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1つのテーマに対して様々な文体。芥川龍之介の「奉教人の死」

6月だというのに夏のような一日でした。蝉が鳴いていてもおかしくない。蒸し暑さに根を上げて朝からエアコンをつけましたが、根を上げたのは売上も。例え100円の本であっても売れて良かったと思いました。

そんな中、今日も何冊かの本を手にとりましたが、最終的に芥川龍之介の「奉教人の死」を読みました。この本はキリスト教の布教に関して書かれた作品の短編集。どれも難しい言葉で書かれており読むのに苦労しましたが、「完全に読んでやろう」という気持ちを諦めると意外となんとか読める小説でした。きっと作品のプロットがしっかりとしているからだと思います。

特に表題となっている「奉教人の死」は興味深い作品。現代の作品でも似たようなストーリーが多々ありますが、この作品をルーツとしているのではないでしょうか。また、「煙草と悪魔」では煙草と悪魔を理屈っぽく捉えているところも面白い。

しかし何といってもこの短編集からは、それぞれの文体の違いに驚かされました。言葉の難しさが作品によってかなり違うのです。そしてその事実が店主に啓示を与えました。

このブログを読んでくださる方はお気づきかと思いますが、基本的に店主の文章は平たいのに硬いのが特徴です。しかしエッセイを読むようになり、だいぶ読みやすい文章を書くことを覚えました。自分でも成長したと思います。

しかしテーマによっては気楽に書けず、壊れたChatGPTのような文章を生成してしまうことがある。これは生まれ持った学習障害が原因です。ゆえに1人の人格に対して複数の文体が存在してしまう。これが店主の悩みでありました。

しかし!

今日の読書で悩みが晴れました。芥川龍之介も作品によって文体を使い分けている。時に漢文のようにガチガチに固く、時に現代文に近くよみやすい。文豪と呼ばれる方でさえ、文体を変えている。そして文体が違う作品を短編集してまとめて発売してている訳ですから、編集者や出版社もそれを認めている。ということは、自分のような素人が文体について、なにをおこがましい心配をしているやら…と反省しました。

その前に、もっと本を読まなければいけませんし、やるべきことがあるはずです。そして学ばなければいけないこともある。前向きに突き進んでいきたいと思います。その先に穴が開いていようとも。

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