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『メディア・コントロール』メディア操作の歴史と実態に迫る重要書

ノーム・チョムスキー著『メディア・コントロール』は、現代社会におけるマスメディアの在り方に鋭く切り込んだ問題提起の書である。「製造された合意」という概念で知られる著者が、メディアによる世論操作の歴史的経緯と現状を浮き彫りにしていく。

一般市民を「とまどえる群れ」と見なし、情報をコントロールして望ましい方向に誘導する―そんな驚くべきメディア観が、欧米の主要メディアの間では当然のように共有されてきた。本書は、そうした事実を著者独自の視点で掘り下げ、私たち一人一人に突きつける。

「とまどえる群れ」をあやつるメディア

チョムスキーによれば、民主主義社会には二つの概念がある。一つは、一般市民が自分たちの問題を自由に考え、決定に影響力を持つ社会。もう一つは、一般市民を決して自分たちの問題に関与させず、情報を一部の人間だけで管理する社会だ。

欧米のメディアや知識人が主に採用してきたのは、後者の考え方である。彼らは一般市民のことを「とまどえる群れ」と呼び、自分たちが「特別な人間」として「公益」を理解し、大衆を望ましい方向に誘導しなければならないと考えてきた。そのために「合意の製造」が必要だったのだ。

この考え方は、20世紀初頭の第一次世界大戦時のプロパガンダ活動に端を発する。当時のウィルソン政権下で設立された「クリール委員会」は、わずか半年足らずで平和主義だった世論を戦争支持へと激変させた。以降、同様の宣伝手法は「赤狩り」など国内の世論対策にも応用され、大きな効果を上げてきたという。

危険な「異端」を封じ込める

著者が指摘するのは、こうした宣伝活動の根底にある「道徳原則」だ。すなわち、大多数の市民は愚かで無知だから、賢明な少数者が決定を下すべきだという考え方である。したがって、民主主義からの逸脱を食い止めるため、「とまどえる群れ」から自分の問題に関わる機会を奪い、ひたすら受動的な「観客」に徹させなければならない。

この原則に従えば、自分に適用した基準を他人にも当てはめるのは「道徳的相対主義」の罪となる。つまり、「自分がしていいことは相手がしてもいい」などと考えるのは危険な「異端」なのだ。知識人の役割は、そうした民主主義の脅威を封じ込め、大衆の目を自分たちの問題から逸らし続けることにある。

ここには恐るべき発想がある。つまり、国家は「威信の確立」のために「非合理的で報復的」な行動をとる必要があり、国民を常に恐怖に怯えさせておかねばならないのだ。軍事力、とりわけ核兵器はその象徴として欠かせない。なぜなら核兵器は「甚大な影響力」と「不気味さ」を兼ね備えているからである。

メディアはいかにして戦争を正当化するか

その一方で、メディアは戦争を「自衛」や「テロとの戦い」として正当化する。彼らは、アメリカの軍事行動を「侵略に屈しない正義」と美化し、犠牲になった民間人の存在を隠蔽する。相手国の残虐行為を誇張する一方、味方の戦争犯罪には一切触れない。

例えばベトナム戦争では、南ベトナムへの軍事介入開始から4年間、反戦運動は徹底的に抑え込まれた。数十万もの人々が虐殺され、国土が破壊されていく中、知識人の多くは政府の論理をなぞるだけだった。メディアもまた、アメリカの戦争目的を疑うことなく、北ベトナムを「侵略者」とする政府見解をそのまま垂れ流し続けた。

湾岸戦争でも同様だ。報道は「クウェート侵攻は許されない蛮行」一色に染まり、イラクによる民間人殺害を大々的に報じた。しかし、その直前にイスラエルがレバノンで同様の虐殺を行っていたことには誰も触れない。チュニジアでのイスラエル軍の大量虐殺も、アメリカが黙認したためか報道されなかった。

「アメリカ的例外主義」という幻想

チョムスキーが批判するのは、こうした「アメリカ的例外主義」の幻想である。アメリカは民主主義の擁護者であり、例外的に正しい行動をとる国だというイメージを、メディアは執拗に作り上げてきた。しかし実際には、世界各地で行われてきた残虐行為の多くに、アメリカは深く関与してきたのだ。

そうした不都合な真実は隠蔽され、犯罪の痕跡は抹消される。メディアは一方的に「彼ら」の残虐行為を糾弾するが、「我々」の罪については一切触れない。学校教育もまた、そうした事実を歪曲し、愛国心を植え付ける装置と化している。

本書が伝えるのは、このような認識のゆがみを正すことの重要性である。「自由」を標榜する欧米社会が、いかに不自由な言論空間を作り上げてきたのか。メディアを通して垂れ流される情報を無批判に受け入れるのは危険であり、むしろ積極的にその裏側を疑っていく必要がある。

歴史の闇に光を当てる

チョムスキーは本書の中で、知識人は自国の過去の犯罪から目を背けてはならないと訴える。日本の知識人を例に出し、戦前の日本軍国主義を率直に批判できなかった彼らの姿勢を問題視している。同様に、欧米の知識人もまた、植民地支配や侵略戦争への加担を直視する必要があるのだ。

そうした歴史の闇に光を当て、批判的に検証していくこと。政府やメディアの言説を鵜呑みにせず、常に疑い、異議を唱え続けること。すべての人々がそれを実践していかない限り、民主主義の脅威は去らないだろう。そんな警鐘が、本書全体を貫いている。

マニュアルとしての「メディア・コントロール」

『メディア・コントロール』を通読して、私はこの本が単なる問題提起の書を超えていると感じた。それは、まるでメディア読解のための「マニュアル」のようなのだ。このレンズを通して日々のニュースを見つめ直すことで、隠された意図やプロパガンダの手法が次々と見えてくる。

例えば本書では、メディアが戦争を扇動する際のテクニックとして、「悪の枢軸」のようなレッテル張りを挙げている。曖昧で感情的な言葉で敵をデモナイズし、報復感情をあおる手法だ。あるいは、相手の残虐行為を「野蛮」と断罪しつつ、自分たちのそれには目をつむる「ダブルスタンダード」も鋭く指摘されている。

こうした具体的な着眼点は、メディアの報道姿勢を見抜くための強力な武器となるだろう。むろん、すべてを疑えば、今度は自分が「陰謀論」に陥る危険もある。大切なのはバランス感覚を持ち、常に批判的な視点を失わないことだ。その意味で、本書は私たち一人一人に主体的なメディア・リテラシーを促す良書だと言える。

民主主義社会の行く末は私たち次第

チョムスキーの警告は、発せられてからすでに20年近くが経過している。しかし、むしろ現在のメディア状況を見渡すと、その批判が色褪せるどころか、ますます切実さを増しているように感じられる。「フェイクニュース」の蔓延や、SNSによる世論操作の問題など、新たな課題も浮上している。こうした中で本書を読み返すと、「製造された合意」の恐ろしさがリアルに突き刺さってくる。

本書の結びで、チョムスキーは私たち一人一人に問いかける。国家は常にプロパガンダを撒き散らし、メディアはそれに加担し続けるだろう。しかし、それに対抗する力を私たち自身が持っているのだと。声を上げ、行動を起こし、団結することの意味を説く彼の言葉には、静かな熱が込められている。

分断と対立が叫ばれる現代社会にあって、私たちに求められているのは、まさにそうした草の根の抵抗なのかもしれない。メディアに流される情報を鵜呑みにせず、常に自分の頭で考え、疑問を持ち続ける。民主主義の危機を乗り越えるために、私たちができることは少なくない。そんな希望を、『メディア・コントロール』は静かに、しかし力強く語りかけてくるのだ。


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