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酔夢 7 私の、心からの祈り(前編)


【総合目次】

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 ぽこり。後頭部を叩かれた。

「いたっ」

「守護壁が薄い。祈りに雑念が混じってますよ」

 先生はそういうと、ぶすっと見上げる私の視線を撒くように優雅に歩く。光霊珠の杖ライトオーブロッドが硬い地面を突く音がする。

「だってここ寒いし、空気が薄くて……祈りに集中できません」

「だから修行なのではありませんか。冒険者であるならば、いついかなる場所でも集中できなければなりませんよ。ましてあなたは治療役ヒーラー、仲間の命を預かる立場です。それを自覚なさい」

 防寒仕様の白い祭服を翻し、先生は私を見下ろす。老いてなお凛として淑やかな光珠派の女神官。周りからはそういう評判だけど、私には意地悪だ。何度もぽこぽこ叩いてくる。

「でも、こんな標高の高い山なんて」私は座ったまま、おそるおそる辺りを見た。雲が自分より下にある。「来るような依頼あるんですか? あったとしても、受けなければいいんじゃ」

「世界はあなたの想像なんかあっさり越えていきます。この魔物だって、いつ下界を荒らすかわかりません。私たちが知らなかっただけで、どこかで依頼が出ていたかもしれませんよ」

 先生は魔物の死骸に腰かけた。飛竜と見紛うような巨大な黒い鳥の魔物だ。おそろしい化け物だったけど、先生の《光矢の祈り》に墜とされて、椅子にされてしまっている。その後は今日の夕餉だ。可哀想になってきた。

 先生は葡萄酒を詰めた革袋をとりだし、わざわざ銀の杯にそそいだ。いちいち品がある。こんなに寒いのに震えてもいない。

「まあ、無理な依頼なら受けないというのは正しい選択ですけれどもね。優れた旅人は無謀とは何かを知っているものです」

「なんだ。じゃあ私、砂漠とかには絶対行かない」

「あら、そうですか。それならいつか連れて行ってあげましょうね」

「い……」

 いじわるババア、といいそうになって、慌ててこらえる。十連打じゃ済まない。

 先生は皺だらけの顔で柔和に微笑む。どことなく不気味だ。み、見透かされたかな……?

「でも実際、体験しないで決めてしまうのはもったいないと思いますよ。見知らぬ土地は訪れるだけで視野を広げてくれます。あなたは何のために冒険者になったのですか?」

「……人間として、成長するためです」

「ならば、世の中のことをよく知りなさい。書を読むもよし、地を踏むもよし。あなたは今日、この丈高き山の地を踏むことで、その冷たさと息苦しさを知りました。その分だけ成長できたのです。冒険者としても、癒し手としても」

「癒し手としても……?」

「癒しとは、他者への理解を土台とするもの。理解は想像という道筋を伸ばした先にあるものです。そして想像の道は、知識と経験を組み合わせ、時には翼として用い、初めて行くことができる。ほらね、大切でしょう?」

 そういって、先生は小首を傾げた。

 私は黙って、その言葉を噛み締めた。この人は意地悪だけど、やっぱり先生なんだな。そう思った。

「……先生は、砂漠って行ったことあるんですか?」

「ええ、ありますよ。陽や月をあびて輝く砂粒。渇いた風の導く先で旅人を待ちかねるオアシス。美しいところです」

「また行きたい?」

「いいえ?」先生はにっこりという。「あんなお肌に悪い土地、二度と行きません」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「そうか。君さえよければ、私たちの家族になってほしいとも思っていたんだが」

 メイウッドのおじさまは口髭と同じ角度に目尻をさげた。この人はどんな感情をあらわすときも目尻をさげるけれど、今回は、残念だと思ってくれているのがはっきり伝わってきた。でも、私はすでに決めている。

「養子でも、息子の伴侶でも……どんな形でもいい。君の人生を支えていきたいのは、私たち家族全員の願いなんだ。君には返しきれない恩がある。どうしても、行ってしまうのかい」

「はい。『世の中のことをよく知りなさい』と、神様が仰っていますから。色々な場所を見てまわりたいと思っています」

「……私が息子にいっていることと同じだな」おじさまはソファに背を預け、諦めたように息を吐く。「わかった。ならば止めはしない。君の信じるように駆け、手の届くかぎり善良な人々を救いなさい。きっとそれが、修道女としての君のつとめなんだろう」

「はい」

「でも、さっきの言葉は覚えていてくれよ。君の帰るべき家になりたい。嘘偽りない私たちの願いだ」

「……ありがとう。おじさま」

 膝に置いた両手をぎゅっと握りしめる。そうしないと、揺らいでしまいそうだった。

「さて……なればこそ、伝えなければならないことがある」

 おじさまは目尻をあげた。普段は温厚な彼がときおり見せる、厳しい父としての顔。私も居住まいを正す。

「我が一族は代々製薬業を生業とし、その道に邁進してきた。薬というのは人を救うことができる尊いものだと信じているが、元来が不自然なものでもある。現状の技術では、いくら排除しようとしても、歪みが発生する確率を無にすることはできない。わかるね?」

「……はい」

「術による治療も同じだ。霊素を直接生体に変換する方法でも、肉体を活性化させて治癒力を強化する方法でも、不自然であることに変わりはない。大なり小なり影響は出る。……君の《白狼の祈り》は後者の方法だな」

「……」

「あれは神の御力を降ろす祈りだ。人の器には大きすぎる力だ。その力によって、私たちを魔物から救ってくれたわけだが……君はその重さを理解して祈っているか?」

「覚悟の上です」私はおじさまの視線を逸らさず受ける。「教えてください。私のからだに、何が起きているのですか?」

「……まず、子宮に顕著な影響が見られる。端的にいうが、君はもう、子を成すことは生涯叶うまい」

 私は唇をかんだ。じんわりと、鉛のような感覚が胸に広がった。

 衝撃とか、絶望みたいなものはそれほど感じない。月のものはもう何年も来ていなかったから、何となく予想はしていた。子供が欲しいと強く思ったこともない。

 でも、いつかそう願う時がきて……そしてその望みはもう絶たれているんだと思い知って……その時こそ、この鉛は私の心を押し潰すのだろう。

「そして、もうひとつ」

 おじさまは続ける。目尻をさげまいと努力しているのが、私でもわかる。

「魂とは、精神的な記憶のみなもと。そして肉体的な記憶のみなもとは脳だ。《白狼の祈り》は魂を激しく揺さぶり起こし、脳髄に眠る原初の本能を呼び覚ます。記憶に影響が出ないはずがない。日常生活に支障をきたすほどではないが……」

 平坦に均されたおじさまの語りを、しっかりと聞くことはできなかった。私の意識はわずかに閉まり切っていないドアに逸れていた。

 見えないけれど、誰かがいる。クリスの匂いだ。気配を押し殺して、彼も話を聞いている……。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 しくじった。冷たい雨のなか、私は地面に横たわって、泥水に顔の半分を漬かっていた。泥には倒した魔物と私自身の血が混じっている。

 ある村を襲った竜人兵リザードマンの群れの、六匹目の頭を殴り砕いたとき、そいつの剣が私の腹を刺し、刃の先端を体内に残して折れた。抜くべきだったけれど、次々に襲ってくる連中への対処で手一杯だった。

 その剣は、闇霊銀ダークミスリルでできた特別な剣だった。《白狼の祈り》は特別な呼吸法で全身に光の霊素を巡らせることで力を得る。じゃあ、相反する闇の霊素をいっしょに巡らせればどうなるのか。

 気付くのが遅かった。刃を抜いたときには、もう立ち上がれなくなっていた。

「ふ……ぐ、うぅ……ぅ……」

 泥水をすすりながら、不様に息をする。まだ闇の霊素が残っている感覚はするけど構わない。光を呼び覚まして戦わなくちゃ。敵はまだいるんだ。早くしないと、奴らが私にとどめを刺しにくる。そして嬉々として村人たちを襲うんだ、あのときみたいに……!

 私はそう怖れた。でも、その未来は一向にやってこなかった。

「おねえさん、しっかり。死んじゃだめだよ」

 声が降ってきた。声の主は私を仰向けにさせ、傷口に布をあててくれていた。フードのなかから、聡明そうな少年が私を見下ろしていた。

「きみ……逃げて……ここは、あぶない……」

「人の心配してる場合じゃないでしょ。魔物なら平気だよ。母さんがやっつけてくれるから」

 少年は目線を持ち上げた。私はそれを追った。

 ひとりの女性が、激しい雨をものともしないで、舞うように竜人兵と戦っていた。緋色のポニーテールを振りまわし、てきぱきと魔物たちを打ち倒していく。彼女を抜けて私たちを襲おうとする竜人兵がいても、ひと跳びで頭上を越えてまわり込み、月輪のような足さばきで首を折る。牝鹿みたいにしなやかだった。私は痛みを忘れ、見惚れた。

「かっこいいでしょ、僕の母さん」

 少年は自慢げだった。

「だからおねえさんは、もう頑張らなくて大丈夫だよ。無理せず休んで。僕があなたの神様に祈っておいてあげるからさ」

 そういうと、少年はぎこちない手つきで両手を組んだ。

 少年の顔は、雨だけでなく汗にも濡れていた。なんでもなさそうな表情の裏に、不安と怯えを隠している。私はようやくそれに気付いた。

 それなのに、この子は、

 私のために祈ってくれるのか。

 この世界で私しか信じていない神様に、祈りを捧げてくれるのか。

 この子は私のことなんか何も知らない。私の神様のことなんか何も知らない。これは単なる見せかけだ。私が修道女の恰好をしてるから、真似事の真似事をしてるだけ。

 それでも、涙がにじんだ。

 冷たい体が、じんわりと温かくなった。

 だんだんと意識が遠くなる。少年の母が歩み寄ってきて、私になにかを話しかけてくる。叱られているみたいだった。「今の自分にできないことなら、遠慮なく他人を頼りなさい」、それだけ聞きとって、私の耳は役目を放り出す。

 完全な眠りに落ちるまえに、私は決断した。目が覚めたら、この子たちに必ず恩を返そう。彼らが単なる通りすがりで、目覚めたときにはいなくなっていたとしても、必ず探し出そう。何をどうするのか全然わからないけれど、私はそうするって決めたんだ……。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ここ数日間に降った雪は、白き森を名前どおりの姿に染め上げた。

 私はひときわ背の高い樺の木の下で、じっと膝を抱えていた。冬の森はとても静かだ。普段は当たり前すぎて意識しないような音でさえ、雪は覆い隠してしまう。あれは森の息遣いだったんだと、私はいつも失くしてから気付く。ほのかに濡れた冷たい匂いが頭の奥を突き刺して、私の鼻を麻痺させる。そうして私は錯覚する、この世界には私しかいないんだと。

 私はこの錯覚が嫌いじゃない。出来の悪い頭でも、考えることに集中させてくれるから。

 もうすぐ私は十四歳になる。一人前と認められる年齢だ。母さんもその歳でイラの祭司として生きることを決め、本格的な修行を始めたらしい。

 私はずっと、おじさんみたいな冒険者になって、村の外に出て行きたいと思っていた。でもクリスと友達になって、苦しむ彼に私がしてあげられることは思いのほか少ないんだと知ってから、私の世界は変わった。母さんみたいな優しい癒し手になりたいと、願いをふたつ抱くようになった。勉強を重ねるごとにその想いは強くなって、いまはもう願いの天秤は釣り合っている状態だ。

 どうするべきか。母さんは「大いに迷いなさい」といってくれた。十四歳はあくまで節目に過ぎず、絶対に決めなきゃいけないわけじゃない。それでも、ここでひとつの指針を決めておいた方がいいっていう予感がある。

 母さんのような癒し手になるため、村に残るのか。

 おじさんのような強さを得るため、村を出るのか。

 頭のなかで天秤が揺れる。片方に傾いたすぐ後には、反対側に同じだけ傾く。打ち消し合って結局なにも動かない。冷え切った森のなか、時間だけが流れていく。

 いつしか私は微睡んでいた。

 遠くから、声が聞こえてくる。

 耳を澄ます。

 母さんの声だ。何をいってるのかは聞きとれなかった。

 もっと耳を澄まそうとして、一瞬、まぶたの裏が白く染まった。

 目を開けたとき、

 そこは春の森だった。

「……?」

 私は戸惑い、辺りを見回した。

 木漏れ日が差していた。光に透けた葉叢はむらは緑というより黄色で、ぼんやりと空気が輝いている。小鳥の囀りと小さな沢のせせらぎを主役に据えて、たくさんの声が混ざり合った名前のない音がそれを支えている。

 森の息遣いがきこえてくる。

 雪の気配なんてどこにもない。肌をそっと撫でるようなこの暖かさは、春のものだ。

 眠っている間に季節を越してしまった? たぶん、そうじゃない。私の鼻はそう告げている。

「ここ……、どこ?」

 私は立ち上がった。

 ここは白き森じゃない。細長くそびえる塔のような白き森の樹木と違い、幹は太く、枝は傘を広げるみたいに伸びている。見たことのない樹木ばかりが立ち並んでいた。

 なのに……、

 どうしてだろう。見ていると、心が締め付けられるような気がする。

 懐かしいという感情。

 知らない樹々を見て、私は初めてそれを知る。

 私は歩き出した。

 瑞々しく生える草を踏み越え、土を剥き出しにした道に出る。道の先は勾配の急な斜面へと続いていて、そこには石造りの階段が連なっていた。私はそこへ向かった。

 腿を持ち上げ、昇る。

 石段は、長く長く伸びていた。数える気にもならないくらい。不慣れな動きをさせられて、脚が弱音を吐きはじめる。それでも私は休むことなく前に進んだ。

 やがて頂上と、妙な形の門のようなものが見えた。

 上り切り、それの前に立つ。

 鮮やかな朱色の門だった。二本の柱に支えられ、上方にまた二本の木が水平に固定されている。見たことのない形式だ。なのに、やっぱり懐かしい。

 それだけじゃなかった。

 私はその門の名前を思い出した。

 見たことも、聞いたこともないものなのに、その名前は魂の底から自然と湧き上がってきた。あまりに自然で、戸惑うことすらできなかった。

 私はゆっくりとその門を……鳥居の下を通り抜ける。




【続く】

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