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酔夢 5 友を守れなかったあの日
ブラッドおじさんの重たい拳を横面に叩き込まれ、賊が木の幹に吹っ飛ばされるのを、涙で滲んだ私の眼ははっきりと捉えていた。
おじさんの動きは私の意識を追い越していく。私が瞬きをする間に、もうひとりの賊……私を痛めつけた男を、枯れ葉をかぶった土へうつ伏せに叩きつけていた。おじさんはその背を足で踏みつけ、枝を折るみたいに男の両肩を外した。絶叫が白き森を穢した。
「ふざけやがって、てめえら……! まとめて死にてえのか!」
「黙れや。儂らの大事な子供らに手ぇ出しおって、貴様らこそ覚悟せい」
賊の一人と向かい合いながら、村長が静かに恫喝した。周りでは村の大人たちが戦っている。みんな一様に静かな怒りを身に纏い、着実に賊を追いつめていった。
狼の群れが獲物を狩り尽くすまで、時間はかからなかった。おじさんはそれを確かめ、私を見下ろした。
「平気か、レイチェル」
私は腕で涙を拭い、頷いた。顔を殴られ、お腹を蹴られ、足も折られていたけれど、ただ頷いた。
少し離れた場所では、母さんがクリスの縄をほどいている。さっきからクリスは人の言葉を忘れたみたいに唸り続けていた。
クリスが解放され、両手を地につける。
彼はその手で尖った石を掴んだ。立ち上がり、躊躇のない足取りで男に近づいていく。そして石を振り上げた。私は息を飲んだ。
「だめよ、クリス!」
母さんが後ろから抱き締めた。
「クリス、足跡よ。足跡をかぞえて」
「こいつはレイチェルを殴ったッ!」クリスが咆えた。一度も聞いたことのない、獣のような声だった。「僕の友達を傷つけたんだ……! 許さない! 絶対にッ!」
「そうよ。許さなくていい。私も許しません。でもあなたがその石を振り下ろす必要はないの。おじさまが代わりに怒ってくださったし、裁きは法の光が下してくれます。だから……」
「殺す! 殺してやる……ッ!」
「お願いクリス、息をして。足跡をかぞえて……!」
クリスは歯を食いしばってもがき続けた。石の硬さに負けた手の柔肌から、血が滴るのが見えた。一度は引っ込んだ涙が、また私の目に滲んでくる。
やがて彼は唸るのを止め、ゆっくりと呼吸し始めた。それが十をかぞえた頃、彼の体は力を失い、がくりと項垂れた。振り下ろされることなく血に染まった石が地面に落ちた。
「坊ちゃま!」
村の方角から声が走ってくる。クリスに付き従っている執事のおじいさんだった。母さんは体を向けた。
「大丈夫。気を失っているだけです」そう言って、クリスを執事のおじいさんに預けた。それから私を見た。「レイチェル、怪我を……!」
「こんなの、平気。痛いだけ」私は気を強いて言った。「母さんはクリスについてあげて。私より、必要でしょ」
母さんは泣きそうな顔を浮かべた。それからブラッドおじさんを見た。
私に声をかけようとする村の男達に賊を縛るよう指示していたおじさんは、母さんに向きなおり、頷いてみせた。母さんはそれで決断したようだった。もう一度、私を見て、執事のおじいさんと共に村へ戻っていった。
おじさんは膝をつき、私に目線を合わせる。
「おぶっていく。足は痛むだろうが、我慢できるな」
「うん」
おじさんは私を背負い、歩きだした。
森は静かだった。おじさんの背に幾度か揺られるうちに、私はそれに気付いた。それまでは鼓膜をばくばくと叩く心臓の音と、それを忘れさせようとする恐怖とで、周りを気にする余裕がなかった。森も、おじさんも、無言で私を責めているように感じられた。
「ごめんなさい」
「……何がだ」
「おじさん、怒ってる匂いがする」
「ああ。怒っている」おじさんの声は低かった。鷲掴みにされたみたいに心臓が痛んだ。「クリスを攫おうとする奴らがいるから遊ぶときは気を付けろと、俺は言ったな」
「……うん」
「誘ったのはお前か」
「うん。私が連れ出した」
半分嘘だ。望んだのはクリスの方だった。彼の魂が悲鳴をあげるとき、白き森の清浄な空気がいつも癒してくれる。不安にさいなまれた彼はそれを欲しがった。私は与えたいと思った。
きっとおじさんは全部お見通しだったと思う。けれどそのことについては「そうか」とだけ言って、もう触れなかった。
「もうひとつ。連中に襲われて、お前は戦おうとしたか」
「……うん。クリスを守らなくちゃって。でも……」
「でも、躊躇した。そうだな」
もう一度、心臓を掴まれた。やっぱりおじさんに隠し事はできない。
「お前は連中に気付き、逃げるべきかどうかを考えた。まずその決断に迷った。そうしている内に、時間がその選択肢を消し去った。もう戦うしかなくなっても、どう動くべきなのか、相手のどこを攻撃するべきか、どこまで痛めつけるべきなのか、なにひとつ決断できなかった。そしてお前はされるがままに嬲られ、クリスは連れ去られそうになった……そんなところだろう」
「……どうして」
「分かるさ。稽古をつけているのは俺だ。お前の実力がちゃんと発揮できていれば、あの程度の連中は蹴散らせたはずだ」
おじさんが言葉で褒めてくれるのは珍しい。でも今は、まったく喜べなかった。
「なのにそうなっていないのは、その通りに動けなかったから。その通りに動くことを決断できなかったからだ。地面の乱れがそういう感じだった」
「……おじさんには、何でも分かっちゃうんだね」
「何でもではない」
おじさんは真面目に否定した。それが可笑しくて、ほんの少し、気持ちが楽になった。
「私には分からなかった。正しい道が」
湧いてくる言葉を吐き出した。言い訳だと知っていても、そうせずにはいられなかった。
「目の前に知らない道がたくさん見えて……どれを選んでも、その先はさらに枝分かれしてて。どこを行けばクリスを助けられるのか、確信できなかった。おじさんが教えてくれた道だって見えてたのに」
「実戦はそういうものだ」おじさんは慰める風でもなく言った。「お前、完全無欠の正しい決断だとか、ひとつの誤りもない決断ってものが、あると思うか」
私はとっさに返事ができなかった。
おじさんも答えは期待していなかったのだろう。何かを思い出すみたいに顔を上げて、言葉を続けた。
「人は愚かだ。人が人で在る限り、完全なる理に則った行動など生み出せはしない。しかし一つの理もなき行動も、また生まれはしない。少なくとも、善く生きようとするお前の中からは決して生まれん」
「……」
「より正しい道、より誤りの少ない選択肢を求めるのは当然だ。だがどんな決断も、然るべき時に下せなければただの幻に過ぎん。実行できない完全な正しさよりも、実行できる不完全な正しさの方が役に立つ。そんな時もある」
だから、とおじさんは言う。
「決断を躊躇するな。そして一度決めたならば、もう迷うな。決断の実行を躊躇するな。お前が信じると決めた道ならば、その先にかならず理はある。それを目指して突き進め。いいな」
「……うん。はい」
私の返事に、おじさんは頷いた。いつもならそのまま頭を撫でてくれる頷きだったけれど、背負いながらじゃ当然無理だった。
残念に思っていると、おじさんが「言い忘れた」と呟く。
「クリスを守ろうとしたお前は立派だったぞ。気高く愛しい、白狼の子よ」
「……!」
私は言葉を返せず、おじさんの肩に額を埋めた。森の奥で、鳥獣たちがいつも通りに鳴きはじめた。
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