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実家の親が元気という幻想は人類のバグ〜戸惑い編

これは、ある日突然、82歳のアルツハイマー型認知症の父親(以後:やっさんと呼びます)の介護をすることになったわたくし一個人の話。


はじまり編でやっさんとの対峙、母の入院などを振り返ってみて、あらためてあの時期に感じていた“世界から切り離された感”は異常だったと思う。

一生懸命、前に進もうとオールを漕いでも、ぐるぐると円を描くだけのボートに乗っているようだった。
波も立たず風も吹かない湖の真ん中で、ぽつんと取り残されて、ただただやっさんと向き合っていた。

ふたりで過ごしたあの冬を、この先忘れることはない。



休職宣言! お暇をいただきます

姉と入れ替わりで関東圏へ戻ったわたしがすることは自ずと決まっていた。
勤めていた会社へ休職を願い出ることだ。

当時のわたしの仕事は雑誌の制作進行だったのだが、タイミングよく(と言っては失礼な話だが)穏やかな時期であった。

しかしながら、長期で休むことになると、丸々自分の仕事を誰かに引き継いでもらわなければならない。

前もって実家の状況を説明していたので仲間には話が伝わっていることはわかっていたが、肝心の社長には当然自分から話をつけなければならなかった。

就業前、通勤途中で電話をかけた。

「話は大体聞いているかと思うのですが……お休みが欲しいです。父親の面倒を見られる人がいません。」

右の手のひらで喉元をトントントンと小さく叩き、出だしでうっかり涙が出そうになったのを飲み込んだ。喉が熱かった。

目が離せないやっさんの状況と母親の病状、この事態にわたしがすべきことと、したいことをなるべくわかりやすく伝えた。
実際「いつからなら現場に戻れる」と明確な日数を提示できない状況もあった。母が退院するまで? 父を施設に入れる日まで? 予想すらできない。

長期で休んで自分が戻ってきたときの居場所はあるのだろうか…という不安は無くはなかったのだが、あまり重要ではなかった。ぐっと腹の底に押し込めた。

社長は穏やかに話を聞いてくれた。声もいつもと一緒。
わたしは社長の判断に身を委ねるしかなかったのだが、どうしても休みをもらわなければという覚悟が勢い余ってこんな言葉になって飛び出した。

「給料いらないんで!休ませて欲しいんです!」

(はい。賢い方ならお分かりになるかと思うが、これ、言ってはいけないやつのなので気をつけてください…。知らなかったくせに偉そうに経験者ぶって語りますが…日本には介護休暇という制度が法律で定められています。さらに給与の3分の2が支給される“介護休業給付金”というものもあります。焦らず調べてから交渉しましょう。わたしの場合は代休と有給から消化していく方法をとりました)

この給料いらない発言が響いたのか(そうであれ)、元々打開策を考えていたのかはわからないが(多分こっち)、改めて直接話し合いを持った結果、およそ1ヵ月をめどに休ませてもらえることになった。

この時の潔い社長の決断にはスライディング土下座=感謝しかない。

そして、ほぼ仕事を丸投げすることになったわたしの突然の離脱宣言に対し、引き継ぐ側の人間たちの心の広さに泣いた。

幸か不幸か介護をすることになって一番救われたのは、周囲の人間たちの“やさしさ”に気づけるようになったことだ。
ほんの些細な気配りや行動や言葉が、膝から崩れ落ちて地面に突っ伏した人間の胸の中に、小さな明かりを灯してくれた。

「立ち上がることを許されたのかな」と迷わず思えたから、肘に力を入れて地面を押しあげることができた。この時期に支えてくれた人たちのおかげである。

そんなわけで、身体の半分は“仕事”でできていると思い込んでいた自分が、休業してやっさんの介護をすることになった。
当初は、なんとかやってやるという意気込みだけはあった。入院した母が戻って来るまで…。
いざ!いざ!やっさんの元へ!

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ヘルパーさんは魔法使いじゃない

意気込んだはいいけれど、認知症なるものをトレーシングペーパーぐらいのうすーいイメージでしか捉えていなかった自分が、つきっきりでやっさんの介護をする…そんなことできるのか……未知なる沼に足を踏み入れる恐怖に吐き気が止まらなかった。

介護当初、想像のできない出来事が起きるたびにいちいち自分が過剰に驚き戸惑ったことで、それがやっさんに伝わり不安を煽ることが幾度もあった。

母のいない生活にやっさんも慣れていなかったのに、だ。
思い通りに行かない歯がゆさをすべてやっさんにぶつけた。

本来ならやっさんに浴びせる必要のなかった暴言の数々は、どうかどうかお空に浮かんで消えてくれていてほしい。罰ならば、いつか自分が死んだあとに、スッキリさっぱり受ける覚悟でいる。


初日、ケアマネさんとホームヘルパーさんとの面談があった。朝からご飯と服薬、来客準備とバタバタしている最中にキッチンからパァァァーン!!と破裂音がする。

振り返って驚愕した。この忙しいときに、なにやらかしとんじゃい!

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やっさん、殻付きのゆで卵を電子レンジでそのまま温めようとして破裂させていた。
気が遠くなる…。
約束の時間まで10分もないのに…。あぁ、化粧ができなかった…。
結局、たまご臭が充満したリビングで、自分はすっぴんをさらした状態で面談は行われた。

ケアマネさんがやっさんとその家族である自分たちに向けて計画してくれたケアプランを聞き、了承できたら契約書を交わしてサービスを受ける。

介護度によって大学の単位のようなものが点数性であり、その点数をうまく配分してサポートを受けるのが介護制度利用だが、今回はヘルパーさんを利用することの契約である。

女性ふたりが交代で週に2回来ていただけることになった。やっさんはなにもわからず彼女たちと顔合わせをしたが、きっとすぐに忘れてしまうだろう。

案の定、ヘルパーさんが家のチャイムを鳴らし中へ入ろうとすると、やっさんはリビングにいるわたしの顔を見る。どうやら中へ入れていい人なのかを確認しているようだった。
わたしが「こんにちわ。今日もよろしくお願いします」と話すと玄関のドアを開ける。しばらくは、そんな日が続いた。

しかし、このヘルパーさん。回数を重ねるごとにどうにももどかしさばかりが募っていった。
当たり前だが、こちらの願いをなんでもかんでも叶えてくれるわけではない。

基本的な家事をお願いしたいと思っていたが、介護者単体が有益になることしかできないのがなんとも歯がゆかった。
洗濯物を干してもらいたいとお願いしたら、やっさんのものだけしかできない。

そのときは、仕方がないので自分のものは別に分けておいてヘルパーさんが帰ったあとに自分で干したが、やっさんのものと自分のものを別々に分けて洗うのは非効率だし、分けて置いておくのも億劫になり、しまいには洗濯物はお願いしなくなった。

山の麓の家にいるのに車がない自分にとって、普段の食料品や日用品の買い物もかなりハードな案件だった。
隙間時間を使ってどうにかなんとかしていたのだが、どうしも買いに行くことが困難なものがあった。
日に日に増してくる寒さに比例して使用頻度も高まっていく灯油の買い出しである。だが、その願いもやはり叶わなかった。
ヘルパーさんの仕事の範囲内に灯油の買い出しは入っていない。

他にも部屋の掃除はやっさんが使う部屋だけ。トイレ掃除はできるけど、お風呂場や脱衣所の掃除はできないなど、できることの線引きが曖昧すぎてわからない。

ヘルパーさんのできる介護はどの範囲なのか調べてみたが、明確な指標のようなものはなく、市町村によってもその対応は変わるらしかった。
またヘルパーさんによって「それはできません!」と一度拒否されるとそれ以上なにを頼んだらよいのかわからなくなってしまい、1時間という決められた時間をもてあますことも多かった。

そのため、いくつか“してほしいこと”を連絡帳に箇条書きし、できることからやってくださいというスタンスでお願いをすることにした。
けれど最終的には、介護サービスの利用方法に逡巡することに疲れ果て、当たり障りのないことしかお願いできなくなってしまった。

元々は母の介護の負担を減らすことができるなら…とヘルパーさんの利用を試してみたのに、わたしですらこんな状態で「掃除も洗濯も自分でできる。お金もかかるし必要ない」と言っていた母が積極的に利用するかと言えば答えはNOだろう。

我が家は使うタイミングがなかっただけで、例えば、食事や入浴、排泄の介助もお願いすることは可能だ。
寝たきり介護をされている方にしてみたら、とても有意義に使えるサービスなのかもしれない。

ただ、やっさんは医療従事者以外の他人に身体を触らせることは一緒にいた限りなかったし、一度自分が家から離れていたときにヘルパーさんが訪問した際、やっさんが家の中に入れてくれなかったということもあった。

世の中にある様々な制度は、まず知っていることが大前提で、その先に「どうその制度を使いこなすか」が重要であることを身をもって知った。

自分が抱えている仕事をいかに別の人に託せるか、仕事ができる人はそれができるように介護も裁量が必要だった。
“自分がやった方が早い”と、任せることを放棄して抱え込むと身動きが取れなくなる、それと同じ。

結局、自分はヘルパーさんを信用して任せることができなかった。
お願いできることとできないことの取捨選択を面倒くさがった。
でも、こんなに痒いところに手が届かないサービスに利用価値なんてあるのだろうか、とは今でも思っている。

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絶望の淵に直立不動した、たった2日で。

やっさんと一緒に暮らしはじめて、わたしはわずか2日ほどでウンザリしていた。最初は面白がっていたやっさんのヘンテコな行動が、毎日同じ頻度で正解を得られないまま繰り返されるのである。

うん、まぁ、正解なんて元からないのだけれど。わかっているのだけど。

認知症患者の介護によくあることのなかで、最初に面食らったのは、やっさんが同じことを何度も聞いてくることだ。それはもう壊れたラジカセのようだった。

①「おかやん、なんで帰って来ないんだ」

「いや、何度もさっきから言ってますけど。体調崩して入院してるんだよ」

②「聞いてない! 今はじめて聞いた」

母が入院しているということを、1日に何度も何度も説明をする。
この “意思疎通ははかれるのに、実は通じていない” という事実がわたしのメンタルをじわじわと破壊していった。

③「なんだべ。元から身体強くないからな」

③の発言が出たということは、わたしの言ったことに対して納得してるということだよね…と思った10分後には①に戻る、を繰り返す。

次第に “どうせ説明しても忘れる” “どうせまた聞いてくる” どうせ、どうせ…という諦めに支配されていった。

やっさん相手に怒り狂う自分の不甲斐なさに悲しくなって落ち込むため、スケッチブックにこう記してダイニングテーブルの上に置いたままにした。

「10/10から、母、入院してます 〇〇病院」

終いには、やっさんが母のことを聞いてくるたびに、その問いには何も答えず、わたしは無表情でスケッチブックを指差すだけになった。


いつだったかーーーー。

わたしが買い物から帰ってくると、夕暮れのうす暗いダイニングでやっさんが複雑な顔をしながら片肘をつきスケッチブックを1枚1枚眺めていた。

スケッチブックには「明日は病院です」「ごはんを食べたら薬を忘れずに飲む」「買い物に行ってきます。すぐに戻ります」「昼はお弁当を食べてください」といったやっさんに向けての言葉が何ページも残されていた。

自分が狂わないようにと苦肉の策として投入したスケッチブックが「役に立っていたんだなぁ」と思ったと同時に、わたしはあることに気づいて愕然とした。

記憶をなくしてしまうからこそ、やっさんはスケッチブックを開くたびに、母の入院を知らされていたことになる。

やっさんの本当の気持ちはわからないが、やっさんが母を想っていることをわたしは知っていた。そんなやっさんを、わたしは自分が書き捨てた文字でもって、殴り続けていたのではないか…。

すでに日付の感覚がなくなっていたやっさんは、スケッチブックの“10/10入院”の文字と、カレンダーと、新聞の日付を顔を上げたり下げたり、メガネを外したりかけ直したりしながら何度も確認していた。

そのときのやっさんの姿を思い出すと、今でもわたしは泣いてしまう。たとえ正解がなかったとしても、問題を解こうとすらしなかったわたしは愚かだった。


IMG_1227のコピー

次回へつづく。






これからもし家族の介護をはじめる人がいたら、わたしが唯一参考にした本を紹介したい。
医者には書けない! 認知症介護を後悔しないための54の心得 (廣済堂健康人新書)
当時のわたしは、誰かのブログを読んだり介護の記録をのぞけるほどの体力が一切なかった。
ドラクエ風にいうと、攻略法を記した書物を探す前にHP1でモンスターが確実に現れる洞窟には入っていけなかったのだ。
そんなメンタルがスライムのようだったわたしが、どうにも立ち行かなくなったときに、唯一の“パーティ”となってくれたのがこの本である。
「そうすればよかったのか!」という発見がわたしにはあった。救われた。

認知症は、その人の生き様が発症後に如実にあらわれる。
だから個人差があって当たり前で、対応におわれる家族の悩みはそれぞれ違う。解決策も同様に。
だからなにも武器を持たぬまま突き進むよりはずっといい、と考えてほしい。そのぐらいの感覚で誰かの体験記や指南本を読むのがいいと思う。

もれなくやっさんのあんぱん代となるでしょう。あとだいすきなオロナミンCも買ってあげたいと思います。