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【沖縄戦:1945年4月21日】戦場に置き去りにされかけた鉄血勤皇隊の少年たち 「沖縄作戦ヲ打切ル時期ニ関シテハ…」─大本営陸軍部の沖縄戦認識

主陣地帯の戦況

 南進する米軍は引き続き第32軍の第一防衛線(主陣地帯)の全線で大規模な攻勢を行ってきた。
 城間、伊祖、安波茶では終日、日米の死闘が続いたが、守備隊は城間陣地と安波茶陣地を確保して米軍の進出を阻止した。
 嘉数高地では午前午後と二度にわたり米軍の攻撃をうけたが、これを撃退した。しかし守備隊の独立歩兵第23大隊は、連日の戦闘で戦力の三分の一を失った。
 西原高地は昨20日に高地頂上に進出した米軍と早朝から近接戦闘が展開され、一時頂上付近を米軍に占領されたが善戦して撃退した。
 棚原北側高地に進攻した米軍に対しては三度にわたり逆襲を決行し、その攻撃を阻止した。
 142高地では戦車や火炎戦車を伴う米軍の攻撃をうけ接戦となり陣地の一部が占領されたが、夕刻には米軍を撃退して陣地を確保した。
 東海岸方面においては、昨20日に和宇慶西方1キロメートルの高地を占領した米軍が同高地を東に下る稜線の守備隊陣地を攻撃し、夕刻には全稜線が米軍に占領された。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じた

一 島尻正面ノ敵ハ各正面共砲爆撃支援下戦車ヲ伴フ有力ナ部隊ヲ以テ波状的ニ来攻シアルモ我ハ依然現陣地ヲ確保シアリ
  西海岸ノ敵ニ対シテハ昨夜夜襲ヲ敢行 伊祖ー四八高地ノ線ニ進出セルモ全面的ニ奪回スルニ至ラス
二 砲撃四、五〇〇発
三 本島来襲四三九機
四 敵進攻以来四月二十一日迄ノ状況
  艦砲射撃一三万発、来襲機数延一万四千

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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戦利品の日の丸を掲げる米兵 兵士たちはボストン出身だという 45年4月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号86-39-4】

国頭支隊の敗走と三中鉄血勤皇隊

国頭支隊のタニヨ岳到着
 本部半島の八重岳を16日に撤退した国頭支隊の宇土武彦支隊長はこの日未明(もしくは20日夜)、撤退先としていたタニヨ岳の第3遊撃隊(第1護郷隊)の本部に辿り着いた。国頭支隊のタニヨ岳への撤退は、事実上の敗走であり、夜間、米軍に見つからないよう行軍し、発見されて攻撃をうけては散り散りになり、また集まってはタニヨ岳を目指して行軍するような逃避行であったことは以前記した通りである。
 第3遊撃隊の村上隊長は、国頭支隊のこうした現状を嘆き、また怒り、「敗残兵入るべからず」といった看板を標示したといわれる。一方でかつて遊撃隊要員であった兵員を支隊のなかから抽出し、遊撃隊の増強に務めたといわれる。
 宇土支隊長は24日、各隊に国頭北部への転進を命じ、国頭北部で分散潜伏し遊撃戦を企図した。事実上の解隊状況と考えていいが、支隊の動向については以降少しずつ見ていきたい。

三中鉄血勤皇隊
 国頭支隊には、県立第三中学校の生徒による鉄血勤皇隊と通信隊が配属されており、彼らも国頭支隊の戦闘に動員された他、支隊の敗走にも同行している。 
 三中鉄血勤皇隊は45年3月23日ごろ、召集された三中生およそ300名によって編成された。そのうち150名が村上隊長ひきいる第3遊撃隊に、残りの150名が国頭支隊に配属された。
 遊撃隊に配属された三中生たちは、匍匐前進や行軍、蛸壺に隠れて米軍戦車を爆破するといったゲリラ戦の演習など過酷な訓練を強いられ、実際にタニヨ岳周辺での米軍の拠点襲撃といったゲリラ戦を展開した。
 国頭支隊に配属された三中生たちは、八重岳、真部山、302高地など本部半島の国頭支隊の陣地で米軍を迎撃したが、満足な武器も与えられず犠牲を出していった。また通信隊は支隊本部と各隊を結ぶ通信線を維持するため、架線などの危険な任務をおこなった。
 その後、国頭支隊のタニヨ岳への敗走により三中鉄血勤皇隊もタニヨ岳へ落ち延びるが、支隊の兵士から「学生は一番最後でいい」といわれるなど、三中鉄血勤皇隊は戦場に置き去りにされかけた。また逃避行にあっても、途中の薬草園で米軍の待ち伏せにあって多くの死傷者を出すなどした。
 部隊が散り散りになるなかで、逃亡して家族のもとへ帰った隊員も多かったが、タニヨ岳到着後は部隊の一部は解散となったが、宇土隊長と行動を共にさせられた学徒もいた。

なごらん学徒隊と北部の野戦病院
 沖縄北部の県立三高女の寄宿舎は陸軍病院名護分院が設置されていたが、45年に入ると三高女の生徒(いわゆる女学生)たちは名護分院で看護教育をうけるようになり、米軍上陸間近となると、看護教育をうけた20名の生徒のうち10名に動員命令が下り、生徒たちは八重岳の野戦病院に動員された。生徒たちはなごらん学徒隊と呼ばれる。
 米軍の北進が本格化し、八重岳への攻撃が激化すると、八重岳の野戦病院には次々に負傷兵が運び込まれ、生徒たちは不眠不休で看護や炊事などにあたり、時に重傷兵の手足の切断などにも立ち会ったといわれる。
 国頭支隊の撤退により、なごらん学徒隊も撤退となったが、その際重傷兵にはモルヒネが投与されたといわれる。このモルヒネの投与は最後に痛み止めを投与したという意味なのか、あるいは薬殺したという意味なのか。なかには生徒たちのそわそわした態度に気づき、重傷兵が「私たちも連れて行って下さい」と泣き声で嘆願することもあったそうだ。最終的に重傷兵の枕頭には乾麺麭(乾パン)と手榴弾が置かれたという。
 なごらん学徒隊は撤退にあたり散り散りとなり解隊した。しかし撤退時、1人の生徒が犠牲となった。

 八重岳を撤退した三高女10名は、米軍の迫撃砲や銃撃戦をくぐり抜ける中で、それぞれがはぐれ小集団で逃げまどうようになった。安里信子は、撤退命令を受けた後も、しばらくは負傷兵の手当を行なっていた。そして午前4時頃八重岳を発ち、字伊豆味あたりで夜が明けた頃、米軍の待ち伏せに遭い、機関銃で撃たれて亡くなったという。三高女補助看護隊の中で彼女は一人、犠牲者となった。また、三高女からは金城順一、仲地源三郎、崎浜秀盛の3人の教員が米軍上陸前の3月初旬に召集されていた。詳細は不明だが、仲地、崎浜の両教員は八重岳から撤退する途中で戦死したという。

(『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦)

県立三高女の女学生で八重岳の野戦病院で看護業務についた上原米子さん:NHK戦争証言アーカイブス

陸軍の沖縄戦認識と海軍の航空作戦

 大本営陸軍部第20班(戦争指導班)の参謀が毎日の業務を記した業務日誌である「機密戦争日誌」には、この日、次のように記してある。

 昭和20年4月21日 土曜
一、沖縄作戦ニ関シ今後使用シ得ル陸軍特攻隊ハ本月末現在十二戦隊ノ予定ニシテ、菊水第五号ハ二十四日、五日頃、菊水第六号ハ五月上旬初ニ決行スル計画ナルモノヽ如シ 沖縄作戦ヲ打切ル時期ニ関シテハ諸因ヲ検討ノ上慎重ニ決定スヘキトコロ、特攻機モ右ヲ以テ後結ハ皆無ナル趣ナルヲ以テ沖縄作戦ノ帰趨モ判断シ得ヘシ、茲ニ回想スルモノハ本作戦開始ニ方リ賜ハリタル勅語ニシテ国家ノ安危ニ関スル本作戦モ挙軍力ヲ尽セシカ否ヤハ別問題トシテ職ヲ軍ニ奉スルモノ居テモ立ツテモ居ラレヌ責任ヲ痛感スル次第ナリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 16日に第三次航空総攻撃(菊水三号作戦)がおこなわれ、22日には陸軍の第四次航空総攻撃が予定され、さらにその後も総攻撃が計画されるているが、いよいよ沖縄方面航空特攻作戦に使用できる航空機も後がなくなりつつあるという憂慮と、これにともなって沖縄作戦の打ち切りや沖縄戦の帰趨を陸軍中央が意識しはじめている様子がうかがえる。
 このころ海軍航空隊も戦闘態勢に変化が生じていた。沖縄方面航空特攻作戦を決戦と位置づけて作戦を展開してきた海軍、連合艦隊であるが、16日の菊水三号作戦の終了をもって、沖縄方面に送り出す予定であった第10航空艦隊の残存部隊の派遣をとりやめ、本土決戦への転用を決めるなどした。
 そうとはいえ、海軍が沖縄方面航空特攻作戦を打ち切ったわけではなく、とにかく航空機の数など物量がつづかなかったというのが実際のところといわれる。22日の第5航空艦隊宇垣纒司令長官の日誌には、

 四月二十二日 日曜日 〔曇〕
  [略]
 GFは今後の航空作戦指導方針を示せり。要するに名実ともに航空ゲリラ戦に移行するほか兵力これを許さざるに至る、かねて予期せる段階に入れるものなり。懐中の金大事のときに心細くなりては如何とも致し難く、我が軍の作戦常にその軌を一にするも誠に遺憾にして敗退の一途を辿る所以なり。

(宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所)

とあり、大々的に航空特攻作戦を展開するよりも、機を見てゲリラ的に出撃し作戦を展開する方針に切り替わったことが記されている。いずれにせよ軍中央にとって沖縄戦の行く末に希望を見出すことは難しい状況だった。

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日本軍の抵抗拠点を一掃する部隊をどう率いたか実演する海兵隊マックエルフィッシュ 45年4月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号79-40-2】

決戦訓の策定と公表

 本土決戦が現実味を帯びるなか、陸軍省は本土決戦に臨む将兵の精神的準拠となるものが必要だとして種々検討していたが、4月8日阿南陸相名をもって決戦訓を示達したが、この日決戦訓が新聞に公表された。

陸訓第二号
 本訓ヲ皇土決戦ニ於ケル将兵ノ訓トスヘシ
   昭和二十年四月八日  陸軍大臣 阿南惟幾
   決戦訓
 仇敵撃滅の神機に臨み特に皇軍将兵に訓ふる所左の如し
一 皇軍将兵は神勅を奉戴し、愈々聖諭の遵守に邁進すべし。聖諭の遵守は皇国軍人の生命なり。
  神州不滅の信念に徹し、日夜聖諭を奉誦して之が服行に精魂を尽くすべし。必勝の根基茲に存す。
二 皇軍将兵は皇土を死守すべし。
  皇土は天皇在しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。
  誓って外夷の侵襲を撃攘し、斃るるも尚魂魄を留めて之を守護すべし。
三 皇軍将兵は待つ有るを恃むべし。
  備有る者は必ず勝つ。
  必死の訓練を積み、不抜の城塁を築き、闘魂勃々、以て滅敵必勝の備を完うすべし。
四 皇軍将兵は体当り精神に徹すべし。
  悠久の大義に生くるは皇国武人の伝統なり。
  挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉く之を殺戮し、一人の生還無からしむべし。
五 皇軍将兵は一億戦友の先駆たるべし。
  一億同胞は総て是皇国護持の戦友なり。
  至厳なる軍紀の下、戦友の情誼に生き、皇軍の真姿を顕現して率先護国の大任を完うすべし。
 右の五訓、皇軍将兵は須く之を恪守し、速かに仇敵を撃滅して宸襟を安んじ奉るべし。

(戦史叢書『本土決戦準備』〈1〉)

 沖縄戦においても「一人十殺一戦車」や「県民総武装」といった軍参謀長の檄が新聞にたびたび掲載され、県民の士気を鼓舞するとともに、軍官民共生共死の一体化、精神的な戦争動員を強めていくなかで沖縄戦の悲劇があったが、それは本土決戦を前に、国全体で進められようとしていたといえる。

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座間味島の病院に入院している地元の子ども 彼らの喉が親によって掻き切られそうになった点に注目 45年4月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-19-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・同『大本営海軍部・連合艦隊』〈7〉
・同『本土決戦準備』〈1〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦

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米軍に保護された鉄血勤皇隊の少年たち:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006062】