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「「わざわざ」」カメラで写真を撮るということ

最近オールドコンデジというものが流行っていると聞きます。
それに加えて、一部のミラーレスカメラやコンデジは、生産が追いつかなくなるほど人気の状態が続いています。
一体何が、人をカメラによる撮影に駆り立てているのでしょうか。
今回はそれを私なりに考察してみます。


「なんで古いカメラで写真を撮るんですか?」

これは、私の後輩から、私と別の後輩に対しての鋭い指摘でした。
この言葉により、私は今回エッセイを書くこととなり、改めて写真を撮る意義について考えるいい機会になりました。ありがとう後輩。

話を戻して、この指摘は、私と後輩が、古いコンデジ、つまりオールドコンデジを使って写真を撮っていたことに対するものです。
(私が使っているのはGR DIGITAL IV、後輩のものはOLYMPUS VH-210(多分)なので、オールドと言っていいのかは少々疑問が残りますが)

GR DIGITAL IV。2011年に発売されたコンパクトデジカメです。

彼は、スマホのほうが手軽により綺麗な写真が撮れるのにも関わらず、どうしてわざわざカメラを持ち出して、荒い写真を撮るのか、と疑問を感じたそうです。
そして、写真は記録するためのものであるから、写真は綺麗に撮られているほうがよい、とのこと。

確かに、写真を記録するためのものとして考えるならば、写真は綺麗に撮れているほうがよい。そう考えれば、気軽に綺麗な写真が撮れるスマホカメラのほうが、オールドコンデジより有利です。

でも、世の中はオールドコンデジで写真を撮る人があまりにも多い。
さらに、写真機を使って写真を撮る人もたくさんいます。
それはどうしてなのでしょうか。

カメラの2つの「記録性」

そもそも、カメラで写真を撮ること、写真を通して記録することについては、大きく分けて2つの側面があると考えています。

1つは、カメラそのものにある、風景やものを写真として「記録する」側面。
写真を撮ることで、撮る対象をカメラで切り取って保存する。これを記録することとします。

もう1つは、カメラで撮影した写真を通して、「記憶」を呼び起こす側面。
カメラで撮った写真を見返すことで、写真という記録から記憶を呼び起こすこと。これを、記憶を呼び起こすこととします。

それぞれの視点から、カメラで写真を撮る意義について、考えていこうと思います。

(大前提として)カメラという写真機で、写真を撮るという撮影体験が求められている

現在は、スマホカメラが世の中に浸透して、誰でも写真を撮って記録できる社会になっています。
だからこそ、今はカメラという写真機で、写真を撮るという撮影体験が求められているのではないかと考えます。

もちろん、スマホでも綺麗な写真は撮れます。
でも、撮影体験は違います。

現代の人々が利用しているSNSにて、写真を投稿する者もしくは発信者となる場合、自分ならではの個性を作ることが求められています。
若者の多くはSNSにて写真を投稿しますから、個性を求め、他者と同じようにスマホカメラで写真を撮るだけでは不十分になりつつあるのでしょう。

例えば、SNSを見ると、スマホでスマホらしからぬ綺麗な写真を撮る方法を紹介しているアカウントが大量に存在しています。
そして、よく撮れるオールドコンデジや、フィルムカメラ風な写真を撮れるカメラを紹介しているアカウントも山程あります(これは今の流行りだから、というのもあるでしょうが)。

これらは、他者が撮るようなスマホカメラの写真から離れて、自分しか撮れない、独特な、個性ある、綺麗で目を引く写真を求めているということの現れではないでしょうか。

カメラを通して、「記録」に付加価値をつける

大前提の話をしたところで、まずは「記録」という観点から、カメラで写真を撮る意義について考えていきます。

カメラには、スマホカメラとは異なる特徴があります。
(もちろん、スマホカメラにもメーカーごとの色や表現力の差異はありますが、今回はスマホカメラと写真機としてのカメラの対比の話ですのでお許しください)

例えば、一眼レフなどの大きなカメラでは、美しい描写性やボケなどの表現力。
オールドコンデジでは、そもそもの画質の粗さやCCDセンサーならではの表現、そして独特のカラーサイエンスがあります。

これらは、撮影した時に、ただ単に記録するだけでなく、その写真に表現を付与します。

GR DIGITAL IV, 28mm, f1.9, iso 2810

例えば、上の写真であると、スマホであれば暗所性能も相まって、それなりに綺麗な写真を吐き出してくれるでしょう。
しかし、今回使ったのは13年前に発売されたコンデジ。モノクロだし、画質はガビガビ。とはいえ、なにもない駅に、白黒で荒い写真なのも相まって、独特の寂れた雰囲気を醸し出しています。

記録としての写真に表現を付与するということは、エッセイや体験記にも近いものがあると思います。
エッセイや体験記は、自分の体験したことや考えたことを、読み物として残したものです。
体験や思考をただ単に記録として残すなら、手元に日記帳を1冊用意して、それに書き込めばいいのです。
しかし、エッセイや体験記として読み物にすることで、そこに表現が加わり、同じ経験をした他の人とは異なる、独特のエッセンスが付与されます。
そうして、エッセイや体験記となり、作品として昇華されるわけです。

エッセイや体験記と同じく、写真もカメラで撮影することで、記録写真ではなく、作品としての写真に昇華させているのではないでしょうか。

機材が「特別な思い出」に昇華する

つづいて、「記憶」という観点からカメラで写真を撮る意義について考えていきます。

カメラを使って撮影することで、その写真は、記録としての写真だけでなく、「わざわざカメラで撮った写真」という特性が付与されます。
そして、この特性が、写真に特別感を与え、その記憶に特別な思い出を付与するのではないかと考えています。

つまり、カメラをわざわざ持ち歩いて写真を撮ることで、わざわざカメラを使って写真を撮るほど大切な思い出である、という特別感が生まれます。
この特別感が大事なのです。

スマホで撮った写真。
カメラで撮った写真。
同じような写真ですが、撮影体験と、撮った人による特別感が違います。

これは、出かける時に、ちょっといいものやお気に入りのものを持っていくことと近いのではないでしょうか。
ちょっといいものやお気に入りのものなど、ちょっと特別なものを持っていくことで、その日の気分が少し上がり、特別な日、という価値が付与されます。

カメラを持ち歩くのも同じことで、その日は「わざわざカメラを持ち歩いて写真を撮った日」として、写真を見返す時に、特別な思い出として記憶が呼び起こされます。

カメラで写真を撮るという特別感が、大事なのかもしれません。

カメラで写真を撮るということ

スマートフォンの普及、そしてSNSの普及により、誰でも写真が撮れる世の中になっています。
その中で、他の人とは違う、ちょっと特別な写真を撮るため、写真機としてのカメラに注目が集まっています。

そして、写真機としてのカメラには、カメラで写真を撮るという撮影体験があるという前提のもとで、
・記録としての写真に表現を付与する
・カメラで撮った特別な思い出という価値を付与する

といったものを写真に付与する力があります。

とはいえ、カメラを持ち運ぶ人は、こんなことを考えてカメラを持ち運んでいるかというと、大体数の人はそうではないと思います。

結局、カメラを持ち運ぶ人は、そもそも写真が好き。
だからこそ、ちゃんとした写真機としてのカメラで、写真を撮りたい、という欲求があるのかもしれません。


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