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「攻殻機動隊」と仏教(草薙素子 編)

Netflixで「攻殻機動隊」の新シリーズ、「攻殻機動隊 SAC_2045」が始まった。

https://www.netflix.com/watch/81051542

一ファンとしてこれは見逃せないと、これまで手を出してこなかったNetflixに加入。第一シリーズ全12話を見終わった。

この「攻殻機動隊」は、草薙素子(以下「少佐」)を主人公とし、彼女の所属する「公安9課」という内務省・首相直属の特殊任務を行う機関が、テロリストやハッカー、さらには不正という悪と戦う物語。さらに「電脳」という脳が直接ネットに接続できたり、「義体」という人体をサイボーク化するテクノロジーが発達した近未来を描くSF作品となっている。

「攻殻機動隊」の見所の一つは、少佐率いる「公安9課」とテロリストやハッカーたちとの頭脳戦だ。正体の見えない敵をサーチし、追い詰めていくという近未来の刑事ドラマのような展開が、なにより面白い。さらに「光学迷彩」などを駆使したバトルシーン、そして相手の「電脳」をハックする「電脳戦」と呼ばれる戦いなど、実にエキサイティング。

登場するキャラクターも実に個性的で、「公安9課」のメンバーはもちろん、テロリストたちもまた謎と魅力に溢れた存在感をはなっている。

草薙素子という存在

そんな「攻殻機動隊」だが、裏のテーマとして自分自身の存在の不確かさに悩む少佐の姿がある。シリーズによって設定に少し変化があるようだが、「STAND ALONE COMPLEX(S.A.C.またはSAC)」と冠されたシリーズで少佐は、搭乗していた飛行機がミサイルによって撃墜されるという事件に巻き込まれ、助かるために全身を義体化・電脳化した人物とされている。

つまり、元の自分の身体というものを一切持たず、義体も年月や、戦いの中で傷つき、すべて取り替えをすることなどを繰り返されるものであることから、「身体=自分」という自己の存在を裏付けるものの一つを欠いた存在である。

また電脳をハックするという技術もあることから、「偽の記憶を上書き」ということも可能で、自分の記憶すらも自己存在を揺るぎないものとして担保するものになりえないということもあり、少佐は「本当に自分は自分なのか?」という悩みと常に向き合っている。

「攻殻機動隊 S.A.C.」の中では、腕時計に拘泥する少佐の姿が描かれているが、ずっと持ち続けている腕時計を持っていることが「自分が自分であることの証」(外部記憶装置と言われている)となっており、少佐が自己存在の不確実性に悩むことを象徴するようなエピソードである。

「ゴースト」と「我」

さらに物語の中では「ゴースト」という言葉が一つのキーワードになっている(「攻殻機動隊」も「GHOST IN THE SHELL」という別名がある)。それはいうなれば、「魂」のようなものであり、電脳や義体というテクノロジーによって、自分というものの存在があやふやになってしまう世界にあって、肉体を失っても、義体(シェル)に宿る「私を私たらしめるもの」として用いられる言葉だ。

これは、どことなくインド思想における「我」というものを想起させる。「我」とは、「私を私たらしめる、不変の要素」というように表現できるものであるが、電脳化や全身義体化によって、意識も記憶も肉体も自己存在の確かさを証明するものにならないという状況にあって、それでも何か自分を自分たらしめる、決して変わらないものがあるはずだ、として導き出されたのが「ゴースト」であるとするならば、「ゴースト」とはまさに「我」と言い換えても、あながち的外れではないように思える。

そして、少佐の持てる悩みとは、「私を私たらしめているものは一体なんなのか?」「私は本当に私なのか?」ということであるが、しかしよくよく考えれば、これは電脳化し、全身義体となった少佐という特殊な存在に限った話ではなく、私にも当てはまることでもないだろうか。

不確かな存在としての私

少佐は全身を機械化し、元の肉体というものは一切なく、機械化した体でさえ、全とっかえを繰り返している。「テセウスの船」という有名なパラドックスを地で行くような存在だ。けれど、それは実は少佐に限った話ではない。私もまた、細胞の新陳代謝が行われており、正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わるとさえ言われている身体で生きている。つまり、3ヶ月前の私と、今の私とは、別の入れ物と言っても過言ではない。それに気づいていないだけなのだ。そう考えた時、確かにそこに連続性こそ認められるが、肉体をもって、私を私たらしめるとは言いにくい。

では意識や記憶はどうだろう。昔の自分の記憶がある。ならば、過去の私と今の私は地続きの存在で、それは私を私たらしめるものと言えるのではないか、と考えられそうだ。しかし、その記憶は本当に確かなものなのだろうか。自分で意識し、考え、行動しているんだから、自分は自分だと、自分では思っているけれども、その考えのベースとなっているものは、本当に自分由来のものだろうか。そんな風に突き詰めて考えていくと、私もまた、「私を私たらしめている要素とは一体何なのだろうか?」「私は本当に私なんだろうか?」という疑問にぶち当たる。少佐の抱える悩みは、私たちは意識こそしていないものの、私という存在に大きな疑問を投げかけるものなのだ。

ところが仏教では、「我」というものは存在しないという立場を取る。それは「無我」と言葉で表されるが、不変であり、周囲の条件や関係性に依らず、自由自在に振る舞える、私を私たらしめるような要素は、あり得ない、ということだ。

しかしそれでは、私が「今ここ」に存在していることは、一体どういうことなのか?ということが疑問となる。仏教の示す一つの答えとしては、「五蘊仮和合」と言葉で説かれるように、様々な条件が、仮に相集まって、たまたま「私」のようなものとなっているに過ぎない、という理解になるだろう。私は私を揺るぎないものとして認識しているが、実は、様々な関係性であったり、「縁」と呼ばれる条件に依って、その時その時の姿を生きているに過ぎない。親と一緒に入れば、私は子であるし、我が子といれば、私は親になる。妻に対せば夫であり、私という存在は、実は一様ではない。その集合体、連続体を、仮に「私」であると覚知しているのが、「私」という存在の正体なのだ。

だから、仏教的に考えるならば、少佐がその特殊な事情から求める「確かな私」というものは、実はどこにも存在しないと言えるかもしれない。しかしその少佐の不確かな在り方、そしてそれに悩む姿が、私の存在の不確実性というものを浮き彫りにしようとしてるかのように感じられる。すなわち、少佐の姿が、実は私の姿であったと見ていくことができるのではないだろうか。

もちろん、「攻殻機動隊」の中で描かれる少佐の苦悩は、私が感じている存在の不確かさを遥かに凌ぐものであることは間違いない。曲がりなりにも私は自分の肉体と呼べるものがあるし、他者から偽の記憶を植え付けられるなどということも、現代においてはほとんどあり得ないことだからだ。だから、自分の存在の不確実性や儚さということを、仏教に出会う中で理解しているつもりであっても、実際にそのことが自分の大きな悩みとなっていたり、「私は本当に私なのだろうか?」と自己の存在を疑うという場面は、ほとんどないと言っていいだろう。

そう考えると、「攻殻機動隊」のようにテクノロジーが発展した時、テクノロジーによって助かる部分、解決される悩みというものはもちろんあるわけだけども、今はあまり感じることがなかった新たな悩みであったり、疑問であったりというものが生み出されていくのかもしれない。

未来においても、やはり「私」は苦悩の存在であるということを、少佐の姿は教えてくれているように思う。


>>「攻殻機動隊」と仏教(タチコマ 編)につづく。


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