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【その灯りを恐れなかったのは誰か?】 #5


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 不快な空間だった。すぐ近くに立つ二対の燭台に灯された青い火以外には光などない、どこまでも広がっていそうな暗闇である。

 暗闇の向こうには魔物たちが取り囲むように潜み、嘲笑うような息遣いが聞こえてくる。その吐息に濡れた空気が全身に纏わりついて、トビーを舐め回すかのようだった。

 トビーと同様に後ろ手を縛られたアイリスが、隣でかたかたと身を震わせている。その振動が、はからずもトビーの震えを止めてくれていた。大丈夫だよ、と声をかけようとしたが、ゆらりと現れた襤褸の男がそれを妨げた。

「怖いか、童よ」

「全然」トビーは己を強いて言った。「こんな暗闇より、客のいない宿の帳簿の方が怖いね、僕は」

「くくく……」フードの陰で男は嗤う。「立派なものだ。躰と同様、その声も震えていなければ、様になったものをな」

「寒いからね、ここ」

「火がたりんか? 我が神は眩しいのがお嫌いでな。我慢しておくれ。なあに、じきにどうでもよくなるわ」

 トビーはどんな嫌味を返してやろうか考える。だがその思考は、襤褸の男が引きずる影によって再び妨げられた。

 それは半裸の男だった。頼りない青黒の火に照らされた顔は、まるで死人のようだった。目も、鼻も、口も、閉じる力を失って弛緩している。肌には得体の知れない無数の傷と粘液がまとわりつき、彼の尊厳がどのように踏みにじられたのかを、知りたくもないのに物語っていた。トビーは奥歯を噛みしめ、アイリスは息をのんだ。

「これか? これはな、我が神にささげる贄よ。お前たちと同じようにな」襤褸の男は愉しげに言った。「たっぷり時間をかけて、そこそこの味に仕上がったはずだ。さて、我が神のお気に召すか……お前たちもよく見ておくといい」

 襤褸の男はトビーたちに背を向けた。その視線の先の闇の濃い場所が、壁に穿たれた空洞であることにトビーは気付く。

 その奥から、身の毛のよだつ気配がずるりと這い出そうとしているのを、全員が感じ取った。死人のような男の顔がよみがえり、泣き笑いのような恐怖にゆがんだ。

「い、いやだ! やめてくれ! 後生だ、後生だから、たすけ……」

 男は手足をばたつかせて哀願する。襤褸の男はおかしそうに肩を震わせてから、彼の髪を乱暴につかみ、空洞に放り投げた。

 宙に浮く男の四肢を、何かが絡めとった。蛇のようなぬめりを持つ幾本もの触手。それが哀れな男を闇の奥へ連れ去った。一瞬のことだった。

「ぎゃあああああああああッ!! やめ、やえれくれえぇぇぇッ!」

 トビーは思わず顔をそむけるが、逆効果だった。なにかが砕かれ、引き千切られる音。びちゃびちゃと粘ついた音の多重奏。つんざくような男の悲鳴はやがて細くなり、聞こえなくなった。そのすべてを、彼の聴覚は捉えてしまった。

「MYUUUUUUUEEEEEEEAAAAAA……」

 この世ならざるものが歓喜するような声をあげた。トビーにはその音がもっとも耐えがたかった。

「ハハハハハ! お喜びいただけましたか、我が神よ! ですがそれはまだ前菜にございます。今しばし時間をくだされば、甘美なる子の贄をご用意いたしますゆえ、どうかお待ちくだされ。その時こそ、あなたの失われた名を取りもどし、地上の者どもを喰らい尽くしましょうぞ!」

 応えるかのごとく、吐息のようなものが闇の奥から流れた。それは生臭いにおいを運び、トビーの鼻腔をかすめた。戻しそうになるのを必死に堪える。

(ったく、ひどいにおいだ。魚が捌きにくくなるじゃないか)

 トビーは口元だけでも笑おうとした。

 こんな暗い場所で神だの贄だのと垂れ流すイカれ野郎の考えなどはこれっぽっちも分からない。だがこいつの狙いがなんなのかは分かる。自分たちを怖がらせたいのだ。ならば怖がってやるものか。冒険者たちがそうするように、笑い飛ばしてやる。

 トビーは冷静だった。さらわれてどれほど時間が経ったかは分からないが、のんびり屋の父でもさすがに気付いている頃だろう。そして宿には頼りになる冒険者たちがいる。槍使いの一党、それにレイチェル。

 彼らなら必ず自分を探し、見つけてくれるはずだ。今の自分にできることは、それを信じ、ただ耐えること。それだけである。

(でも……)

 トビーはアイリスを見た。しかし心配は不要だった。彼女の頬には涙が伝った跡があったが、それだけだ。震えも止まっている。彼女は頭がいい。

 トビーは安堵し、今度こそ笑みを浮かべた。アイリスも同じ表情を返した。

「大丈夫。我慢できるよ、私」彼女は小さな声で言った。

「震えるくらいはいいんじゃない? すっごい寒いし、臭いし」

「お魚、しばらく食べられないかも」

 トビーはくすりと声を漏らした。哄笑していた襤褸の男がぴたりと止まった。

「……眩い」

 男は低い声でつぶやき、機敏な動きで振りかえった。その右手でトビーの首をつかみ、宙に吊り上げる。

「ぅぐっ……!?」

「ひっ……」

 トビーは声にならない呻きを、アイリスは小さな悲鳴をあげた。

 右手? たしかにそれはローブの右側の袖からのびている。しかし人間の手などではなかった。ぬるりと舐めるような触感、波打つ動き。海蛇のような触手だ。野良猫を殺したそれが、トビーの首を絞めているのだ。

「仲が良いのぉ、お前たち。実に眩いことだのぉ」

 男はねっとりとした口ぶりで言う。

「昔を思い出すわ。こんな儂にも子供の頃というものがあった。仲の良いおなごもな。同じ年に生まれ、同じ司祭に名をもらい、同じ遊びをし、同じ時間を過ごしたものだ」

 男は触手でトビーの頬をなでる。全身が粟立ち、抵抗しようとする力が抜けた。アイリスは泣きそうな目でトビーを見上げた。

「だがあの日……儂の一族がかつて魔珠派の信奉者だったことが暴かれた。それだけの理由で、儂は両親とともに村を追われた。『祖先がそうだった』、ただそれだけの理由でな……!」

 触手に力が入り、血管と気道が締め付けられる。かすむ視界のなか、男の青昏い眼光が焼き付く。

「……儂が、両親が、なにをしたというのだ? 誰もがそうしていたように、祖先の血と魂を受け継いできただけだ。それが罪悪だというのか? よしんばそうだとしても、なにも知らなかった儂をも断罪し、あの子との絆を引き裂くことが、お前たちの信じる善良か?」

 男はトビーに顔を近づける。フードの中にあったのは、邪悪な化物の顔などではなく、憎悪と悲しみにゆがんだ男の顔だった。トビーにはそれが分かった。

「お願い、やめて……!」アイリスが懇願した。「ト、トビーにひどいことしないで……!」

「おお……!」男は見開いた目をアイリスに向けた。「健気な! その眩さで儂の心を灼こうというのか? 怖ろしい童よ! その光、どうしても消し去らねばな!」

「ぐ、う……っ!」

 首を締め付ける力が強まった。呼吸ができず、意識が遠のく。

「怖いか? 苦しいか? これはお前たちの光が照らした闇だ。怨むならその光と、そこに身を浸してきた己を怨むがよいぞ」

 視界が濁り始める。トビーは意識を押し潰そうとする濁流に必死にさからい、男を睨みつけた。喉を抑えつけられて出せない言葉を、その視線にありったけ込めた。

(知ったことか、クソ野郎)

 そのとき、背後で閃光がほとばしった。

「ぬう……っ!?」

 男は左手で顔を隠し、トビーを放した。トビーは咳き込みながら、かすむ視界で閃光の方を見た。

 それは炎だった。夜明けの空のような炎の壁が弧をえがき、闇を引き裂いていた。その灯りは無数の魔物の姿をも暴き出したが、彼らは炎の壁をおそれ、喚きながら後ずさった。

 炎の壁の中心には若い女の騎士がいた。彼女が赤熱する剣を振り払うと、剣先から炎が鞭のようにしなり、また壁を築いた。

 そして彼女のすぐ後ろ。まっすぐにこちらを見る修道女。その姿を認めたとき、トビーの目の霞は増した。

(レイチェルさん……!)


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 アルティナは状況をすばやく観察した。

 かなり広い空間である。炎の壁ふたつ程度では全体を照らせていない。確認できるサハギンの数は、五……十……十五……そのくらいだ。大鼠や大ムカデの姿も垣間見えた。個体の総数としては三十ほどを最低として見積もることにする。

 そして魔物の群れに阻まれたその奥に、襤褸のローブを纏った人間。あれが件の魔教徒か。その足元には縛られた少年と少女。まだ無事である。

 おおよそ推測どおりの状況だというのを確認し、彼女は声を張り上げた。

「私の名はアルティナ・グレーテ・フラムシルト! 炎珠派の特任騎士である! 子供たちよ、助けにきたぞ!」彼女は剣先を男にむけた。「貴様は魔珠派の術士だな! 大人しく投降せよ! でなくば容赦しない!」

「ク……ハ、ハハハ、ハ」

 男は顔を隠していた腕をさげ、嘲笑を返した。

「炎珠派の犬め、こんなところまで追ってきたか。丁度良い。救いの騎士が目の前で敗北する絶望は、甘美な味付けとなろうぞ」

「投降の意志はなしか」

 アルティナは冷徹につぶやいた。

 まずはよし。子供たちに希望を見せるように振る舞えば、奴はそれを手折りにくると思っていた。これで自分たちが死ぬまで、子供たちへ危害が加えられる可能性は減らせたはずだ。

 背後のレイチェルに視線を送る。彼女は穏やかな微笑みを子供たちに向けていた。

「トビーさん。アイリスちゃん」彼女は優しい声で言った。「少しだけ、待っててください。今、私たちが助けますからね」

 子供たちが彼女を見つめ返す。その目に光るものが遠目からでも分かった。その横で、魔教徒が苛立たし気に叫んだ。

「ほざくがいい、修道女! 貴様の魂のその眩さ、光珠派だな。無遠慮に闇を暴き立てるあばずれどもめ、ふたりまとめて魔物の餌としてくれる!」

「シャハーッ!」「ヂュヂューッ!」「ギチチチ……!」

 炎の壁の外側で、魔物の群れが彼女たちを円形にとり囲んだ。もはや逃げ場はない。当然、そんなものは必要ないが。

「アルティナさん」レイチェルは振り返り、アルティナに背中を合わせた。「後ろは私が守ります。あなたはどうか、子供たちを」

「……本当に任せていいのだな」

 レイチェルは頷く代わりに、祈りとともに深く、深く呼吸した。

 金糸雀色の髪が徐々に白く染まりはじめた。彼女が呼吸するたび、その躰に光の霊素がめぐり、畏怖すべき力が満ちていく。

 やがて白髪の修道女は祈りの手をほどき、拳を握った。空気が軋むほど、強く。

 アルティナはこの空間にいたる道すがら、その力のことを聞いていた。それでも驚愕せざるを得ないほど、大いなる御霊の存在をそこに感じた。

(それが……《白狼の祈り》。君の力というわけか)

 女騎士と修道女は互いに背中をあずけ、並び立った。もはやなすべきことは明白であった。

「「「シャハーッ!」」」

 炎の壁を跳びこえ、数体のサハギンが襲いかかる。

 ふたりは赤熱の剣とかぎ爪を以って薙ぎ払った。それが狼煙だった。



【続く】

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