ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』読んだ
こちらの書籍で紹介されていた、ティム・インゴルド『ラインズ』読んだのである。
インゴルドは人類学者なんだけど、最近は言語、音楽、建築、美術など領域横断的にいろいろ論じており人気らしい。
本書は放題のサブタイトルに「線の文化史」とあるとおり、さまざまな線(lines, threads)にまつわるもろもろを扱っている。
主題は、たんに点と点を連結した線と、運動の軌跡としての線は違うよってことである。
上掲の『急に具合が悪くなる』で引用されていた例でいうと、たんなる二点間の輸送(transport)と徒歩旅行(wayfaring)は違うのだ。前者では途中は関係ないが、後者では途中でさまざまな風景や人との邂逅があるだろう。
あるいは文字だって手書きとタイプされた文字では違う。書く手振りは明らかに書くという行為の一部であり、それだけでタイプするのとは意味合いが異なる。漢字や綴りがわからなくなってときに、手で書いてみると思い出せるという現象からもそのことは明らかである。
そもそも毛筆、ペン、鉛筆などの道具によっても意味合いは変わってくるのである。
つまりタイプされた文字はいくつかの点を連結した線にすぎないが、手書きされた文字は、手振りも含めた軌跡と捉えることができる。
さらに興味深いのは音楽についての考察である。今では歌詞は旋律などのおまけと考えられている。つまり音楽の本質は旋律やリズムであって、言葉は従属的な立場とみなされている。
しかし古代においては、言葉と音楽は不可分なものであった。いや、言葉を印象的にするために旋律やリズムがあったのだ。
逆に言葉においては、現代は音が従属的とみなされている。音の背後になにかイデア的な本質があるかのように考えられている。しかし色々な人が指摘するように、音を含めたnon-verbalな要素は重要な因子であることはいうまでもない。
紙に書かれた詩は、それがタイプであれ手書きであれ、詠まれる詩とは明白に異なる。楽譜と、実際に演奏される音楽とが別物であるように。
デジタル化が進む現代では、シンプルに表現されたものが本質であるかのような印象を受けることも多いが、身体性を欠くと、たんなる輸送になってしまう。現代でも、豊かな体験を伴った徒歩旅行の可能性はつねに開かれているということを忘れてはいけない。
という内容の本であった。こうして要約するとすごく平凡になってしまい、それこそ「輸送」ではないかと思われるだろうが、それは私の力量不足である。本書を読むことは私にとっては「徒歩旅行」であった。
どうでもいいが、生存曲線とかWaterfall plotとかSpider plotとか輸送そのものだなあと思った。