見出し画像

誤りに寛容な社会とそのトレードオフ

上の記事に感銘を受けたので、自分も雑文を残しておきたい。まず引用から。

僕がセブの語学学校「CROSSXROAD」で英文法の先生をしていた時に「おすぎさんの授業にはもうでたくない。文法を気にしすぎてしまって話せなくなる」と言われたことがあります。
「文法的に正しいか、間違いか」なんて、言語を操る時の数ある参照項のうちの一つに過ぎません。でも、僕が授業であまりにも「文法的に正しいか間違いか」ということを強調しすぎたあまり、その生徒さんはすっかり萎縮してしまって、英語を話すことがしんどくなっちゃったんです。

正しさを求めすぎることはときに暴力的になりうるとさらに話は続き、たしかにそうだなあと思ったのだ。そしてそれが自分に向かうと自己処罰になりうる。

そして私もまたセブでフィリピン人の先生に、せっかくこんな田舎まで来たんだから、もっと自信をもってしゃべろうよ、そもそも君は文法ミスはすごく少ないよ、少々間違っても大丈夫だよ、と元気づけられました。。。

日本の英語教育には素晴らしい面がたくさんあるけど、文法的正しさに拘泥しすぎるところがある。私のような受験エリートはその悪い面が露骨に出てしまっていて、本当に話すのが遅い。文法をミスりたくないという気持ちが強すぎるのだ。これはIELTSのスコアにも現れていて、Rは8.5くらいコンスタントにとれるのに、Sはこれ以上ないくらいトレーニングしていた時期に、すごく人の良いExaminerにあたってなんとか7.0だった。

IELTSのスピーキングの評価項目にFluencyがある。要はペラペラと沢山しゃべりなさいということだ。Youtubeには模範演技の動画がたくさんあるが、7.0くらいだとだいたい2分間に200語弱しゃべっているし、8.0超えとなると250語以上が当たり前である。とはいえたくさん話せば話すほど、文法を間違える可能性は高くなるし、それも減点対象になる。こういうトレードオフはあるわけだが、それでもたくさん話すほど、いろいろな構文や口語表現を使えるよとアピールするチャンスも増えるので、結局はしゃべったもん勝ちになる。日本人がスピーキングの点数が極端に低いのは、ミスってはいけないという心理も大いに寄与していることであろう。なおAtsueigoさんも話し続けるのがいいとおっしゃってる。


間違いに寛容な社会とは

この国が寛容でないことは、消費者にとっては非常に快適であることの裏返しであると思えてならない。つまり労働者にとってはめんどくさいということで、海外に駐在していた人たちの多くは、海外の顧客のほうが仕事しやすいと口をそろえる。日本の企業は注文が多いとかなんとか。

私の働く業界でも、医療従事者が(他国から見れば)献身的に働くことにより、世界最高水準の医療を比較的安価にかつ迅速に提供できている。しかしそれでもクレーム、訴訟はなくならない。USを除く欧米先進国は安価に医療は提供できている。しかし英国ふくむ欧州に臨床留学していた医師たちも、医療者側のQOLの良さと、医療サービス提供のいい加減さに言及することが多い。

消費者にとってよい社会では、労働者が報われがたい。世界でも類をみないほど長きにわたるデフレーションもそのひとつの表れであろう。賃金が上がらないのに物価が上がるわけがない。

そして私たちが他者の間違いに寛容であるということは、その安くて快適なサービスを放棄するということだ。消費者にとっては好ましくない方向へ変わるのだ。

私は、タイやセブに何度か滞在して、日本とは比較する気にならないほどに、サービス業は適当、遅いということを経験した。しかしそんなことにはすぐ慣れてしまうものだ。それに現地の人たちはとても幸せに生活しているように見えた、一人当たりGDPは日本の足元にも及ばないのに。

私の数少ない東南アジアでの経験からすると、日本も快適なサービスを手放して、間違いに寛容な社会になれるのではないかと思う。その一方で、昨今の騒ぎで、政府や役所や保健所にえんえんと文句を言っている人々をみると、まあ無理だよな、というお気持ちにもなる。

全ての人間は消費者だが、すべての人間が賃金労働者というわけではない。だから前者の声が大きくなるのはやむをえないのだろう。では、私が東南アジアで見たものはなんだったのだろうか。

サポートは執筆活動に使わせていただきます。