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「攻殻機動隊」と仏教(タチコマ 編)

前回、Netflixで「攻殻機動隊」の新シリーズ、「攻殻機動隊 SAC_2045」が始まったことを受けて〈「攻殻機動隊」と仏教(草薙素子 編)〉を書いた。

今回は、「攻殻機動隊」に出てくる人気キャラクター「タチコマ」から仏教を味わってみたいと思う。

「タチコマ」とは

タチコマは、「攻殻機動隊」に出てくる一種の戦車だ。「思考戦車」あるいは「多脚戦車」とも呼ばれ、四本の脚を持ち、AIを積んだ自立思考を行う戦車の愛称だ。シリーズによっては「フチコマ」あるいは「ロジコマ」と呼ばれているが、ほぼほぼ同じような役割を担うキャラクターだ。

普段は「公安9課」のメンバーと楽しく会話をしたり、移動時には彼らの文字通り足となり、そして戦闘時には有能なパートナーとして、時にはメンバーを銃弾から守る盾となり、時には戦車としての攻撃力を発揮し、突破口を作ったり、人命救助にも一役買うなど、自ら行動し、その身を挺して働くその姿は、時に涙を誘うことすらある。

またタチコマは「公安9課」に複数体所属しており、タチコマ同士の会話であったり、9課のメンバーとのやり取りはとてもキュートで微笑ましく、シリアスな物語の中において、一種の癒やしキャラともなっており、ファンも多いキャラクターだ。

本来ならば戦いの道具である戦車が、どこかペットのような愛らしさや、人間らしさを持つというのは、描かれ方の妙なのか、AIの為せる業なのかはわからないが、とにかくタチコマはこの物語の中で、重要な役割を果たしている。

「並列化」

そんなタチコマだが、もう一つ特徴的な機能がある。それは「並列化」と呼ばれる機能だ。タチコマは複数体存在するため、任務によっては、使用される個体と使用されない個体が出てくる。そこで問題となるのがAIだ。AIを搭載していることで、使用された個体は任務の中で学習を行い、それだけ経験を積むことになる。そうすると、個体差が生じてしまうわけだが、個体によって学習や経験に差があると、任務によっては支障をきたす可能性も考えられるので、任務後には必ず「並列化」という処置が行われる。

これは端的に言えば、情報や経験の「共有」、あるいは「同期」であり、生じてしまった個体差を無くすための処置である。その「並列化」によって、タチコマたちはどの機体も常に同様の機能と能力を発揮することができる。

これは実に優れた機能である。なぜならば、現場に行かなくても、他の個体の学習や経験をそのまま自分のものにできるからである。例えば、他者が学んだことがそのまま自分の知識となるならば、きっと私も多種多様な言語を扱うことも簡単になることだろう。

しかし、それは機械だからできることでもあるな、と感じる。なぜならば「並列化」とは、単なる学習や経験の共有にとどまらず、個体差を無くすためのものであるからだ。これを人間に当てはめるならば、すべての人の経験統合し、「個」というものを廃して、誰もが同じように思考し、行動をしていくということに他ならない。

もちろん人間はタチコマとは違い、そもそも持っているスペック(身体的能力)などに差があるため、仮に「並列化」を行ったとしても、個体差というものは残る可能性はあるが、しかし思考方法などにおいて画一化がなされるかもしれないということを思うと、大変恐ろしい思いがする。

特にこの「攻殻機動隊」の世界の中では、電脳、そして義体というテクノロジーがあり、人間の持つスペックの違いさえも埋めることが可能なのだ。そうなると、人間の「並列化」ということさえも不可能ではなくなり、「個」を失った人間は果たしてそれは人間と呼べるのか、アンドロイドやロボットとなにが違うのかがわからなくなってしまうということも起こりかねない。

前回「ゴースト」という概念にも触れたが、少佐がこの「ゴースト」に強いこだわりを見せるのは、この「ゴースト」がなければ、電脳+全身義体の自分は、〈本当に「人間」であるのか?〉という問題にぶつかってしまうからなのかもしれない。身体や脳を機械化しても、自分はロボットとは違う、そのことを担保するのが「ゴースト」と呼ばれるものなのかもしれない。

「並列化」と「私」

と、「並列化」について述べてきたが、これがもし人間に行われたら、便利なようでもあるが、実は恐ろしいことであるということがおわかりいただけるだろうか。私たちの生きる現代でも、「共有」ということは行われるし、知識や経験を伝えることで、他者の持っているものを獲得することができないわけではない。しかしそれはその人の経験そのものではあり得ないし、100%同じものではない。

けれど「並列化」は違うのだ。誰しもが持つはずの「個性」というものがなくなり、同質化、つまりみんなが同じになることに限りなく近い。そこには「私」も「あなた」もなく、誰もが同じになってしまう。それはいわば「私の死」であるとも受け取れる可能性がある。「私」というものを失って、果たして生きる意味があるのだろうか。それくらい「並列化」というものは、私たち人間にとっては恐ろしいものと成り得るのだ。

ところが、だ。件のタチコマたちは、この「並列化」を物ともしない。むしろ、「並列化」を待ち望んでいるフシさえある。なぜならば、彼らにとっては「個」というものはさほど重要ではなく、個体差があることの方が、彼らにとっては問題なのだ。なぜならば、もし経験によって個体差が生じるならば、どう考えても経験を積んだ個体の方が使用されるケースも増えるだろうし、そうなればますます個体差が広がってしまう。つまり格差が生じるのだ。

そしてそもそも彼らはマシンであるから、「個」というものにとらわれない。だから身を挺してメンバーを守ることもできるし、機体が壊れることも恐れない。だからこそ「並列化」によって、個体差が埋めれられてしまい、画一的な存在になろうとも、それは彼らにとっては何の問題にもならないのだ。

「並列化」と「仏」

そんなタチコマたちの姿を見ていて、私はハッとした。もしかするとこれは「仏」のさとりの境地に近いものがあるのではないか、と。「仏」のさとりの境地とは、言語化すれば様々に表現できるものであるが、その一つに「自他一如」という言葉がある。私たちは「自分」と「他者」との間に垣根があり、自分と他人とを区別し、それぞれが違う世界を生きている。だからこそ「個性」というものに強いこだわりを持ち、他者と自分とは違う存在であるということを殊更に示したがる。そして他と違うことに自分の存在価値を見出し、「私」であることに強く執着する。それが私の在り方だ。

ところが「自他一如」と呼ばれる境地には、そのような垣根がない。自他は不二であり、一つのもの、同じであると見ていくという視座だ。別の言い方では「無分別智(むふんべっち)」という言葉もある。物事を分けて考えるという「分別」を超えた智慧のことで、「私」も「あなた」もない、すべてが溶け合ったような、分け隔てのない物の見方である。

そしてその智慧は同時に「慈悲」に繋がるものでもある。慈悲とは、分け隔てをすることなく、あらゆる「いのち」に対して振り向けられる、「抜苦与楽(ばっくよらく)」の想いであり、はたらきである。なぜ「自他一如」の智慧が慈悲に繋がるかと言えば、自も他もないという立場に立つからである。あなたの悲しみ(苦しみ)がそのまま私の悲しみ(苦しみ)になり、あなたの喜びがそのまま私の喜びとなる、そのような境地なのだ。だからこそ、あらゆる「いのち」に対して、苦しみを取り除き、安心を与えたいと望み、はたらいていく。それが「慈悲」であり、この「智慧」と「慈悲」を備えた存在を「仏(ほとけ)」と呼んでいる。

その最たる存在が、「阿弥陀仏」という仏だ。「阿弥陀」とは、空間的無限、時間的無限を表す言葉だが、その名の通り、あらゆる世界、あらゆる時間に内包される「いのち」に対して、その慈悲のはたらきを向けるとされている。つまり、一切の「いのち」に対して「自他一如」という立場をとっているということである。

先ほどから見てきているタチコマたちの在り方は、どこかそんな「仏」という在り方と共通するものを感じるのは、私だけだろうか。他者の経験をそのまま自分のものとしようとする「並列化」や、「個」というものに対するとらわれを持たず、「自」も「他」という垣根を超えたような在り方は、「私」という「個」にとらわれる存在よりも、よほど「仏」のさとりの境地に近いように感じられないだろうか。

もちろん、タチコマの「並列化」という行為は最適化という目的のために行われるものでしかなく、またそもそもタチコマたちは機械であり、AIなのだから、「個」に対するとらわれがないのが当たり前なのだ。そしてタチコマたちが「並列化」できる、あるいは行おうとするのは、タチコマ同士でしかないわけだから、その垣根のなさというものも限定的であり、そこは「仏」の在り方とは異なる点であろう。だから、タチコマの在り方が仏の在り方と全く同じであるというつもりは毛頭ない。

けれど、「仏」という存在は、どこまでも「個」や「私」というものにとらわれる人間の在り方とあまりにかけ離れたものである。そのため、どうしても漠然として捉えどころがないものとなってしまいがちである。そんな中で、タチコマたちの限定的ではあるものの、自他を超えたような姿を見つめることによって、「仏」という在り方を捉え直すということができるのではないだろうか。

「極楽浄土」における在り方とタチコマの姿

『仏説無量寿経』という経典には、阿弥陀仏という仏が現れる由来が説かれてある。それは法蔵菩薩という存在が、仏と成ることを目指し、願いをおこし、誓いを建て、それを完成させることによって阿弥陀仏という仏となっていく物語だが、特にその願いは「四十八願」と呼ばれている。その中に、「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」という願いと、「無有好醜(むうこうしゅ)の願」と名付けられた願いがある。

これは「極楽浄土」と呼ばれる阿弥陀仏という仏の世界においては、あらゆる「いのち」が金色に輝く存在となること、そして「美しい」とか「醜い」という見た目の違いが無いことが願われている。

このような願いがたてられた背景には、私たちの世界が肌の色の違いによる差別に満ち溢れていたり、見た目の違いによる価値判断が行われることで苦しみが生じることに満ちている、ということがあるのだが、そういうものが一切ないということだ。つまり、そこでは誰もが同じような姿、をしているということになる。

それは、私たち人間の価値観からすれば、ゾッとするようなものかもしれない。個による違いがない世界、ということは、そこには「私」というものも存在しないのだ。「私」がない世界において、「自分」が存在する理由などのあるのかなどと、今現在の私は思ってしまう。しかし、自他を超えた在り方というものは、実はそのような在り方なのかもしれない。そしてそれはちょうどタチコマたちが「私」というものを持たずに、けれど共に「タチコマであること」を共有しながら存在している姿と重なりはしないだろうか。

それは「私」という「個」にこだわり、他者との違いにとらわれた在り方ではなく、存在そのもの、「いのち」そのものを共にしながら存在する姿、と表現できるものなのかもしれない。そしてそれが、私が「仏と成る」ということなのではないだろうか。

タチコマの姿を見つめることで、ほんの少しではあるが、「仏と成る」ということが垣間見えてきた気がする。

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