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鈴木健『なめらかな社会とその敵 ──PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』読んだ

やっと読んだ。

民主主義の未来について語るときしばしば引用されるのが本書である。初出は2013年だが、今年に文庫版が出た。10年間の変化を踏まえた補論も付されておりお得感満載。

そもそもなめらかってどういうことかというと、カール・シュミット的な友と敵に分断されていないことである。たいていの人とそこそこ仲良くできるし、ほどほどに対立するのが人間というものだが、国境とか国籍とか壁ができると、ゼロイチで敵と味方に分かれてしまう。
人と人の関係とか、共同体と共同体の間、情報や物資の流れは離散的なものではなく、もっとなめらかであってもいいのではないか、そうすれば戦争のような悲惨な対立を避けられるし、交友から得られる幸せの総量も増やせるはずだ。

著者は友と敵の間を細胞膜のアナロジーで語る。そういう議論が必要かどうかはわからないが面白い。膜の内側と外側ができることで所有の感覚が生まれる。本来は流れ(currency)であった貨幣が、内側に蓄積されることで資本となる。

ここでオートポイエーシスとか、F.ヴァレラを引用して、生命とはなにかみたいな話がえんえんと続いていくのだが割愛。

近代は自由意志を前提とした主体、一貫性をもって責任をとれる主体を前提としてきたが、無理のある想定だ。人は変わっていくし、また色々な側面をもっているものだ。

自分とか所有とかの概念がもっとゆるやかであるために、伝播投資関係システムPICY(Propagational Investment Currency System)なるものを提唱する。

大雑把にいえば個々の主体は取り引きのたびに「評価」をためていく。この「評価」は貨幣のように購買力としても使えるが、株式のようにも機能するう。取引相手が別の誰かに財を売って評価を得たら、その一部を連結決算のように売ることを期待できる。

経済活動における貢献の度合いに応じて購買力が得られるので、市場外部生を取り込むことができる。ただ価値がマイナスになることはないので、負の外部性を取り込むことができるかは微妙なところ。

持てる者であっても、持たざる者であっても、全ての取り引きが投資的になるから、資本家とそれ以外という分断が生まれにくい。つまりよりなめらかな社会となる。

さらに中央銀行のようなものを設定して、その「評価」を自然回収する仕組みも組み入れられている。つまりゲゼル通貨みたいに減価していくから、貨幣フェティシズムが生じにくい。

なめらかな社会を実現するために、分人民主主義も提唱している。一票を分けて投票できないのは明らかに不合理だと思うので、これは素直に賛成できる。

ここでも伝播型の委任投票システムを組み込もうとしているようだ。極めて合理的な仕組みで、つまり自分が詳しくない分野については詳しい人に委任すればいいというわけだ。

ここまでが本書の核の部分。

あとは私にはおまけに思える。でも面白いので、いくつか拾っておく。

貨幣のメディアとしての性質について、

まったく異なる認知的視点をもったエージェントが、貨幣という「のり」を通して結びついてしまうところに、貨幣の興味深い性質がある。貨幣は足し算して集積可能なもので、同一の価値基準をもっているようにみえるにもかかわらず、異なる解釈と身体認知プロセスで利用されているという点に、貨幣というネットワークメディアの肝がある。

と述べる。私にとっての1万円とビル・ゲイツの1万円はまったく意味合いがことなるのに、等価ということになっている。非常に不思議なことだと思っていたが、貨幣が異質なものをつなぐメディアと考えればさほど不思議ではない。
そして電子マネーはさらにこのメディア性を増して、より複雑かつ重層的に身体や欲望を結びつけるから、他人からは理解不能なお金の使われ方が増えるだろうと論じている。

あるいはそれとは逆にインターネットや電子マネーは、クラウドファンディングのように理解しあえるもの同士を結びつける。事態は両極化しつつあるのだ。

ここで唐突にホッブスとかロックとかルソーとかの社会契約論がひとしきり続いたのち、社会契約がいかにアップデートされうるか、つまりなめらかになるかという話につながっていく。

ライフログデータを用いればルールを離散的なものから、連続的、複雑、多様にできる。例えば、タバコを吸わない人が多い場所は禁煙だし、喫煙者が多くなれば喫煙可と、フレキシブルに変わる。

これが日本人の無責任気質を変えるかもしれない。

多くの日本人にとっては、政府とは責任を押し付けるべき対象の他人でしかない。うまくやるのが当たり前で、問題があれば責任を追求すべき存在、それが政府である。だが、市民革命を経てきた国々では、国民の意識は異なっている。リンカーンの有名な言葉にあるとおり、「私たちの政府なのだ」という自覚があるからだ。

なめらかな社会では、人々の志向性によってルールがフレキシブルに形成され、変化する。このような構成的社会契約は、「私たちの政府」どころか「私の政府」という認識を人々がもつほど、ガバナンスの解像度が細かくなるだろう、と著者は論じている。

たしかに我が国は社会契約論を前提とした西洋的な制度を導入しているにもかかわらず、その理念は輸入されなかった。いや、昔に制度を作った日本人は意識していたかもしれないが、どうも理念までは根付かなかった。だから政府を他人のように考えて、気ままに文句だけ言う人が多いのかもしれない。

情報技術によって人々の意思が細かく、半自動的に実行される環境が整備されれば、社会契約ってことを意識せざるをえなくなるだろう。

ここで最初にもどってまた友敵理論の説明。
そもそも資源が豊富にある場所では争いはおこりがたく、あくせく働くこともない。南太平洋の島嶼地域では、お腹が減ったら果物やお魚がいつでも十分に手に入るから、そんな必要はないのだ。

しかし人口が増えて資源が希少になると、所有の概念が発生し、内と外にわかれる。

そうして例えば国家間では、対外的には軍事力による戦争の危険が常にあるが、内側は警察によって平和が維持されている。
もちろん内側であっても、ゲーテッドコミュニティのように内と外に分かれているかもしれない。

こうした外は戦争だが内は平和という極度に離散的な情況をもっとなめらかにするには、危害が限りなく少ないレベルの暴力を内包させるしかない。最小限の暴力を偏在させて、戦争という悲惨なカタストロフを避けるわけである。

暴力の総量を劇的に減らすことが難しいなら、これは合理的な解決策と思われる。世界の多くは南太平洋の島ではなく、所有や友敵の概念を獲得してしまっており、もはや暴力をなくすことは難しい。そもそも南太平洋の島々にしたところで、アメリカやフランスという暴力装置に生存を頼っているのだ。

暴力を分散させること、そして暴力の主体を透明にしすぎないことが大事だと著者はいう。

日々起きることの理由があまりにも透明に理解できてしまったとしたら、それらを制御しようと懸命になる者もいるだろう。その努力こそが、社会を重苦しい制御機械に陥れてしまう。

SNSでお気持ちを暴走させている人たちを見るにつけ、まことにそのとおりですなあというほかない。あるいは全国民レベルで因果関係の発掘に躍起となり、息苦しい社会を現出させたのが、さる疫病であったのはいうまでもない。


という感じで読み終えたのだが、自分がいま考えていることのほとんど、そしてそれ以上のことが10年も前に本になっていたことに驚きと恥ずかしさを覚えた。

あとがきでお世話になった人たちが紹介されているが、多くが今をときめくスターである。例えば、東浩紀、森田真生、井上智洋、青木昌彦(故人)、成田悠輔、神保謙、下西風澄、近藤淳也など。著者の頭の良さになんとなく納得がいったのであった。

また柄谷行人の頓挫した活動NAMにもかかわっていたらしい。

たしかにNAMでは、本書と同様に、地域通貨の話題が多かった。

批評空間とかNAMとか、今では馬鹿にする人も多いが、生み出したものも大きかったのだなあと感慨にふけるのであった。



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