【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #9
遠くから雷鳴が響いてきたとき、アルティナは手斧を持ったゴブリンを両断したところだった。これで斬り捨てられた魔物は三十二匹目だ。
次なる敵を睨み据える彼女の眼前に広がるのは、炎の隘路。人海戦術をとる相手に正面からの一騎打ちを強いる、アルティナの得意戦術である。周囲の木々を越えるほど高く背を伸ばす炎の壁は、癒しの光と混ざり合い、常よりも輝いていた。
「どうした、ソーニャとやら。殺すのは私からではなかったのか。このままでは貴様の手駒を全滅させてしまうぞ」
「……」
魔物の群れの頭越し、悪魔憑きの魔女ソーニャは、涼しい顔で聞き流す。
焦ることはない。数の利がソーニャの側にあるのは変わらぬ現実だ。奴はいずれ疲弊する。このミディアンの森でソーニャが負けることなど決してあり得ないが、相手は特任騎士、しかもかのフラムシルトの一族。万が一を避けるためなら、百ある手駒がすべて捨て駒になっても構うものか。彼女はそう考えていた。しかし……。
「……ドミニクめ。しくじりましたね」
ソーニャは舌打ちした。煙のみなもとである古木が一本、消失したのを感じ取ったのだ。
あの女は魔宮に仕えるようになってから日が浅い。なんとかの蠍だかいう人さらいの三下どもが売りつけてきた元冒険者だった。魔霊の才があるからと、贄とはせずに《モアブの娘》の一員としたが……贄にした方がマシだったか。
やはりあの雌犬だ。この不愉快きわまりない結界さえ剝がしとれば、奴らは総崩れとなる。多少の無理をする必要があるだろう。
「仕方がありませんね」ソーニャは首だけで振り返る。「そこのお前。こっちに来なさい」
「ゴブ……?」
ヘイズゴブリンはきょとんとした後、とことこと近づいていく。ソーニャはその頭を鷲掴みにした。《腐り爪》の術によって、魔物の頭が腐り始めた。
「ヘギャッ!? ヘギギギ……ッ!?」
「煩いですよ。黙って歓びなさい」
ソーニャは哀れな小鬼を全力で振りかぶり、投擲した。
辺り一面に広がる戦乙女の炎は当然それを逃がしはしない。炎の壁から伸びた触手が腐りゆく小鬼の体に火をつけた。だがその速度ゆえ燃え尽きることなく……アルティナに到達する!
「なに……ッ!?」
ヘイズオークを倒したばかりのアルティナは、手甲で弾くようにしてそれを受け流した。だがその衝撃と、顔面に飛び散った腐肉の破片が、彼女を怯ませた!
「ぐうっ……! あいつめ、味方を!」
「ヒギャーッ!?」
腐ったゴブリンが次々と飛来する。その間にも呪法で操られたオークや豚兵士が殺到してくる。炎の壁を厚くして隘路を塞ぐべきか。否、これ以上はコントロールが難しくなり、レイチェルを危険にさらしてしまう。アルティナ自身で対処するしかない。
彼女は縦横無尽に剣と炎を振るい、魔物たちをしりぞける。波状攻撃でアルティナの集中力を奪い、隙をみて本命の一撃をたたきこむつもりなのだろう。バルドの報告によれば、あの状態の奴の身体能力は、おそらく《白狼の祈り》を捧げたレイチェル並み。この程度の炎は越えてくる。
さらに、奴は触れたものを腐敗させる術を使うという。ならばその手で触れるため、直接アルティナに接近してくるはずだ。それは危機であり、すなわち好機である。
(来た! 左斜め後方ッ!)
炎の揺らぎを感じた。豚兵士を焼き斬った勢いそのままに、回転斬りを放った。ブリュンヒルトの斬撃と、頭蓋を一気に腐らせようとしたソーニャのかぎ手が、衝突する!
「くう……ッ!」「ちぃぃぃッ!」
炎の中で、ふたりの女の力は拮抗した。先に退いたのはソーニャだった。剣の勢いにまかせて後方へ跳び戻り、ほんのわずか、表情を苛立たし気にゆがませる。
「けっこう頑張るではありませんか。キズモノのくせに」
「……さっきからキズモノ、キズモノと。品のない罵り方だな。知性も感じん」アルティナは冷笑的に語りつつ、乱れた息をととのえる。「この火傷の痕がそんなに怖いのか?」
「ええ、怖いです。守るべきものさえ焼き尽くしてしまう暴虐の炎。その証ですものね」
アルティナが、息を止めた。炎の壁がおおきく揺れた。
「知っていますよ。お前がかつてやらかしたこと。どんな気分なのですか? 自分を好いてくれていた人間を、自分の炎で焼き殺すというのは」
ソーニャは目を細め、見下すように顎を上げた。
「私、火は好きです。御覧なさい、このミディアンの森を。素敵な景観でしょう? 戦火に焼き殺される民の嘆きの声があったからこそ、ここまで黒く染まったのですよ。想像するしかありませんが、きっととても素敵な声だったのでしょうね」
「……」
「どうなのです? お前が最初に焼いたひとは、どんな声で叫びましたか? 覚えているのでしょう?」
アルティナは応えなかったし、動かなかった。輪郭だけが、陽炎のように蒼く揺らいだ。
ソーニャは魔物たちに指令をくだす。
いきり立った魔物の軍勢が、腐り果てた魔物の死体が、炎を越えてやってくる。越えられぬ者はその身を焼かれ、嘆き、恨み、苦しみながら死んでいく。
アルティナは淡々とそれらを処理した。炎の壁をあやつって隘路をつくり、敵を誘導して、一匹ずつ斬り伏せる。飛んでくる死体は受け流す。その剣筋に無駄はなく、魂の顕現たる炎は一定の勢いを保ったまま、弱くも強くもならなかった。すべてがアルティナの手中にある。
(魔女め。私の心をかき乱そうとしても無駄だ)
アルティナが委縮すれば、炎の壁は弱まり、攻撃がたやすくなる。逆に怒って炎を強めたなら、レイチェルが危険になる。どちらに傾いても奴の利だ。その手には乗らない。
少し前なら、違っていたのだろう。この体に刻まれた火傷を誰よりも怖がっていたのは、アルティナ自身だった。己の魂さえ制御できない未熟者の証だと、心の底から恥じていた。でも、今は。
左の頬にふれる。そこにはもう薄っすらとしか見えない痕がある。レイチェルが癒し、残してくれた傷。
(私の炎は傷つけるためだけのものではない。彼女がそう信じてくれた。だから私も、それを信じるッ!)
剣を振る。飛来物を防御する。炎の壁を維持しつづける。どれひとつとしてミスはない。また来るであろう奴の一撃にそなえ、集中力を高めていく。
(来る)
その時を感じた。正面の隘路に対して左方向、その身を焼き焦がしながら、炎のなかを突き進んでくるものたちがいる。
「「「シャハーッ!!」」」
攻撃してきたのは、三体のサハギンだった。いつの間にか呼び寄せていたか。水の霊素をやどした魔物であるがゆえ、他の生き物よりは炎に強い。
「《戦乙女よ。汝、赤熱の鎧を身にまとえ》」
ブリュンヒルトの刀身に、朝陽のような光がすべった。鋼鉄さえも溶かし斬る熱。その斬撃で、三体まとめて胴体を刎ね飛ばした。
そしてこれは囮だ。隘路に対して右方向、すなわち今のアルティナの背後から、強大な魔の気配が接近している。
(貴様の手は見切っているぞッ!)
アルティナは勢いに乗ったまま、ふたたび回転斬りで迎え撃つ。
まるで先程の交錯を再現するかのように、斬撃はソーニャのかぎ手とぶつかった。違ったのは、ブリュンヒルトが熱を纏っていること。その熱は悪魔の力を宿した女の肉体に、今度こそ食い込んだ。腕を裂き、首を刎ねた。
その瞬間、ソーニャの姿はかき消えた。
「な……ッ」
アルティナは目を見開く。
手応えはあった。だがこれは違う。斬ったのは深紅の魔霊の塊だ。質量を持つ分身を生みだす魔霊術、《魔影分身》……!
「くそッ! まさか、」
「遅い」
アルティナは反転した。その顔面を、今度こそソーニャの手が掴んだ。皮膚に五本の爪が突き刺さった。
(やはり平静を保とうとしましたね。だからお前はキズモノだというのです。誰かを守ろうなどとせず、怒りの業火で敵を焼き尽くしてしまえば良かったものを)
魔霊とともに、言葉が流れ込んでくる。悪意に満ちたソーニャの意志が。
(でも安心しなさい。私はもうお前をキズモノだなんて呼びません。それどころではなくなるのですからね)
ぐじゅり、と。
アルティナの顔の皮膚が溶けだした。鼻も、目も、額の火傷も、頬の火傷も。レイチェルの癒しの光も追いつかず、反撃も間に合わない。
死が目前にあった。
特任騎士として、アルティナにできることは、もうなかった。
ソーニャの言うとおりだった。今、この時に限っては、業火も必要なのだ。だからアルティナは、そうすることにした。
次の瞬間、アルティナの頭が、蒼き火となってほどけた。
「なにッ!?」
ソーニャは錆びた瞳に驚愕をあらわにした。掴んでいた肉の感触が消え、かわりに尋常ならざる熱が手首までを包んだ。彼女は反射的に手を引っ込め、後ろに飛びのいていた。
焼け爛れた右手の手首を左手でおさえる。あの一瞬のうちに表皮は焼き尽くされ、肉が露出するどころか、一部は骨さえも覗いている。ソーニャは脂汗とともに歯を噛み締めた。
「これがお前の……魂の形というわけですか……!」
アルティナを睨みつける。膝をついた女騎士の顔面は、陽炎の輪郭をまといながらも、元の形をとりもどしていた。
「はあ、はッ……はあ、ぐ、ッ……!」
アルティナは息を荒げていた。元の形といっても、その顔は腐敗したままだ。だがそれに苦しんでいるのではない。人の器に収めるには強すぎる魂の火に、彼女自身の心が灼かれているのだ。
ソーニャは鼻を鳴らした。
無様な姿だ。魂を制御しきれず、炎の壁も消え去っている。手痛い代償を払ったが、目的は達した。
「とはいえ……こんなに痛いのはもう御免こうむりたいですね。念を入れておきましょう」
ソーニャは大きく煙を吸い、魔霊を補充した。自身の姿を模した《魔影分身》が、魔物を引き連れて、アルティナへ向かっていく。
女騎士は剣を杖に、震える体で立ち上がる。
ソーニャの分身が手刀をかまえ、頭蓋に振り下ろした。
だがそれは届かなかった。魔霊の塊にすぎないそれは、指先からほどけ、煙のように森の奥へ吸い込まれていった。後に続く魔物どもも、次々と膝から崩れ落ちていく。まるで魂を吸われたかのように。
ソーニャの美しい顔が歪んだ。
「今度は何だというのですか……!」
魔霊が吸い込まれた方を見る。
木々の狭間の闇にとけこむように、陰気な青髪の少女が立っていた。
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