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【沖縄戦:1945年4月29日】第32軍、再度の総攻撃を決定 「本日ヒロヒト誕生日に宣伝新聞を撒布した」─琉球週報と沖縄新報

29日の戦況

 前田高地では引き続き米軍との熾烈な接近戦が展開された。賀谷大隊および志村大隊は前田高地の確保に努めるとともに前田集落付近の米軍を攻撃したが、守備隊の死傷者も続出し撃退できなかった。
 前田集落南側地区においては、歩兵第32連隊満尾大隊が昨夜の攻撃に失敗し、米軍と近接対峙していた。
 宜野湾街道東側の平坦地方面には、戦車を伴う米軍が南下してきたが、第62師団輜重隊や高射砲部隊などが善戦し撃退した。
 志村大隊に配属されていた外間守善氏は、この日の戦闘を次のように回想している。

 四月二十九日未明、前田高地南斜面に進出した志村大隊は、高地死守のため血みどろの戦闘に突入した。夜明け直後から米軍の猛烈な砲撃が始まり、東側から十数両の戦車が高地南側の前田集落に侵入し壕陣地に戦車砲の直撃を浴びせかけてきた。そのため南側斜面の壕陣地は身動きができなくなり、高地頂上はついに米軍に占領されてしまった。米軍歩兵は北側の断崖を縄梯子で登ってきて自動小銃と手榴弾で攻撃した。空にはトンボと呼ばれた観測機が飛び地上と連絡をとっていた。日本軍も機をみて高地上の敵に逆襲した。逆襲といっても武器、弾薬はもとより歩兵の主力中隊をすでに失っている志村大隊にできるのは突撃攻撃だけである。敵の不意をつくその戦法は一時的には敵をひるませたが、自分たちの居場所を教えることにもなり、後で猛烈な反撃を受けた。この日の戦闘は凄まじかった。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 幸地、翁長方面は戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけたがこれを撃退し、米軍と近接対峙した。
 歩兵第22連隊第2大隊が守備する幸地南西約500メートルの146高地付近には、一部の米軍が進出した。
 小波津方面では、朝9時ごろから東海岸方面を南下する米軍戦車の攻撃をうけたが、砲兵の射撃により南下を阻止した。翁長方面からも攻撃をうけたが、陣地を確保した。同方面の守備は伊東孝一大隊長率いる伊東大隊が担っていたが、伊東大隊長はこの日、「現守備地区を歩兵第89連隊第1大隊と交代し、首里北側へ転進すべき」との師団命令を受領し、伊東大隊は夜間に配備を交代して翌30日4時ごろ首里北側平良町に到着した。伊東大隊は小波津の戦闘で約200名の死傷者を生じた。
 この師団命令の背景には、第24師団の歩兵第89連隊主力の進出がある。同連隊の北転により師団長は小波津、運玉森の防御を同連隊の担任とし、これまで小波津での戦闘を展開してきた伊東大隊を歩兵第32連隊長の指揮下に戻し、歩兵第89連隊第1大隊(丸地大隊)と交代させたのである。

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2機の特攻機の攻撃をうけた駆逐艦ヘイゼルウッド 機能停止状態となり海上で煙を上げている 45年4月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号108-19-2】

混成旅団の首里地区進出

 沖縄南部知念半島方面に配備されていた独立混成第44旅団(混成旅団)は4月26日以来、知念半島地区の守備を重砲兵第7連隊長樋口良彦大佐以下知念支隊(重砲兵第7連隊、船舶工兵第23連隊、独立第29大隊)に移譲し、28日夜から首里方面に移動し、同方面の防衛を担った。なお混成旅団の北地区隊であった第2歩兵隊第3大隊は28日、配置されていた雨乞森、大里、稲嶺付近で混成旅団長の指揮下からはずれ、戦車第27連隊長の指揮下に入り、引き続き同地に配備された。
 混成旅団は識名に旅団司令部をおき、首里以西の地区の防衛を第62師団から継承し、特設第6連隊と船舶工兵第26連隊を配属され、右地区隊、左地区隊、南地区隊の三隊で同地区を防衛した。独立混成第15連隊を主力とする右地区隊は天久台および真嘉比地区の防衛、特設第6連隊を主力とする左地区隊は那覇地区の防衛、船舶工兵第26連隊を主力とする南地区隊は那覇港以南の地区の防衛をそれぞれ担当した。
 なお、この日、第24師団司令部は、津嘉山から首里の軍司令部に移動した。

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嘉手納飛行場につながるパイプライン 激しい戦闘の裏で、米軍の沖縄基地化、後方施設整備は着々と進んでいる 45年4月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号03-18-4】

沖縄北部の戦況

 恩納岳を拠点とする第4遊撃隊(第2護郷隊)は4月12日より恩納岳を包囲攻撃する米軍と戦闘を展開してきたが(第一次恩納岳の戦闘)、米軍は27日より付近の三角山および山麓から撤退し、この日には恩納岳北東7キロの名嘉真岳に所在していた海軍部隊(二階堂隊)など約100名が恩納岳に到着し、岩波隊長の指揮下に入った。第一次恩納岳の戦いはこれをもって終わるが、これまでの第2護郷隊はじめ岩波隊長の指揮する部隊の損害や戦死約50名、戦傷約70名とされた。

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第一次恩納岳の戦闘要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

 また第3遊撃隊(第1護郷隊)は、部隊も散り散りとなり食糧も欠乏していたが、村上隊長は遊撃戦再興を続行し、各地の米軍拠点を襲撃している。この日は第3遊撃隊の隊本部が主体となり名護南の世冨慶街道の米軍を襲撃し、米軍人員殺傷30名、自動車爆破4両などの戦果をあげたと記録されている。

総攻撃ふたたび

 この日、第32軍司令部で今後の戦況の見通しと軍の攻勢について幕僚会議が開催され、軍の方針をこれまでの戦略持久から再び攻勢に移転とするとし、5月4日を期しての総攻撃が決定した。幕僚会議の席上、総攻撃実施を強く訴える長参謀長に対し、八原高級参謀は理路整然と戦略的にも戦術的にも総攻撃に意味はなく、必ず失敗し大損害を被ると主張したが、結局は長参謀長に押し切られるかたちで攻勢移転に決した。 
 第32軍神直道航空参謀の戦時の日誌が公開されているが、そこにはこの日の幕僚会議の議事の要点が記されているので掲示したい。

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神日誌 其2 第32軍参謀 陸軍中佐神直道:防衛研究所 沖台 沖縄254-2(内閣府沖縄戦関係資料閲覧室公開)

 長参謀長と八原高級参謀の意見がぶつかり合い、他の若手参謀はほぼ参謀長の意見に同意したということがわかるとともに、神航空参謀が八原高級参謀の作戦方針、ひいては八原高級参謀そのものを嫌っていた、軽蔑していたことが読み取れる。
 ところが八原高級参謀は戦後、攻勢移転決定までの経緯について次のように記している。

 四月二十九日朝まだぎ、わずかばかりの水で洗面をすました私の前に、参謀長が突如として姿を現わされた。思い詰めた態度で私の手を握り、真に熱烈な口調で、「八原君! 君と僕とは常に難局にばかり差し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう。どうか今度の攻勢には、心よく同意してくれ」と申され、はらはらと落涙された。あまりの突然さに、私はぎょっとしたが、握った将軍の手の温みが伝ってくるとともに、私もまた心動かずにはおられなかった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 このくだりの後、八原高級参謀の回想は総攻撃の計画を立案する段階にうつっており、攻勢移転をめぐる幕僚会議での長参謀長との議論について触れられていない。八原高級参謀が幕僚会議において攻勢移転に反対する主張をしたのは神航空参謀の手記から明らかだが、八原高級参謀が回想するように幕僚会議開催前の4月29日の朝の時点で長参謀長に口説かれて攻勢移転に同意していたとすれば、幕僚会議での喧々諤々の議論は何だったのだろうか。また、なぜ戦後の回想で幕僚会議での議論について触れなかったのだろうか。
 このあたりの事情や理由はよくわからないが、あるいは八原高級参謀の人情の機微に触れるところであり、あまり深く触れたくなかったのかもしれない。いずれにせよ八原高級参謀の戦後の回想も、史料批判とまではいわないが、一定の批判的視線を保持しないと、歴史的事実を見落とすことになる。
 なお幕僚会議に至るまで神航空参謀は長参謀長と今後の軍の方針を打ち合わせたり、このように八原高級参謀を批判しているところを見ると、神航空参謀が総攻撃を焚きつけた人物の一人と考えていいだろう。
 そうした神航空参謀の日誌には、「天長節の佳日において攻勢移転が決まったことは幸先よい」などと記されているが、主戦論者がこの日の天長節を意識していたことは間違いないだろう。もともと天長節には閲兵式がおこなわれるなど、天長節は慶事であるとともに軍事を想起させる日でもあった。
 それは沖縄の住民も同様であり、人々は天長節には神風が吹き、日本軍の攻撃によって米軍が撃退されるものと信じていた。しかし、この日、米軍の攻勢がやむことはなかった。また日本軍の大攻勢があるわけでもなかった。慶良間諸島ではこの日を境に続々と住民が投降をはじめたという。

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UNEXPLODED BOMB すなわち不発弾処理のため掘削する日本人民間人と捕虜の写真だそうだ 彼らは週給1ドル(10円)でこの仕事に雇われているという 米軍に保護されると、こうした仕事に従事することもあった 45年4月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号99-04-2】

沖縄新報の記事より

 沖縄新報は29日付の記事で軍司令部による28日18時発表の戦況を報じるとともに、27日に県庁壕で開催された沖縄県の市町村会議を取り上げ、会議での決定事項について子細に報じている。

一万八千余を殺傷
 綜合戦果一日より二十八日
  戦車二九四輌その他
   火器多数
現地軍発表(四月二十八日十八時)
一、中頭地区に於て我第一線部隊は仲西、宮城、仲間、前田、幸地、翁長の線に於て猛烈果敢なる邀撃を続行し陣前において多大の出血を与へつつあり、特に前田附近の戦闘は最も激烈なり
二、四月一日より四月二十八日迄に判明せる地上綜合戦果左の如し
  [略]

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)
勝つぞこの意気
 
弾雨を蹴って市町村会議
  戦場施策へ力強い推進
【大山記者記】戦場沖縄の県民が皇国興亡の関頭に立って如何に戦ひ抜くかについて完璧の陣容をうちたてるため県では二十七日午前八時から国頭郡及中頭郡交戦地区を除く県下市町村長、警察署長の合同会議を開催した、熾烈な弾雨下出席率が気づかはれたが戦場に敢闘する指導者たちの熱意は見事これを一蹴、前夜高嶺村を出発した島尻南部八町村長と上原糸満警察署長の一団は夜を徹して参集、深更午前二時に会場たる警察部のごうに乗り込み、次いで与那原署管内村長、那覇首里両警察署長及び管内市町村長が続々詰めかけ夜明けまでには全員完全に勢揃ひを了へ開会前までに異常な緊張味にあふれた、[略]
 勝つためぜひ実践
 県民よ頑張り抜かう
二十七日開催された市町村会における指示事項は左の通りであるが県民はこれを強度に実践し勝つまで頑張り抜かう
一、必勝信念及び敵がい心の昂揚毎朝必勝を祈念するとともに敵に対する心がまへを□っと固める残忍な敵はわれわれを皆殺しにするものと□得へ敵を見たら必ずうち殺すといふところまで敵がい心をたかめること、又新聞の利用等によって正確な情況を知らせ士気を鼓舞すること
二、避難民の受入については同胞愛を発揮しごうや食糧の世話に万全を期すること、生死を共にしているのだ、この秋こそ心底から同士愛を発揮しやう
三、ごうに□□□組織しごう長をおいて□□□□戦□生活を営むこと
四、敵機に発見されぬやうごうの出入を厳重□□□すると共に無用の者の出入を禁じ偽装を完全にすること□に一寸でも深く掘りごう□□□てるなど出来得る限りごうの増強につとめよう、ごう内の衛生に注意、共同炊事を工夫実行すること
五、麦を早く苅入れ甘藷を□つけ□野菜をつくって増産する一方、手持食糧の食□しを真剣に考へよう
六、村に敵が侵入した場合一人残らず戦へるやう竹やりやかまなどを準備しその訓練を行って自衛抵抗に抜かりない構へをとらう
七、軍事を語るな、スパイの発見逮捕に注意しよう

※□は判読不能

(同上)

 沖縄新報は米軍上陸後、首里の軍司令部の壕内に移り、大本営発表を無電でキャッチし記事にするなどして発行をつづけた。電力は期待できないため、足踏みで動く印刷機で印刷し、翼賛壮年団員や警察、学徒隊、兵隊が壕から壕へ新聞を配達したという。前沖縄県知事である翁長雄志氏の父助静氏も戦時中は大政翼賛会沖縄県支部情報宣伝部長の辞令をうけ、千部前後の新聞を避難しながら何時間もかけて配達し、住民を励ましたといわれる。
 沖縄新報の報道内容は完全に軍国調であり翼賛報道であったが、それでもなお新聞発行をつづけていたことそのものは驚嘆すべきことだ。そして米軍占領下でも、ただちに新聞発行がはじまるが、これについてはまたあらためて触れることになるだろう。
 また米軍もプロパガンダのため「琉球週報」といわれる新聞形式の宣伝ビラを撒布していたことは既に述べた通りである。
 米軍司令部全体会議のこの日の記録によると、「我々は、本日ヒロヒト誕生日に宣伝新聞を撒布した。本島南部一帯に、これを撒布した」とあり、天皇誕生日を狙って「琉球週報」の第一号が発行、撒布されたと思われる。

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琉球週報第1号:保坂廣志、林博史、比嘉要「沖縄戦における日米の情報戦─暗号・心理作戦の研究─」(平成15年度~17年度科学研究費補助金(基盤研究〔B〕)海外学術調査研究成果報告書、2006年)

 日本軍はこうした米軍の宣伝ビラに触れることを厳しく禁じていたが、実際には多くの将兵が宣伝ビラを読んでいた。特にこの琉球週報はよく読まれ、琉球週報も含め何らかのかたちの米軍の宣伝ビラに触れた将兵は、実に捕虜のうち9割近いといわれる。こうした宣伝ビラとこの内容に沿った宣伝放送、投降の呼びかけなど様々な方法で米軍は心理戦を展開し、兵士の投降と軍の組織的崩壊をうながしていった。

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スピーカーで日本兵や住民に投降を呼びかける海兵隊 テニアンにて 沖縄でも同様のことが行われたが、こうした心理戦は主にテニアンはじめマリアナ諸島の戦いの中で有効性が確認され、沖縄戦でも実践された:沖縄県公文書館【写真番号127-GW-093566】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・「神日誌」其2 防衛研究所 沖台 沖縄254-2
・保坂廣志『沖縄戦将兵のこころ 生身の捕虜調査』(紫峰出版)

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神直道航空参謀の4月29日の日誌 「天長ノ佳節ニ當リ全軍攻勢案決裁セラル、幸先ヨシ」と記されている:「神日誌」其2 防衛研究所 沖台 沖縄254-2