前田南側130高地方面に攻撃前進したが、米軍の攻撃により歩兵部隊も戦車部隊も大損害をうけた。村上連隊長は残存部隊を石嶺に後退させた。

画像8

戦車第27連隊の進出図 27TKは戦車第27連隊を指す:同上

左側支隊
 独立速射砲第3大隊を基幹隊とする左側支隊は、左突進隊の左側を前進し、第一線の進出を支援するとともに、棚原西側から前田にわたる間を占領し、師団の左側背を掩護するにあった。
 支隊は3日夜、弁ヶ岳北側の歩兵第22連隊の陣地から平良町北側地区に移動し、3日黎明前田集落付近の米軍を攻撃し、歩兵第32連隊の攻撃を支援した。

軍砲兵隊
 
軍砲兵隊は3日夜から攻撃準備射撃を開始し、4日朝4時50分ごろから猛射撃をくわえた。米軍側戦史には、軍砲兵隊により1万3千発以上の射撃をうけたと記録されている。
 軍砲兵隊のうち野戦重砲兵第23連隊第2大隊は軍の攻勢の進展に伴い、前方に陣地変換する計画となっており、一時戦況有利との情報により大隊の第6中隊が集結し出発準備までしたが、中止となった。

第62師団
 
第62師団は総攻撃にあたり、前田高地奪回のため果敢な昼間攻撃をおこない激戦を展開した。しかし優勢な米軍に押され、高地南側斜面の洞窟は、米軍の爆薬攻撃をうける状況となった。
 独立臼砲第1連隊は全力で前田集落西端付近に進出し、九糎迫撃砲2~3門で前田付近の戦闘に協力した。
 安波茶でも強力な米軍の攻撃をうけ、独立歩兵第23大隊は第1中隊石原中隊長以下多数の死傷者を生じ、兵器も破壊されたため、山本大隊長は第一線部隊を安波茶南側に後退させた。
 沢岻北方、安謝なども米軍の攻撃をうけたが、砲撃・迫撃の協力もあり米軍に損害を与え、現陣地を保持した。

画像8

第62師団はじめ第二防衛線左翼西海岸方面の戦況:同上

昭和天皇の御言葉

 この日、参謀総長の戦況上奏に際して、第32軍の攻勢について昭和天皇から「御言葉」があり、第32軍に電報された。
 牛島司令官は、次のように昭和天皇の御言葉を各隊に伝達した。

 四日参謀総長戦況上奏ニ際シ軍攻勢ノ初動順調ニ進捗シアルニ関シ深ク御満足ノ御模様ニテ「今回ノ攻勢ハ是非成功セシメタキモノ」トノ御言葉ヲ拝セリ
 右謹ミテ伝達ス   軍司令官  牛島 満

(上掲戦史叢書)

画像10

キャンディーを与え、子供たちの人気を得る米海兵隊所属マックラナハン一等兵 45年5月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号77-38-3】

久米島警防日誌より

 この日の久米島の警防日誌には次のように記されている。

  五月四日 晴   当直 田場昌徳 午后□□[ママ]
    射撃 海戦
  [略]
一、北原西海岸ニ漂流死体アルヲ警防団長ニ申出有ルヨリ六時過ヨリ北原迄団長出張立合埋葬ヲナス
  埋葬場所 牧場西部海岸
  遺留品  ナシ
  氏名 海軍二等兵曹 江原
     相当期間要セシ者ノ如ク腐喰、着服チ切レ遺留品モナシ

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 久米島にこの日、江原という海軍二等兵曹の遺体が漂着し、警防団長立ち会いのもと埋葬したとある。江原二等兵曹について詳しいことはわからないが、沖縄戦の地上戦が活発となると久米島にはしばしば特攻隊員など航空隊の搭乗員が生死を問わず漂着したことから、あるいはそうした人物かと思われる。
 遺体の腐乱状況から江原二等兵曹は死後相当期間経って漂着したとされている。そのため直接の関係はないと思うが、この日は第32軍の総攻撃にあわせた海軍航空部隊による航空総攻撃(菊水五号作戦)がおこなわれており、やはり多くの航空隊の搭乗員が犠牲になった。菊水五号作戦における海軍の作戦機数は300機、未帰還65機、そのうち特攻機が136機で未帰還が61機であった。ここに陸軍航空隊の出撃も加わるため、それ以上に多くの搭乗員が命を落とし、海に消えていった。
 腐乱しながらもどこかの島に漂着し、名前と階級だけでも確認され、簡易にでも埋葬されただけ恵まれているのかもしれないという、命が軽い時代であった。

画像6

日本軍戦闘機の特攻により破損した護衛空母サンガモンの甲板 45年5月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号112-28-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)
・外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川ソフィア文庫)

トップ画像

日本軍にバズーカ砲で射撃をおこなう海兵隊 第二防衛線左翼西海岸方面の戦線と思われる 45年5月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-22-2】(siggraph2016_colorization でカラー化)