見出し画像

これは手紙

文語調、いわゆる「である調」で文章を書こうとすると、どうもうまくいきません。文体がどうであれ、書こうとすることは同じはずなのに、慣れない靴を履いて歩いているように、言葉がつんのめってしまいます。

それはいったいなぜなのだろう、そもそも私がnoteで書いているこれは、いったい何なのだろうと、考え出したら止まらなくなりました。まず、小説や詩ではない。かといって、エッセイや随筆でもないし、評論やレビューでもない。日記というほど日々のことをつづっているわけでもない。自分で自分の書いているものの得体が知れないのは気持ちが悪いので、何だろう、何だろうと考えていて、昨日ふと、自分が人生最初に書いた文章のことを思い出しました。

私が最初に書いた文章は、お手紙でした。ひらがなを覚えたばかりのころ、文字を書けることがうれしくて、隣の家に住んでいた5歳年上のお姉さんに、しょっちゅう手紙を書いて渡していたのです。まだ罫線に沿って書けず、大きな文字をぐるぐるうずまきのように紙いっぱいに並べた手紙を、当時小学生だったそのお姉さんは、いつも一生懸命解読して、お返事をくれました。光GENJIに関するやりとりがあったことだけは、今でもはっきり覚えています。

その後、小学校に上がってからも、転校して離れ離れになった友達にはいつも手紙を出したし、身近にいる友達にも、本当に伝えたいことがあるときには、手紙を書きました。その文章が変な誤解を生んで失敗したことも何度かありますが、それでもやっぱり、手紙を書くことが、自分にとって一番気持ちを伝えやすい手段でした。
学校の作文帳も、私にとっては、先生に向けて堂々と手紙を書ける便箋のようなものだったから、大好きでした。直接話して伝えることが苦手な私にとって、「先生聞いて!」という気持ちを思い切りぶつけられる作文帳は、一番大事なノートでした。先生のくれる、花丸や波線や一言感想は、何よりの喜びでした。

私は文章を書くのが好きだと、ずっと自分で思って生きてきたけれど、本当に私が好きなのは、手紙を書くことなのかもしれません。実際、小説やエッセイや評論は、何度挑戦しても、うまく書けたためしがありません。短歌を詠むのが好きなのも、短歌というものが古来から、手紙の性質を含んでいるものだからかも・・・というのは、少しこじつけでしょうか。

日記でもエッセイでも評論でも小説でも詩でもない、私のnoteは、誰かに宛てた手紙。自分の書いているものの正体が分って、とてもすっきりしました。すっきりしたので、この勢いに乗って、仕事をします。