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「積読こそが完全な読書術である」を読みましたが、やはり積読はしたくないと思いました。

本の買取が多く、本の販売が少ない。そんな一日でした。しかし本の買取は未来の売上です。そしていい本をお売りいただけたら、古本屋にとっては嬉しい事。そういう意味では今日はまぁまぁの一日でした。

そしてお売りいただいた本の中から気になる本を発見しました。「積読こそが完全な読書術である」という本です。勿論タイトルに釣られました。読んでみると、面白いし読みやすい。しかし途中から他の本からの引用が多く、いくら読んでも本題が進まない。とはいえ、この本を読むことによって新しい気づきがありました。

著者は「積読」をビオトープという概念に例えます。そして現代社会を情報の濁流にのみ込まれた社会と比喩します。つまり、安易に外界に踏み出せば情報の濁流に流されてしまう。しかし自分でビオトープをつくり、その内にいれば安全だ。緑の代わりに書籍を並べ、お腹が減ったら果実を得るように、本を読むべきタイミングを迎えたら読書する。これなら危険は少ないはずだ。そう語っているのだと思います。

この本を読んで気がついた視点があります。それは「積読」という行為は後ろめたさがあるものの、よくよく考えるとYouTubeで「次に見る」という登録をして全く見ていない動画や、ネットフリックスで見ようと思ってまだ鑑賞していない映画と同じだということです。YouTubeやネットフリックスで罪悪感を感じる人はいないでしょうが、「積読」だと罪悪感を感じる。これは確かに不思議なところです。

そしてこの本で、著者は濁流に飲まれるような読書を回避しようと主張しています。本は出版社が「売らんがな」と思って出版しているので、本に求められるまま手に取り、それを無批評に読んでしまうと、情報という濁流に流されているのと同じだと。本を購入したとしても「読まない」という選択をしてもいいい。そして我々はその「後ろめたさ」に耐える必要があると述べています。

というのがこの本のザックリとしたまとめでした。他の本からの引用も多く、話があちらこちらに飛び、「積読」というテーマの周りをひたすら走り回るような不思議な本でしたが、読む人によっては面白いはず。想像するに、過去に書いたエッセイなどをまとめて本にしたのだと思います。

沢山の本を読んでいる読書家なら第2章意向を読んでも楽しめますが、読書初心者には難しいはず。店主のおすすめは第1章。そこだけ読んでも楽しめます。ただ、店主は最後まで読みましたが、やはり「積読」はしたくないと思いました。

そして最後に「ふ」と疑問が生まれました。
「古本屋の店主にとってお店の蔵書は『積読』している本と同じ意味合いになるのだろうか?」
もしこの答えがイエスなら、店主は本書の意見に同意しないものの、著者の提言通りにビオトープをつくり読書をしているということになりますね。
まあ・・・人間ですから。

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