見出し画像

【沖縄戦:1945年4月28日】「天長節には神風が吹く」─第32軍司令部で再び主戦論が台頭 農林鉄血勤皇隊の壊滅 戦場の結婚式と米軍のプロパガンダ

28日の戦況

 米軍は早朝から第二防衛線全線で猛攻を開始した。
 防衛線右翼、東海岸方面の小波津、幸地正面は米戦車隊の攻撃をうけたが、陣地を確保した。
 歩兵第22連隊長は昨27日、前田東側高地奪回の師団命令を受領し、連隊の左第一線を担当する第2大隊に同高地の奪回を命じたが、同大隊正面はこの日米軍の強力な攻撃をうけたため、奪回攻撃はできなかった。
 安波茶付近は9時ごろから戦車4両を伴う約200名の米軍が進攻してきた。また午後にも進攻してきたが、守備隊これを撃退した。
 前田高地および前田集落では終日にわたり接近戦が展開され、守備隊は多大な犠牲を出しながらも陣地を確保した。
 首里─宜野湾道の東側に沿う地区に戦車8両を伴う有力な米軍が進入してきたが、第62師団輜重隊および所在部隊が撃退した。
 防衛線左翼、西海岸方面の屋富祖南側高地付近では米軍の攻撃により陣地の一角が奪われ、南飛行場(現在のキャンプ・キンザー付近)の南端にも米軍が進出した。屋富祖付近の戦闘では独立歩兵第21大隊の大部分が死傷した。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じている。

 球情報
一 朝来敵ハ幸地以東ニ於テハ第一線兵力戦車二〇歩兵約五〇〇ヲ以テ来襲戦車四擱坐人員約二〇〇殺傷撃退 前田以西ニ於テハ前田、仲間、安波茶、宮城、仲西ノ線ニ於テ戦車五〇以上歩兵五,〇〇〇ノ敵ト接戦格闘中、我カ一部ハ依然三二高地、城間、屋富祖ヲ死守敢闘中
二 〇六三〇乃至一八一〇ノ間延三五〇機来襲、北飛行場離陸小型三五、大型六、中型一五、着陸小型二四、大型三以上活況ヲ呈シツツアリ 中飛行場発着ヲ見ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 また台湾の第8飛行師団岸本重一参謀長は第32軍参謀長あてに以下の激励電報を発した。

 八飛師参電第二五一六号
 天候ノ恢復ニ伴ヒ天一号航空作戦愈々酣ナラントシ我カ精鋭ノ志気衝天ノ慨アリ 切ニ貴軍ノ御健闘ヲ祈ル
 尚当師団ノ戦力ハ逐次補強セラレツツアルヲ以テ爾後逐次投入兵力ヲ増大シ間接的ニ貴軍ニ対スル協力ヲ強化スル考ニシテ今後一~二ヶ月ノ作戦ニ支障ナキ戦力ヲ保有シアルニ付為念

(同上)

画像7

3両米軍戦車 キャタピラーがはずれ、走行不能状態となっている 日本軍の地雷や砲撃をうけたものと思われる 45年4月28日撮影:沖縄県公文書館【写真番号86-13-2】

各隊の動向

志村大隊
 前田高地占領の連隊命令を受領した第24師団歩兵第32連隊第2大隊(志村常雄大隊長、志村大隊)は前田集落に到着した27日夜、米軍に攻撃を仕掛けるものの猛烈な反撃をうけた。
 この日になり米軍は再び志村大隊に攻撃をくわえ、昼間は身動きがとれない状況であった。夜になって連隊本部と連絡がとれる状況になり、今夜再び前田高地奪回の命令をうけたものの、やはりどうすることもできない状況であったが、斥候の報告により独立歩兵第12大隊(賀谷大隊)が前田の洞窟に健在であることを把握し、賀谷大隊と合流した。
 賀谷大隊長は志村大隊の救援を喜び、志村大隊長を迎えて祝杯をあげようとしたところ、志村大隊長は「戦場で酒とは何事か」とムッとしたという。どちらがいいということでもないが、ベテランの賀谷大隊長(45歳、中佐)と青年将校の志村大隊長(23歳、大尉)の個性の違いが見て取れる。

画像3

4月28日、29日の歩兵第32連隊主力の攻撃経過要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

伊東大隊
 
第24師団歩兵第32連隊第1大隊(伊東孝一大隊長)は、4月24日以来師団直轄となって小波津地区に布陣していた。その兵力には連隊砲中隊および独立機関銃第17大隊第3中隊が配属されていた。
 伊東大隊長は25日夜、現在の西原町小橋川付近に警戒部隊(山田隊)を配置するとともに斬込隊を派遣し米軍への攻撃をおこなった。
 26日には米軍の攻撃により警戒部隊が壊滅し、27日には小波津の第一線陣地の大山隊が米軍の集中砲火をうけるが、これを撃退した。この日も米軍は早朝から砲撃を開始し、大山隊と戦闘となった。小橋川方向から大山隊に前進する米軍戦車4両に対し、連隊砲が射撃し、2両を転覆させ、もう2両を後退させた。伊東大隊長は大山隊支援のため後方の第1、第3中隊の擲弾筒を大山隊の両側に配置し射撃させた。
 擲弾筒の射撃は米軍歩兵ばかりではなく、翁長方面から進出する戦車の阻止にも役立った。大山隊は27日に約300発、28日に約700発もの擲弾筒の榴弾を使用したという。
 大山隊は終日猛攻をうけながら、陣前および陣内で米軍戦車2両を擱座させるなどして陣地を保持したが、からこの日まで米軍の猛攻をうけながらも擲弾筒射撃や連隊砲により米軍へ損害を与え、29日には首里北側への転進を師団から命令され撤退した。

画像3

 伊東大隊の小波津付近における戦況要図:上掲戦史叢書

 伊東大隊の本部こそ野砲中隊のいた洞窟を使用していたが、各中隊の陣地は応急の野戦陣地のタコツボ程度であり、米軍の攻撃により第二線陣地も含め相当の損害を出した。
 小波津での戦闘について伊東さんの証言が残っている。

伊東孝一さん「大隊の部下の9割を失って」:NHK戦争証言アーカイブス

 なお伊東さんは2020年2月、お亡くなりになった。

歩兵第32連隊主力 
 上述の志村大隊の所属していた歩兵第32連隊全体の動きとしては、同連隊北郷連隊長はこの日、前田地区占領の連隊命令を発した。なお、この日、歩兵第89連隊第2大隊(深見大隊)を歩兵第32連隊に配属する旨の師団命令をうけ、同大隊は29日に首里北方に到着し、北郷連隊長の指揮下となった。
 歩兵第32連隊第3大隊(満尾大隊)はこの日夜、前田南東の高地を攻撃したが、米軍の猛烈な集中火をうけ多大の損害を生じた。夜が明けたころには米軍の反撃はさらに激化し、火炎戦車まで出現したため、高地頂上から後退した。満尾大隊長は29日夜、残存兵力を大隊本部に集結させて部隊の整理をおこなったが、戦力は極度に低下していた。
 連隊旗(軍旗)の護衛中隊でもある第9中隊は、この日夜前田高地占領の命令をうけ、明け方までに経塚東側に進出し攻撃を準備した。翌29日夜、仲間南端の米軍を攻撃したが、米軍の反撃により失敗した。明けて部隊を集結し、再度の攻撃を準備していると、大隊への復帰を命じられた。この戦闘において早坂中隊長は重傷をうけ、部隊も多くが死傷した。

画像9

沖縄の子供たちにジープの複雑な内部構造について説明するバーデット一等兵 45年4月28日撮影:沖縄県公文書館【写真番号77-10-2】

農林鉄血勤皇隊の最後と国頭支隊の解隊

 沖縄県立農林学校(嘉手納)は1941年に中等学校に統合された実業学校で、学校施設は充実し教師陣も優れており、全国的にも有数の農林学校として知られていたが、3月末に尚謙配属将校を隊長として県立農林の生徒による農林鉄血勤皇隊が編制され、特設第1連隊に配属された。
 特設第1連隊(青柳時香連隊長)は後方部隊を中心とする急造の部隊でありながら、米軍上陸時には上陸地点の防衛を担当することになり、4月1日以降、激戦を展開した。そうしたなか青柳隊は農林鉄血勤皇隊に斬込隊の編成を命令し、尚隊長に率いられた斬込隊は青柳隊から武器を受け取るため指定された場所に向かうが、青柳隊はそこにいなかった。
 以降、農林鉄血勤皇隊は斬込隊と本隊にわかれ、斬込隊は国頭支隊の指揮下に入るため北部を目指すが、本隊は金武付近に避難することになった。ここが運命の分岐点であり、本隊はその後解散となるが、尚隊長以下の斬込隊は国頭支隊とともに米軍と戦闘をおこなうことになる。
 国頭支隊に合流した農林鉄血勤皇隊は真部山に配置され、手榴弾や爆雷で米軍との戦闘を展開したが、国頭支隊の多野岳への敗走をうけ、支隊の末端部隊とともに真部山に置き去りにされながらも、多野岳へ撤退した。
 多野岳では尚隊長が農林鉄血勤皇隊を再編成するが、負傷者が多かったため、尚隊長が活動できる一部の生徒を率いて尚班として国頭支隊とともにやんばるを転々とし、東村平良から内福地(現在の福地ダム湖底)に落ち延びたところ、国頭支隊の各隊や農林鉄血勤皇隊は米軍の攻撃にあい、この日農林鉄血勤皇隊は尚隊長以下戦死した。農林鉄血勤皇隊の最後である。

戦後70年目「けりがついた」戦死の県立農林10人突き止める:沖縄タイムス2015年6月16日

 また、これ以降、国頭支隊は本部を分散し、支隊長は慶佐次付近の山中に位置した。大隊も各中隊ごとに分かれ、中隊も小隊ごとに分散し、実質的に解隊となった。
 その他、北部の戦況を振り返ると、第3遊撃隊(第1護郷隊)村上隊長はこの日までに部隊の状況を把握し、掌握につとめた。食糧の不足も深刻であったが、「食糧の不足、これ遊撃戦の常道なり」と訓示しつつ遊撃戦を続行したという。

画像6

日本軍陣地を爆破する支援砲撃を待つ海兵隊員 45年4月28日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-36-3】

台頭しはじめた主戦論

 昭和の時代においては4月29日が天長節(天皇誕生日)であった。戦前、天長節はいうまでもなく国民的な慶事であり、戦場では天長節を期した総攻撃がおこなわれるなどした。沖縄戦においても、避難していた住民の一部は「4月29日の天長節には神風が吹く」などとして、天長節には日本軍の総攻撃がおこなわれ米軍を撃退するものと信じていた。そうであればこそ、天長節に神風が吹いて米軍が撃退されない現実を見て、投降を決める住民も多くいたそうだ。
 第32軍司令部内でも天長節をひかえて幕僚のあいだで総攻撃を主張する主戦論が台頭しはじめた。4月初頭の軍中央の指示による攻勢移転は失敗し、八原高級参謀が主導する当初の作戦である戦略持久に軍は回帰していたが、長参謀長や一部参謀は再び主戦論に傾きはじめる。
 八原高級参謀は4月26日の時点で「司令部内で、再び狂風吹き始めたり。警戒を要す」とメモに記したことは以前触れた通りだが、これは主戦論の台頭について表現するものである。また長参謀長とともに主戦論を主張した神直道航空参謀の日誌を見ると、28日に長参謀長と総攻撃について打ち合わせしており、翌29日の天長節の日の日誌には、天長節を迎えたのに敵を撃退できておらず申し訳なく作戦を練ると記されている他、総攻撃が決した幕僚会議に関する記述では天長節のこの日に攻勢が決まり幸先よいなどと記されている。
 第32軍司令部における主戦論の台頭には、戦局の推移や戦力の状況などの物理的条件は当然ながら、軍人や国民に共通する天長節という精神的条件も一つの要因となったと考えられる。

画像8

海軍のハルゼー大将と海兵隊のマルケイ少将ら幕僚たち 司令部での会議にて 45年4月28日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-36-3】

「幸せそうにも不幸せそうにも見えなかった」─戦場の結婚式

 沖縄県公文書館には、この日を撮影日とする結婚式の写真が数葉保管されている。そのうちの一葉の下の写真のキャプションの和訳には

日本陸軍捕虜木村中尉と新川シズコの結婚式。24兵団本部にて従軍牧師カーティス中佐による。この日本兵は24兵団のG-2に捕らえられた。彼は自分の銃剣とピストルを防空壕の中から投げ、「戦うのはうんざりだ。結婚したい」といって投降した。

とある。

画像3

戦場の結婚式 新川さんと木村中尉の後ろには鳥居のようなものが建っている 45年4月28日撮影:沖縄県公文書館所蔵【写真番号:12-51-1】

 キャプションの内容が事実であれば、ある種の戦場美談といえるかもしれないが、この結婚式は米軍によるプロパガンダとして挙行されたものだといわれている。
 そもそもこの結婚式の写真は4月28日の撮影とあるが、実際は30日に結婚式がひらかれ、そこで撮影されたものと思われる。というのも29日の米軍司令部の全体会議の記録には、この結婚式についての打ち合わせが記されている。

 4月29日
 司令部全体会議
 バックナー将軍:明日社交行事。我が前線を通過してやっと来た日本軍中尉と女性との結婚式参加(ただし中尉が言っているのは、彼女とは投降時一緒に居ただけだと)。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 この結婚式が沖縄攻略米軍の司令官であるバックナー司令官も参加する司令部全体会議で打ち合わせされているというところに、米軍がこの結婚式をどれだけ重視していたかわかる。その上でこの結婚式は、米軍が沖縄で撒布した新聞形式の宣伝ビラである「琉球週報」にも掲載された。

画像5

戦場の結婚式の記事が掲載された琉球週報:保坂廣志、林博史、比嘉要「沖縄戦における日米の情報戦─暗号・心理作戦の研究─」(平成15年度~17年度科学研究費補助金(基盤研究〔B〕)海外学術調査研究成果報告書、2006年)

 この戦場の結婚式について、ETV特集「よみがえる戦場の記憶─新発見 沖縄戦600本のフィルム─」が10年前に取材し、結婚式の裏側に迫っている。
 同番組によると、女性の新川シズコは西原出身の新川しず子さんで、当時は役所に勤めていたが戦争によって従軍看護婦に動員されたそうだ。木村中尉は第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第11大隊の中隊長の木村直治さんで、この結婚式の数日前に捕虜になったそうだ。確かに同大隊はこの数日前、和宇慶方面から前田高地東側の西原周辺に転進しており、話のつじつまはあう。
 地上戦がはじまる前から新川さんと木村中尉が顔見知りだったという話もあるが、結婚するような仲ではなかったという。二人の捕虜尋問調書には米軍に住民を救って欲しい、そのためには米軍のプロパガンダに協力すると語ったと記されている。実際、二人は捕虜が適切な処遇をうけている写真とメッセージつきのビラを撒布した方がいいなどと米軍のプロパガンダに積極的な提案までしたそうだ。
 そうした全員の利害の一致により、この結婚式がおこなわれたのだろう。この結婚式に立ち会ったドナルド・キーン氏は、「二人は幸せそうでも不幸せそうでもなく、ただ困惑していた」と振り返るが、こうした背景を知るとそうした二人の表情の理由も理解できる。
 沖縄戦の指揮官の一人であるホッジ少将も「本官は、『日本人には親切にふるまえ』作戦を開始したわけではなく、もちろん『結婚部局』を設けたわけではない」と皮肉をいい、あくまで二人をプロパガンダに利用したことを認めている。ドナルド・キーン氏もまた、米国の新聞が二人の結婚式を「アメリカ人の途方もない気前よさの表れと報じれば、まさにそう思い込んでいる世間の思惑に合致するのだ。アメリカ人が世界を守る偉大な救世主だなんて、記者たちがでっちあげたデタラメに過ぎないのに」とはっきりといっている。
 こう考えると、そもそも二人の結婚そのものが望まないものだったのかもしれないとも推測できるが、いずれにせよ二人は戦後東京郊外に移住し、仲睦まじく暮らしたそうである。

画像4

新川さんと木村中尉の結婚式 とても喜んでいる顔には見えない 45年撮影(撮影日不明):沖縄県公文書館【写真番号03-08-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・「神日誌」其2 防衛研究所 沖台 沖縄254-2
・ETV特集「よみがえる戦場の記憶─新発見 沖縄戦600本のフィルム─」(2010年放送)
・保坂廣志『沖縄戦将兵のこころ 生身の捕虜調査』(紫峰出版)

トップ画像

ダイナマイトで日本軍の壕を爆破する海兵隊員:沖縄県公文書館【写真番号84-33-2】