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逃げの歴史

大学時代、卒論の口頭試問でゼミの教授から、「あなたは、とてもうそつきですね」と言われました。今でも、何かを主張しようとするたび、「あなたは、とてもうそつきですね」という言葉が、そのときのトーンのまま、頭の中で響きます。

私は自分の性格を、好きなことに向かって突き進んでいくタイプだと自己分析して生きてきました。しかし先日、歯を磨きながら、突然気付いてしまったのです。本当の私は、大事な選択をするとき、好きなことに向かうのではなく、嫌いなことに背を向けて突っ走るという方法で、人生を進めてきたということに。そして、そのことを周りにも自分自身にも悟らせないよう、うまくすべてをだまして、ごまかして生きてきたということに。そのことに気付いた時、また、教授の「あなたは、とてもうそつきですね」という言葉が、頭の中で響きました。

中学1年生のとき、人間関係がどん詰まりで、つらくて、親に頼んで転校をしました。父の転勤で住んでいたその場所は、当時かなり学校が荒れていた地域で、妹の通っていた小学校でも学級崩壊しており、今後のことも考えて、父に単身赴任をしてもらい、私が中学2年生のとき、母と私と妹で地元に帰ったのでした。その後は地元の中学校で、比較的穏やかな2年間を過ごすことができました。

高校では、演劇部に入りました。人の目を見て話せない自分の性格がしんどくて、自分とまったく違う役を演じれば、自分でないものになれると思い、ある意味、自分から逃げるために、演劇部を選択しました。演じることはとても楽しくて、これは結果的に、とてもいい選択でした。

大学は、大の苦手な理数系が受験科目にないところを選びました。もちろん最終的には、この大学でこれを学びたいという前向きな思いで決めましたが、理数系の勉強をしなくていいというのも、正直、大きな決め手の一つでした。おかげで、高校受験より大学受験のほうが、だいぶ楽でした。

就職活動も、逃げの姿勢で挑みました。就職氷河期の末期頃で、大手企業なんてエントリーシートを送っただけでばんばん落とされたので、早々に大手企業は諦め、そのうちに総合職を諦めて、最終的には、秋の暮れにようやく、新聞広告に求人を載せていた小さな会社の事務員に落ち着きました。それはそれで、自分にとってとてもいい選択だったので少しも後悔していませんが、当時、目の前で繰り広げられていた厳しい戦いから逃げたことは確かです。

このほかにもいろいろ、挙げればきりがないくらい、私は逃げの選択を、たくさんしてきました。むしろ、真っ向から勝負を挑んだことなんて、どれほどあっただろうか。どうしても第一志望の高校に入りたくて必死で頑張った中学3年生のころぐらいまでさかのぼることになりそうです。

教授が私を「うそつき」と言ったのは、私が逃げの選択をしているからではなく、そのことを誰にも悟られぬよう、周りも自分自身も欺いて生きていたからなのでしょう。卒論のテーマに、それほど専門的な本をあたらなくても書けそうな内容を選び、そこまで深掘りせずそれなりの形に仕上げて提出し、がんばってやりきったような顔をして座っている私のずるさを、見抜いたのでしょう。

あれから約20年の時を経て、今ここで、そうです私はうそつきです、本当は逃げ腰の人生です、と白状したので、もう許してほしい、もう頭の中で響かないでほしい、そう願います。尊敬していた目上の人からうそつきの烙印を押されるのは、普通にしんどい。

好きなことに向かって突き進むのと同じくらい、嫌いなことに背を向けて突っ走ることは、力の要ることです。だから、逃げの姿勢で生きることを、悪いこととは思いたくありません。自分の人生を進めていく原動力として、「好き」と「嫌い」の、どちらが勝っているか、それだけのことだと思います。
私の場合、好きなことができなくても、まあそんなもんだよなとある程度は諦めがつくけれど、嫌いなことをするのは心身共にすごくしんどくて負担で、できる限り避けたいから、人生の選択において、嫌いに背を向けて突っ走るほうのパワーを優先的に使うことが、どうしても多くなるのでしょう。
本当は、「好き」をパワーにできるほうが、なんだか、明るくて前向きな感じはするけれど、これはもう、性格だから仕方がありません。

母親になってからは、学校関連のPTA役員とか、保護者会とか、ものすごく嫌いだけれどもどうしても逃げられない要素がいろいろ人生に付加されて、これまでもろもろ、修業だと思いながら乗り切りました。
そういえば、自分が子どもで学校に通っていたころも、逃げたくても逃げられない行事やら授業やら、いろいろあったよなあと思い出します。学校というのは、「嫌い」をパワーにして動くのが難しい場所なのかもしれません。
実際私も、自分のことは棚に上げて、子どもたちには、「嫌い」より「好き」を原動力にしてほしいと、願ってしまいます。なんとなく、そのほうが生きやすいような気がしてしまうから。つくづく、勝手なものです。

これまでもこれからも、私は、逃げられる場面では逃げながら、逃げられない場面では、これは修業これは修業早く終われこれは修業と頭の中で唱えながら、この日々を暮らしていきます。なるべく、正直に。