軽部謙介『検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか』読書メモ
以前に平成は残念な時代だったということを書いた。
そしてその直前がどういう時期だったのか再確認しておこうとこの本を手にとってみたのだ。昭和末期のバブル発生について政策面から検証したものである。
著者は経済政策に強いジャーナリストでこのてのルポをたくさんものにしている。マクロ経済政策の理解については甘いところもあるが、一介のジャーナリストにそれを求めてもしかたないので目をつむろう。
本書は、主に日銀マンたちの苦闘に焦点をあてている。プラザ合意後の円高ドル安から物語は始まる。過度のドル安を嫌う米政府、円高に伴う不況から金融緩和を求める日本政府の圧力により、マネーサプライが急激に伸びているにも関わらず公定歩合を下げることを求められるのだ。
これが1985年のことである。この年は御巣鷹山の事故と、阪神タイガースの21年ぶりの優勝が印象深いが、バブルの種はこのときには始まっていたのである。
また当時は旧日銀法下であったため、日銀の独立性が極めて弱い。貿易摩擦解消のため内需拡大を求めるアメリカ、オールドケインジアンを自称する宮沢喜一蔵相らの圧力のもと、マネーサプライの急増、資産価格の高騰がありながら公定歩合を下げていかざるをえなくなる。また一般物価は安定していたために利上げを強硬に主張できないという事情もあった。
さらには銀行の自己資本を8%以上にするBIS規制もバブルの生成に寄与してしまった。米英は自己資本に株式の含み益を算定することに反対していたが、日本は粘り強く交渉して一部繰り入れることを認めさせてしまった。現在から考えれば米英のほうが正しかったということになるわけだが。また8%以上にするために、増資などで分母を1増やせば、12.5貸し出せるということであり、これまた野放図な融資につながったといえよう。
こういったことが各種資料、関係者の回顧などを混じえて語られるので非常に読み応えがある。著者にも、インタビューされる人々にも、もうちょっとなんとかならなかったのかという悔恨と、ああなるしかなかったのだという諦念が伺える。
このアンビバレントな感覚は1990年3月の総量規制についての記述でクライマックスに達する。不動産融資の伸び率を全体の伸び率以下に抑える、住専などのノンバンクについても実態報告を求めるという一通の通達が破壊的な影響をもたらしてしまうのだ。当時の大蔵省にも、日銀にも、政府にも後におこる国民生活への大ダメージを予想できている人はいなかった。暴騰する地価にたいしてなにかしないといけなかっただけだ。真面目に働いても家も買えないじゃないかという国民の正当な不満に応える必要があったのだ。
総量規制があろうがなかろうが、妥当な水準を大幅に超えた地価は暴落する運命ではあったと思う。しかしあんなハードランディングにする必要があったのかどうかわからない。とはいえ、貸し出すなといってるわけではなく、伸び率を水準以下に抑えろというだけの通達がこれほど効くとは思わなかったというのも理解できる。
どうすべきだったか明確な答えはない。もう少し前の段階で地価を抑える方策がとられていればバブル崩壊に伴う痛みはマシだったということはいえるかもしれない。日銀法改正により日銀により強い独立性が与えられたのはこのためであるし、白川方明氏が総裁時代に金融緩和にたいして頑なな姿勢を取り続けたのも自身の苦い経験によるものだろう。
個人的には昭和末期のバブルの発生と崩壊についてもやむをえないものだと思っているが、本書により少しだけその思いが強くなった。内外の状況、日銀の独立性の弱さ、そしてなにより物価が上がっておらず明確な引き締めを主張できなかった、という情勢下ではいたしかたなかったのだ。
しかし総量規制の後の1990年代前半のことはしかたないで済ませてはいけない。この時期のことについてはまたいずれ。