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伊東俊太郎・村上陽一郎・広重徹『思想史のなかの科学』読んだ

科学史とか科学哲学について読んでいると、伊東俊太郎氏の著書を読んでみたくなり、これが一番とっつきやすそうだったので図書館で借りてきたのだ。

古代ギリシャから20世紀まで科学のあり方をおさらいしたとても良い本だ。自然科学は普遍性があるといっても、それは科学の法則が普遍的であるというだけのことで、その成り立ち、社会での受容や利用のされ方などには歴史的であったり、地域に固有のものであったりするわけである。
そういうことがよくわかるし、かといって過剰に反科学に走るわけでもないのがいい。

とはいえ古代と中世についてはあまり詳しく書いていない。ルネサンスからである。

近代市民社会の形成、大航海時代を通して技術者や職人の技芸から近代科学が芽生える。ガリレオ・ガリレイのような職人でありつつ、高い教養を身につけた人もいたが、基本的には大学で教えられるスコラ学の類は退潮していく。そもそもリベラルアーツというのは、奴隷的労働から自由という意味で、実験など手を動かすことを重視する近代科学とは相性が悪かった。

さらに印刷術により知識の拡散と蓄積が可能となる。

ルネサンス期の神秘主義も再興し、新プラトン主義も復活したが、新プラトン主義の数学重視の姿勢がその後の数学や物理学の発展への寄与も見逃せないだろう。

ギリシャ的な合理性と職人の技芸の障壁が取り払われ融合したのがルネサンスであり、ガリレイ、ダ・ヴィンチ、アグリコラ、ヴェサリウスがその典型といえる。
またフランシス・ベイコン、デカルトなど職人的技術を高く評価する知識人もこの風潮を促進した。

18世紀になると啓蒙主義とかいう思潮が生まれ、科学の発展により人類は進歩しているという、現在まで続く楽観主義が発生した。

カントの批判哲学は、それまで学問の総括的な呼び名であった哲学が形而上的な学問として独立する契機となった。他の学問もそれにならい、独立していった。
啓蒙主義の時代に特徴的な学問として、歴史学や経済学がある。前者は進歩史観と、後者は資本主義経済の浸透と軌を一にしている。また進歩史観がやがてダーウィニズムへとつながるのはご案内のとおり。
あるいは啓蒙主義へのカウンターとしてロマン主義が勃興したのもこの時代である。

啓蒙主義もロマン主義も後進国のドイツが主体であったのは興味深い。ロマン主義の香りを残すヘーゲル哲学、これに続くフォイエルバッハやマルクスもドイツ語圏から出ている。

自然科学においてはフランシュの啓蒙主義者たちが化学、熱力学、電磁気学を発展させた。パスカル、ダランベール、ラヴォアジエ、カルノー、フレネル、アンペールなど。

しかし、科学の成果を活かして、18世紀から19世紀の産業革命をリードしたのはイギリスであった。

19世紀末になると相対性理論のように、それまで公理としてアプリオリに受け入れられていたものが覆される事態が頻発した。またX線、微粒子などの発見、原子物理学、統計力学、量子力学など微視的世界の物理学が確立されていく。
(本書は1970年代に出版されたので、ホーキングとか超弦理論とか量子もつれとかそういう話はない)

これに情報革命が加わって現在まで科学革命が続いているのであった。

20世紀のもう一つの特徴は、それまでは個人の知的営みだった科学が、国家にガッチリ組み込まれることだ。このプロセスは産業革命のころには始まっていたが、第一次大戦ころに確立される。

その意味で科学からイデオロギーから独立であるはずがない。さらには流行り廃りで科学のどの分野に人が集まるかといった、社会的要因も大きく影響するだろう。

今では科学はすっかり制度化され、国家だけでなく大企業も大金を投入しており、とてもではないが価値中立的とはいえなくなっている。

どの分野にどれだけリソースを投入するかは極めて政治的あるいは経済的な要因で決まっている。もちろん科学に内生的な要因も影響していようが、科学が純粋に内在的価値だけで成立していると考えるのはナイーブにもほどがあるだろう。

例えば、ナイーブな人には科学と政治の綱引きに見えることも、たいていは政治と政治の利益相反なのである。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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