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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #26


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 何度呼びかけても返事はなく、クリストファーは《ささやく翡翠》への呼びかけを諦めた。

「レイチェルが来たみたいだ。ケネト君では止められないだろう。バルド、準備を」

「はい」

 もとから硬いバルドの表情が、さらに硬くなった。クリストファーにはその意味が読み取れた。彼は目を細めた。

「滾っているみたいだね」

「いえ、そのような……」

「誤魔化す必要はない。君はレイチェルが憎いのだろう?」

「彼女に対して好悪の情はありません」

「でも光珠派の女を嫌っている」

 バルドは噛むように唇を引き締める。鉄面皮なだけに、わずかな変化でたやすく心情を読み取れるのがこの男だ。クリストファーは白い息を吐いた。

「その気持ちはあの魔女の遺した呪いだ。君自身の罪じゃない。吐き出したって罰はあたらないよ」

「……」

「なんという名だっけ、あの魔女」

「カプアーナです」

「己の治めていた城塞都市を惑霧の魔王に捧げた……」

「あの女は淫売でした」

 木造の柱が軋んだような小さな声だった。彼の心の底からの言葉だ。

「二十年以上前……惑霧の災禍によって家族を失った俺は、光珠派の高名な司祭だったあの女に拾われ、従者として仕えていました。あの頃のカプアーナは、完璧でした。美しく、慈悲深く、道徳と規律を遵守し、神の光によく仕えていた」

「聖女というわけだね」

「皆、そう崇めていました。霧と魔物に包囲され、閉塞感に人心が蟠っていく都市の中であろうと、彼女の光があればきっと耐えられる。誰もがそう信じていた。俺自身も」

 バルドが拳を握る。血管を膨らませるのは憎悪の闇だ。クリストファーは黙って聞く。

「ある夜……彼女の部屋から、熱にうなされたような苦しげな声が聞こえてきて……俺は駆け込みました。寝台の上のカプアーナは慌てた様子で寝間着を整え、何でもないと言った。俺は彼女の姿を直視できなかった。目を逸らした先、開けた窓から、霧のようなものが逃げていった気がしました」

「……」

「カプアーナは夜中に部屋へ来てはならないと厳命しました。幼い俺は愚直にそれを守り、連夜のごとく壁越しに響いてくる彼女の声を、意味もわからないまま聞いていました」

「忌まわしいことだ」クリストファーは呟いた。

「脅されていたのかもしれません。従わねば都を襲うと」

「だとしても結局は売り渡した。己の心身も、信徒たちの命も。君の信頼を裏切ったんだ」

 バルドは頷いた。いまや彼は額にも青筋を浮かべ、そこから憎悪のしるしを現わそうとしていた。

「そうです。閉ざされていた城塞都市の大門を、あの女は自分の股のように開いてしまった。霧と魔物が人々を蹂躙し、俺は必死に逃げて……そして誓ったのです。裏切られた人々の無念を、俺自身の怒りを、必ずあの女に思い知らせてやるのだと。その誓いは、会長のおかげで叶えることができました」

 バルドと初めて出会ったのは数年前。クリストファーが両親を亡くし、《ユニコーン騎士団》を結成して間もない頃だった。魔女カプアーナは淫祀邪教の祖となり、己の胎から惑霧の魔王を再誕させようと企てていた。《ユニコーン騎士団》は魔物狩りの理念から、バルドは彼自身の憎悪から、同時にカプアーナに辿り着いた。

 死闘だった。《ユニコーン騎士団》の仲間たちはことごとく倒れていった。追い詰められた末に、クリストファーは禁忌の秘薬、闇黒一角獣の力をバルドに託すことを決断した。

 バルドはその力で魔女を討った。長年の宿敵にして、親代わりだった女を。

 クリストファーは天蓋の闇を見上げる。

「あのとき僕は、君の怒りに共鳴した。何も知らない初対面のこの男は、僕と同じ瑕を共有してるって、何故かそう感じた。だから君に秘薬を投与すると決断できたんだ。いま、改めて確信したよ。その瑕の存在を」

「……」

「清らかだと思っていたものがそうでなかったとき、我を忘れるほど耐えがたい怒りを抱く。それが君と僕の共有する魂の瑕……憤怒という罪だ。そうだろう?」

 バルドはゆっくりと頷いた。

「言葉にすれば、そうなるのだと思います。だから俺は、光珠派の人々が苦手です。彼女たちが清らかで在ろうとするほど、その裏側にどうしてもカプアーナの影を見てしまう。あの女を貫いて鎮めたはずの怒りが帰ってきてしまう。それが怖ろしい」

「まさに呪いだね」クリストファーは小さく息を吐いた。それからバルドを見た。「レイチェルに対しても、同じだったのだろう?」

 神珠教団の敷いた正道ではないが、彼女は光珠派の修道女としての道を歩もうと心がけている。バルドが嫌うのも無理はない。しかし彼は、首を横に振った。

「最初はそうでした。ですが《ユニコーン騎士団》としての彼女は、俺やジルケと同じ一匹の怒れる獣でした。仲間だと思えた。そして何より、レイチェルは修道女である以前に、会長の友人なのだと……俺の目にはそう見えました」

「僕の、友人」クリストファーは呟く。「そう。……そうだね」

「だが、それも今夜まで」

 再びバルドを見る。彼は全身の筋肉をみしみしと軋ませている。

「彼女が会長を止めに来るならば……俺たちと怒りを共有しないというのであれば……彼女はもはや、貴方の友人として清らかではない。俺はそう定義します」

「……」

 言葉が途切れた。どこかで雪の落ちる音がした。

 予感じみた静謐があった。

 いつしかクリストファーの目は、自然と北に向けられていた。遠くで森がざわめいている。命を眠らせる冬の冷たさを、何かが乱す気配がする。

「来たか」

 クリストファーは呟いた。

 バルドが近付いてくる。彼も気配を感じたのだろう。守るようにクリストファーの前に出ようとする。

「違う、バルド。そっちじゃない」

 クリストファーは手で制した。バルドが訝しげに見る。

「彼女が殺すと決断したなら、躊躇はない。言葉もない。ただただ実行するだけだ」

 上を指さす。見上げる。

 かぎ爪を振り上げたレイチェルが、はるか樹上から降ってきていた。クリスに向けて、まっすぐに。




【続く】

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