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広中平祐『学問の発見』読んだ

極めつけに意識が高い本を読んでしまった。

高名な数学者である広中平祐さんが学ぶとはなにかを存分に語ったものである。

学問をするとは究極的には創造であるという。ポアンカレによると、創造とはマッシュルームのようなものらしい。つまり松茸なのだが、松茸の根は条件が良いと果てしなく成長してキノコを作らないようだ。
これを人間に例えると、逆境がないとひたすらインプットを続けてしまい、創造性を発揮できないということになる。
自由に発想するのに何らかの制約が必要であるのは皆さん御存知のとおりである。

なお広中平祐さんは天才肌ではなく努力の人であったらしい。例えばガロアのような、幼少期より天才の名を恣にして駆け抜けていったタイプではないとのことである。

だから同僚などで圧倒的な天才に出会うことが多々あったという。そのときに重要なのは諦めとのこと。適度に諦めることで無用の嫉妬心を生ずることなく、健全な競争心をもてるようだ。

まあ広中さんもかなりの天才の部類であると思われるが、上には上がいるということだね。だから私のような雑魚がほどほどに諦めたところでどうということはないのだ。

もう一つ興味深い指摘は、数学とは技術であるべきとのことだ。数学のような抽象度の高い学問は極めると哲学的になっていくことは容易に想像できる。しかしあくまでも技術を極めたものだけが哲学を語れるのであると広中さんは強調している。

これを高名な岡潔氏を引き合いに出して説明しているのが面白い。氏の講演はひらすら哲学や精神論で、参考にならないと広中さんは思ったらしい。

数学に限らず武道などにもこれはあてはまるかもしれない。哲学よりも前に技術があるべきだと私も思う。技術を極めた者が哲学的なサムシングを掴み取ってくることは大いにあるとしてもだ。


まとめると粘り強く技術を高めて、アウトプットしていきましょうってとこだろうか。良い本でした。

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