米軍、神山島上陸
海軍沖縄方面根拠地隊(沖方根)はこの日朝8時、那覇西方10kmの神山島に米軍が上陸を開始するのを発見した。同島に日本軍部隊は配置されておらず、上陸した米軍は約10門の重砲陣地を構築し、夕方には沖縄島に向けて砲撃を開始した。
沖縄方面根拠地隊は、神山島への米軍上陸について次のように報じた。
第32軍牛島司令官は、神山島に対し陸海軍の砲兵で砲撃を実施するとともに、斬込隊を派遣するよう配備した。これをうけて日付がかわった4月1日未明、那覇からは戦車第27連隊砲兵中隊の2門が、小禄からは独立高射砲第27大隊第1中隊の2門が、また海軍砲が神山島へ砲撃を行った。斬込隊の派遣は船舶工兵第26連隊に命令されたが、この日は実行されなかった。また平安山付近で戦車第27連隊砲兵中隊の別の2門が米艦艇を砲撃した。
米軍の空襲、艦砲射撃が再び活発化する
米艦載機の空襲は、28日以来低調であったが、この日は沖縄島に延べ約700機が来襲し、奄美大島地区に140機、宮古、八重山地区にも各50機が来襲した。艦砲射撃は、北・中飛行場方面に約500発、北谷方面に約100発、那覇、小禄方面に約4200発、湊川方面に約110発であった。
また陸軍の航空部隊である第6航空軍の索敵機はこの日午後3時35分、那覇の南東約130キロ付近を北西に航行中の約150隻の米軍の船団を発見した。
大本営陸軍部は、ここ数日の米軍の動向や、 日も沖縄島への上陸がなかったことから、あるいは米軍はしばらく沖縄島に上陸せず、九州の航空基地を攻撃した後に上陸するのではないかとの心証を抱きつつあった。
大本営陸軍部宮崎第1部長は、この日の日誌に次の通り記している。
一方で第32軍司令部は、かわらず米軍主力の北谷、読谷方面への上陸、一部の湊川方面への上陸を見込んでおり、湊川方面を守備する第24師団歩兵第89連隊は、隷下の各隊に陣地の強化や偽装、あるいは攪乱のための偽陣地の構築を指示している。
同連隊第5中隊のこの日の陣中日誌には、次のように記されている。
海軍第2蛟龍隊、第27魚雷艇隊の拠点の空爆
沖縄北部の運天港には、海軍の潜水艦部隊である第2蛟龍隊(指揮官:鶴田傳大尉)と魚雷艇部隊の第27魚雷艇隊(指揮官:白石信次大尉)が配備されており、沖縄近海の米艦隊攻撃のため25日以降それぞれ出撃し、特に魚雷艇隊が一定の戦果をあげた。海軍司令部と部隊の無電のやりとりには次のような記録が残っている。
しかし、こうした蛟龍隊や魚雷艇隊の動きは、米軍に探知されていた。そのため米軍は、30日31日と延べ数百機の艦載機で運天港を空襲し、運天港の海軍部隊と機能を壊滅させた。こうして北部の海軍部隊は、海での戦闘力を喪失していき、陸上戦闘に移行するも思うような行動はできず、以降敗残兵となり住民虐殺や物資の略奪などに手を染めていくことになる。
北部疎開の停止
第32軍はこの日、戦況の切迫を理由に中南部の老幼婦女子を中心とする住民の北部疎開の停止を命令した。県の北部疎開担当者によると、浦添ー牧港以南で北部への疎開を目指す住民は、ただちに付近の集落に潜入せよという指示が出されたという。このため約10万人の住民が北部疎開できず、中南部に取り残されることになる。
北部疎開は、2月ごろから始まったが、米軍の空襲や艦砲射撃が本格化した3月下旬ごろになり、ようやく大規模な移動が始まった。県、軍は、住民10万人の北部疎開を目指していたが、実際に疎開したのは約8万人程度とみられる。
それぞれの31日
八原高級参謀
外間守善氏
米側戦史より
英艦隊はこの日、石垣島を攻撃する。石垣国民学校の校庭に爆弾が投下された他、大浜国民学校の校舎が空襲により破壊された。英艦隊は米軍指揮下で第57任務部隊として活動し、主に先島諸島の攻撃を受け持った。また4月中旬には与那国島周辺に英艦隊が集結し、「アイスバーグ・ウーロン作戦」と呼ばれる台湾への攻撃を実行した。英艦隊は沖縄戦において5335機もの艦載機を出撃させ、958トンもの爆弾を投下したとされる。 この日の「機密戦争日誌」(大本営陸軍部第20班〔戦争指導班〕の参謀による毎日の業務日誌のこと。敗戦による焼却を免れて現在に伝わる)には、次のように記されている。
特設第1連隊および賀谷支隊の配備と農林隊の悲劇
北、中飛行場を防衛するため、特設第1連隊(青柳時香連隊長)が30日夜から両飛行場方面へ配備され、両飛行場の破壊を実行した。同連隊は、第32軍が兵力の自力増強のため第19航空地区隊司令部や飛行場大隊や要塞建築勤務中隊など工兵部隊を主力として急造した歩兵連隊であり、砲兵力が皆無であるなど、地上戦の能力はほとんどなかった。また同連隊には、尚謙少尉の率いる県立農林学校の学徒隊約170名(農林鉄血勤皇隊、農林隊)も組み込まれていた。
青柳連隊長はこの日、各隊に拠点の守備、夜間の斬込み、橋の破壊などを命じ、「各人必勝の信念をもって各自の任務を遂行せよ」と訓示した。青柳連隊長自身は、もともとは第62師団の独立歩兵第12大隊の大隊長を経験しており、歩兵戦闘には自信があったが、連隊そのものは弱兵であり、米軍上陸直後に事実上壊滅する。農林鉄血勤皇隊の悲劇も起きるが、これについては後ほど触れることになる。
なお奇しくも北、中飛行場方面には青柳連隊長が過去に大隊長を務めた第62師団歩兵第63旅団隷下の独立歩兵第12大隊(賀谷與吉大隊長、「賀谷支隊」とも称される)も配備されていた。賀谷支隊は、大陸戦線を経験した精鋭部隊であったが、戦力は少数であり、いずれにせよ軍司令部は同方面の防衛には大きな期待はしていなかった。
事実、先ほども触れたように、特設第1連隊は米軍上陸以降、ただちに部隊間の連絡が途絶し四分五裂状態となるが、賀谷支隊は米軍と互角に渡り合い、米軍に一定の損害を与えながら戦略的後退を行い、第32軍の第1防衛線まで米軍を誘い込み、所期の目的を達成した。「砲兵の協力さえあれば、米軍地上部隊は恐れるほどではない」とまで語った賀谷支隊の奮闘は、遠く島尻地区の部隊にも伝わり、軍の士気を高めた。
新聞報道より
この日の大阪朝日新聞の「神風賦」(コラムのタイトルと思われる)は、次のように記す。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・吉浜忍「米軍上陸前後の日本軍─第二十四師団山第八十九連隊陣中日誌にみる日本軍の対応─」(『史料編集室紀要』第27号)
・沖縄戦新聞第7号(琉球新報2005年4月1日)
トップ画像
攻撃前日のこの日、艦上で第3水陸両用軍団司令官ガイガー少将とその幕僚たちに、地形図上で南西諸島沖縄島の海岸の日本軍陣地を指し示す、参謀長のシルバーソーン准将:沖縄県公文書館【写真番号90-08-2】