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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #32


【総合目次】

 #31



<前回>

「あたいの頭上を高々と飛び越えていこうだなんて、ムカつくわ。一羽のこらず黒コゲにしてやるんだから」

 マッハは雷霊珠の杖を大岩に直立させ、自身は跪いた。

 この時のため、霊力を温存してきたのだ。ぎりぎりだが何とかなるだろう。

 彼女は目を閉じ、心を無想の空に浮かべながら、力ある言の葉を唱え始めた。

「 天雷の戦士 轟く者 二頭の山羊を駆る者よ ── 」


 サムライオークの耳はその声を捉えていた。

 あれを完成させてはならない。悪鬼としての戦闘本能がそう告げている。サムライオークはマッハに向かって一歩を踏み出す。

「行かせるか……!」

 ヒースが立ち塞がる。サムライオークは声に出さず、心中で称えた。

 むず痒い剣法なれど未だ戦意衰えぬのは天晴れ也。だがこちらにも猶予はない。全力で押し通る。

 サムライオークは踏み込んだ!

「雄雄雄雄雄雄──ッ!!」

「ッ!」

 神速! ヒースは驚愕に固まった。一瞬とはいえ、《風の靴》を履いたヒースと同等の速度をオークが出せるとは!

 回避は間に合わない。サムライオークが大太刀を振り上げる。ヒースは絶望的に剣の腹を掲げる。

「きええええいッ!!」

 脳天を割る一撃。受けてはならぬ鬼の太刀を受け、ヒースの剣はあっさりと割れた。

 さらに大太刀は、ヒースの額から左目の下までを裂いた。彼は顔から雪面に叩き伏せられた。びしゃりと散った血が、雪を朱く染めた。

「 我 伏してこいねがう ── 」

 詠唱は続く。

 サムライオークは残心する間もなく突き進む。もう阻むものはない。そこら中に倒れ伏した魔物たちの死体を蹴散らしながら、大岩までの距離をどんどん詰めていく。大太刀が少女に届く間合いまで、あと数歩──。

 そこを風のように追い抜いていく者がいた。

 サイラスだった。彼は《風の靴》を履いていた。倒れる寸前、ヒースが託したのだ。そして力強く握る折れた槍には、術で作り出した氷の穂がついていた。

 サイラスは滑りながら速度を殺し、サムライオークと向かい合う。叫びとともに槍を突き出す。

 狙いは胸か。ならば逸らす必要もなし。サムライオークは胸で槍を受けた。そのまま力強く歩を進め、敵を押し退けんとする!

 だが……オークの半ばほどの背丈しか持たぬ男は、オークの猛進と拮抗した。サイラスは槍を握る腕と、踏ん張った脚のそれぞれに氷を纏っていた。それが彼の躰をつよく支えているのだ。

「ナメんじゃねえぞ。俺はクールな男なんだぜ……!」

 サイラスは誇らしげに言う。

 その後ろで、赤毛の少女はよどみなく言葉を紡ぐ。

「 万物を打ち砕く雷槌の欠片 星が如く 沛雨はいうが如く この現世うつしよに降らせ給え ── 」

 悪鬼は歯噛みする。この槍使い、なんと見事な、いやな男であることか。もはや押し通るのは間に合わぬ。ならば最後の手!

「飛べいッ、緋々切丸ッ!!」

 サムライオークは己の愛刀を振りかぶる。無防備な少女に投擲するために。サイラスはこれを止められぬ!

 大地を踏みしめ、逞しい胸を張り、雄々しく腕を振り上げる……その姿勢のまま、サムライオークは固まった。投げつけようとした愛刀は、主の手から離れようとせず、カチカチと音を鳴らして震えるばかりだった。

 それは大太刀に巻きついた鎖鞭の音だった。老兵が立ち上がり、《七代目のチェーンウィップ》を振るって、サムライオークの腕ごと大太刀を絡めとっていたのだ。

 ウィップは鎖鞭を強く引いた。鎖鞭はサムライオークの腕と指を削いだ。サムライオークは愛刀を握っていられず、その手から零した。

 マッハの詠唱が完成したのはその瞬間である。


「 開門せよ! 《ビルスキルニルの神門》!! 」


 掲げた杖の霊珠から、強大な霊力がほとばしった。それは雷色の光となって、一直線に伸び、天へと突き刺さった。

 暗い夜空に、電光で描かれた円陣が浮かぶ。円陣はルーン文字と幾何学模様で構成されている。最初の円陣の外側に、さらに第二、第三と、より巨大な円陣が囲うように形成される。この雪原すべての空を覆うように。

 雷神は少女の願いに応えた。光から零れ落ちてきた力の破片は、百にも届こうかという雷球となって空に留まった。そしてミーティスの民を貪らんと羽ばたく人喰い鴉どもに向けて、一斉に稲妻の鎖を繋いでいった。絶え間なく弾ける雷鳴が、鴉どもの断末魔をかき消した。

「おお……おお……!」

 サムライオークはその様を見上げ、ただ震えた。

 敗北を突きつけられた絶望、怒り。そしてそれらを上回る感嘆の呻き。

 彼の仕えた主君、惑霧の魔王は、ある国の王女が率いる一党によって討たれた。王女の名はセリア。雷光姫、後に雷光妃と称えられるようになったその娘は、封じられた禁術さえも修めたほどの雷霊術の使い手だった。決戦の日、魔王城上空には眩い光の神門が開かれ、そこから轟雷が降り注いだという。

 サムライオークは悟る。この光こそ、まさに主君を討ち滅ぼしたるもの──。

「人間どもよ。見事なり」

「お主もな。では、らば」

 すぐ傍まで近付いていたウィップが、大太刀を拾った。彼は体ごと回転させて、大太刀を振り回した。

 大太刀はサムライオークの首を刎ね飛ばした。

 残された胴体は、ゆっくりと仰向けに倒れた。首の断面からどくどくと血が流れる。空にまたたく稲光に照らされて、それは鮮烈に朱かった。

「終わった……のか?」サイラスが呆然と呟く。

「あの鴉どもが最後の隠し玉じゃろうな。安心せい。これで終いじゃ」

 サイラスは雪に尻をつき、深々と息を吐いた。

「っはあぁぁ……体力も霊力も使い果たしたぜ。もう立ってられねえ」

「カカカ。若い癖にだらしないのう。じゃが、皆ようやったわい」

 そう言ったウィップの方も、実のところ限界だった。クルトウェポンを変化させるための霊力はもう底をつき、ただの棒の姿に戻っている。これ以上老骨に鞭打つのは無体というものだ。

 遠くでは、デルフィナがヒースを介抱している。ヒースは斬られた側の目を閉じ、その顔は痛々しいまでに血で染まっていたが、意識はあるようだ。慌てた様子のデルフィナがいくつもの霊薬を傷に振りかけていた。ヒースのしかめ面はそれが沁みるせいだろう。

「うひひひ。みんな命があってよかったのだわー」

 マッハは満足げに笑った。

「それもこれも、この天才術師マッハ様が本気になったお陰よね! 報酬に色つけてもらわなくっちゃだわ。アルティナさん、いくら出してくれるかし……あら?」

 彼女はそこで、自分の頭をさすった。いつの間にかお気に入りの三角帽子がなくなっている。それだけではない。髪が。

「ほい。探しもンはこれだべ」

 ぽん、と帽子を載せられて、マッハは振り返った。ヨーナスが拾ってくれたようだ。

「あ、あらら、ヨーナスおじさま! こりゃどうもなのだわよ、うひひ」

「大した術だなァ。お前さん、だれか凄腕の術師の下で修行してたンか?」

「んあー、まあね。厳しくって口煩くってヤんなっちゃうけど、ま、凄腕なのは間違いないわねー」

「神域の門を開く術なンて、おッたまげちまったよ。おまけにその髪の色……」

「あ! ああー、コレ!? 張り切りすぎて術が解けちゃったわね! ええっと、あたいはねぇ、赤い色が大大大好きだから、普段は術で染色してんのよ! お洒落のためにね。お洒落のためよ!?」

「そうなンかァ。俺ァそういうのに疎いけンども、でもその色もじゅうぶん綺麗だと思うぞぉ。濡れた刃みたいな銀色で……」

「ぎ、銀色なんて気のせい気のせい! 光の照り返しでそう見えてるだけなのだわ! あたいの地毛は一生水浴びしたことない溝鼠みたいなきったねぇ灰色よ! 恥ずかしいから、あんま見ないで……」

「ンなことねえぞぉ? 学生時代な、プラウドスターちゅう都の学院で勉強してたンだどもな。知ってっか? プラウドスター」

「んんッ!? し、知らない知らない、行ったことない!」

「あの雷光妃セリア様のおわす都だァ。ンでな、雷光妃にはご息女がおられンのよ。かわいい双子の姉妹でなァ。二人ともお父君の方の髪色を継いだみたいで、銀髪なンさ。太陽に映えて綺麗な銀色だなァと思った覚えがあンだが、お前さンの髪、それによぉく似てっぞぉ」

「あ、あ、あ、あ、あららそう!? そそそりゃ光栄光栄、光栄の極みなのだわね! うひひひひ……」

「懐かしいなァ。どンな風に育ったかなァ、あの子ら。お前さンと同い年くらいのはずなンだども」

「う、うひ! うひひひひひ!」

「本当に行ったことない?」

「うひ!」




 神雷に撃たれて死んだ鴉たちが、ぼたぼたと雪原に落ちる。

 ミンミはただそれを眺めている。

「うう……ううう……!」

 彼女は目を逸らせなかった。鴉だけではない。小鬼、騎士兎、竜人兵。雪原を穢す魔物たちの骸。白を染め上げる血の朱色。

 運ばれてくるのは、血と焼け焦げた死体の臭いが混じり合った風。懐かしい戦禍の臭いだ。懐かしい? どうしてそう思うのだろう。こんな臭い、ほんの一月ばかり前、あのミディアンの森で嗅いだだけだというのに。

 厭だ。すごく厭だ。景色や臭いが、ではない。それを心地よいと感じている自分がだ。これではあの腐れ森の腐れ野郎たちと同じになってしまう。

「違う……わたしは……わたしは……!」 

(違いませんよ。お前は正統なるミディアンの血族。《モアブの娘》を継ぐ者なのです)

 魂の内側から囁く声。ミンミを異母妹いもうとと呼んだあの女。

(苦しむふりはもうやめなさい。魔の魂とは、血と憎悪で満たされた暗闇から生まれるもの。お前は共鳴しているのですよ。あそこで死んでいる魔物どもの血と憎悪に)

 耳を塞いでも、魔女の囁きは止まらない。あの森の戦いで、ミンミは《吸魔》の術でこの女の魂を吸った。首を締められた時にも魂が触れ合った。その際の残滓がミンミの魂にこびりついているのだ。錆のように。

「違う……わたしは違う! わたしは、お前らみたいな腐れ野郎から、みんなを守るために……」

(ならば、お前の親代わりとなってくれたあの男も殺すのですか。無辜の民に魔物をけしかける腐れ野郎ではありませんか)

「そんなことない! あの人は……そんなんじゃ……」

(認めてしまいなさい。私も、あの男も、そしてお前も、魔霊を宿したものはみんな腐れているのです。いつだって人を殺したくて疼いているのです。そこにあるのは正邪ではなく、ただただそうであるという散文的な事実だけ。あの男は認めた。お前が苦しんでいるのはそれを認めないせいです)

「うううう……ううううう……!」

(さあ、魂の声をよく聞いて。お前の望みはなんですか? この姉が叶えてあげますよ──)

 ミンミは肩を抱き、うずくまり、いやいやと首を振った。魔女の誘惑に屈したくなかった。自分の魂ごとで構わないから、この声を振り落としてしまいたかった。

 けれど顔を上げたとき、

 少女の眼は、赤黒く錆びていた。

 血のような涙を流して。




【続く】

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