「自分探し」という名の幻想
高校生から大学生にかけてやりがちな「自分探し」。
もしかしたら、そもそも探すほどの「本当の自分」とやらは存在しないんじゃないのか。
そんなお話です。
「仮面が取れない」
私が高校2年の頃に見た高校演劇が、今も心の奥に印象強く残っています。
物語にいたのは、本当の自分を出すことができない男の子。
人に合わせて話をすることや、素の自分を出すことができず、心に「仮面」をつけて人と接していた。
その中で、唯一ある女の子に対しては、「仮面」を外して関わることができていたが、次第に「仮面」を外すことができなくなる……
……というようなストーリーだったと記憶しています。
(5,6年前の話なので少し曖昧ですごめんなさい)
このような、人や場面に応じて作る自分を「ペルソナ(仮面)」といいますが、現代において、人は多くの「仮面」を使い分けないといけない状況にあると思います。
特に、今はインターネットで常に人と接し続ける状況にあり、また、ちょっとしたことですぐに炎上してしまう社会でもあるので、人々にとっての「仮面」の重要性はますます上がっているでしょう。
このような社会の中で、「仮面」をつけ続けたことで、「本当の自分」を見失ってしまった、と思ってしまう人がいます。
(「本当の自分」とは、「仮面」を外した状態の自分を指すことにします)
現代人は、人と関わる時間が過剰に増えたことで、「仮面」をつける時間が増えてしまっています。
だからこそ、「本当の自分」でいられる時間が短くなり、これによって「本当の自分」を見失ってしまった、と思ってしまう人もいるのでしょう。
実は私も、その1人でした。
「本当の自分」などない
最近私は、「本当の自分」というものは、実は存在しないのではないか、と考えています。
というのも、人間の側面というものは、大きく4つの側面がある、という考え方があるそうです。
これは、「ジョハリの窓」というものです。これは、ある人間に対して、
自分に分かっている/分かっていない
他者に分かっている/分かっていない
という側面によって、4つに分類ができる、という考え方です。
例えば、
「常にはつらつとしていて、はつらつとしている自分がアイデンティティである」
という人がいるとします。
その人は、自分がはつらつとしていることを自分自身で分かっていますし、その性格は他者にも伝わっています。
すると、この人のはつらつとした性格は、「開放の窓」にあると言えます。
対して、この人が
「はつらつとしている自分はいるけれど、実は家で大人しく本を読むことが好き」
という側面もあるとします。
すると、大人しく本を読んでいる自分、というものは他者から見えない自分になります。これが、「秘密の窓」というわけです。
さて、この「ジョハリの窓」からも見えるように、自分という存在は、自分が認識できる側面もあれば、他者から認識される側面もあるように、見方によって多種多様にあります。
自分が人前でつける「仮面」も、自分を構成する要素の1つですし、反対に、「本当の自分」だと思っている自分も、自分を構成する要素の1つに過ぎないわけです。
そのため、自分が思っている「本当の自分」とは、自分を構成する一側面に過ぎず、「本当の自分」というものは、そもそも存在しないのではないでしょうか。
「自分探し」という名の幻想
ところで、人は思春期から青年期にかけて、「自分探し」をしがちな傾向にあると思います。
「自分探し」をする人は、色んな人に会いに行ったり、新しいコミュニティに身を置いたり、人によってはバックパッカーなどのような行動に起こしたりします。
しかし、「本当の自分」が存在しないのであれば、「本当の自分」を探さんとする「自分探し」というものも意味をなさなくなります。
とはいえ、「自分探し」で行われる行動は、この考えで全て否定されていいものなのでしょうか?
色んな人に会いに行ったり新しいコミュニティに身を置いたりして、新しい経験をすることは、自分の新しい側面を見つけることに役立ちます。
そして、そこで見つけた新しい側面は、自分の可能性を広げてくれる一因になるでしょう。
「本当の自分」を探すための「自分探し」には意味がありません。
けれども、新しい自分を探すための「自分探し」には、大いに意義があるものだと思います。
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