幕間 7 ミディアンの森にて
そこは宮と呼ぶにはあまりにも相応しくない、暗黒の森であった。
悶えるように曲がりくねる枯れ木の肌は炭の色、それらの隙間を、業火の去りし後の煙のような瘴気が彷徨う。その只中で、後ろ手に縛られた壮年の騎士が跪かされていた。彼は血が出るほどに己の歯を噛み締めていた。
周囲には蒼黒の炎がともる燭台が立ちならび、幾人もの魔教徒の姿を闇よりあぶり出す。フードに翳った彼らの無表情の奥には、隠しきれない昏い愉悦が浮かんでいた。
それは魔宮のありかを暴き出そうとして捕まった哀れな騎士に向けてのものか。あるいは右の闇からひびく男の絶叫にか。それとも左の闇からひびく女の悲鳴にか。そしてその全てか。
騎士は悔恨と怒りと絶望に身を震わせ、それでも矜持の光をともした視線で、射殺さんばかりに眼前の男を睨みつけた。
「ロドルフ……、と言ったかな。君、子どもはいるのか?」
横に長い玉座にだらしなく寝そべりながら、その男は葡萄酒を満たしたグラスを揺らした。
赤い長髪を床に流している。裸の上半身はやせ細っているが、時を重ねる前には存在したであろう豊かな筋肉の残滓が、皮と骨のかたまりに堕するのを辛うじて留めていた。気だるげな顔は妖しく整っていて、一見すると若い。しかし頬と額に刻まれた皺が、すでに五十近くなる彼の年齢を物語っていた。
その男の名は、ヴァルラム・クニャジェフ。
《操魔の呪法》を編み出した魔珠派の古き一派、《ベルフェゴルの魔宮》の主。かつては魔剣士と謳われた、呪わしき闇の大司祭である。
「どうした? 子はいないのか?」ヴァルラムは重ねて問うた。「兄弟や友人でもいいんだが。とにかく君の志を継いでくれそうな者に心当たりはないのかね?」
「……」
「この男には騎士の従者をしている息子がいるようです」
玉座の傍らにいる魔教徒が割り込んだ。女の声だった。ヴァルラムは嬉しそうに口元を歪ませた。
「そうか。それは素晴らしいことだな。俺にとっても、君にとっても」
「貴様……どういう意味だ。ふざけているのか……!」
「とんでもない。君は素晴らしいとは思わないのか?」
ヴァルラムは拳で頬杖をつき、心底楽しそうな顔で言った。
「残念だが君の命が絶たれることは確定している。これから君はあらゆる苦痛と辱めを受け、魂を魔に染め上げられて、魔物たちの贄と化す。光珠派の騎士として君が歩んできた人生は、すべて無駄になるのだ」
「……ッ」
「だが君の子が想いを継いでくれるのならば、必ずや我々を倒そうとするだろう。君はそのような希望を抱いて死んでいけるのだ。それは幸福というものではないかな?」
「や……やめろ! 息子には手を出すな!」
「もちろんだ。我々から手を出すことはしない。せいぜい苦痛に歪んだ君の首を送り届けてやるくらいだ。そして君の子が成長し、我々を討ち果たそうとするのをただ待とう。ああ、楽しみだ。想いを継いでくれる者がいるというのは、本当に素晴らしい……!」
ロドルフは叫ぼうとして、咳き込んだ。吐き出された唾液には血が混じっていた。ミディアンの瘴気にあてられたせいだ。
彼はもはや声をあげること叶わず、二人の魔教徒に脇を抱えられ、闇の奥へと引っ張られていった。
それと入れ替わるようにして別の魔教徒が姿をあらわし、ヴァルラムの前に跪いた。
「大司教猊下。ご報告したいことが」
「ザシャか。うん、どうした?」
「リディア付近に配置していたゴブリンの軍団二つですが、潰滅させられました」
「リディア付近の……うーん……すまないな、酒が入ったせいか思い出せない」
「西の街道を南北からはさむ形で配置したものです。北側をビロンとリチャードが率い、南側を『お客』が……」
「ああ、あれか。思い出した。ビロンとリチャードね。彼らも死んだのか?」
「そのようです」
「そうか。彼らは有能だったな。残念なことだ」ヴァルラムは至極どうでもよさそうに言った。「それにしても、二ヶ所ともとは。誰がやったかは分かっているのか?」
「両者とも、《ユニコーン騎士団》の仕業のようです」
「《ユニコーン騎士団》! そうか、また彼らか。目覚ましい活躍ぶりじゃあないか。実に素晴らしい」
ヴァルラムは笑った。ザシャは表にこそ出さなかったが、訝しんだ。この大司教は同志を失ったことを嘆かず、憎き敵の存在に喜んでいる。
《ベルフェゴルの魔宮》は千年近くにもおよぶ歴史を持つ結社であるが、そのほとんどにおいて雌伏を強いられてきた。思うような活動ができるようになったのはここ数十年……、特にヴァルラムが大司教となってからのことだ。生粋の魔珠派の血筋に生まれたザシャは、この有能な指導者を尊敬している。だが……。
「猊下……おそれながら申し上げます」
気がつけば不安が声となって出ていた。
「落月の途にあった我らが今日も存在できるのは、ひとえに猊下のお力によるもの。しかしながら、現状は劣勢です。贄となる女を提供していた《オニキスの蠍》なる山賊団が潰滅し、邪神をよみがえらせるために協力を求めてきた男も殺されました」
「敗北つづきというわけだな」ヴァルラムはあくまで楽しそうだった。
「遺憾ながら、その通りです。かような状況においては、《ユニコーン騎士団》は忌々しく恐るべき敵でございます。その存在を喜ぶのではなく、なにとぞ強く警戒をしていただきたく……」
「何故だ? 君は喜ばしくないのか?」
ヴァルラムはにやけた顔で首を傾げた。
「聞けばクリストファー・メイウッドの復讐心は、《白き森のイラ》に端を発するものらしいじゃないか。つまり俺たちが蒔いた種だ。それが遂に実り、逆に俺たちを刈り取らんしている。俺はそれを待つだけで良いのだ。素敵じゃないか。楽しいじゃないか……!」
ヴァルラムは己に憎悪を向ける敵を思い、葡萄酒よりも深く酔っているようだった。ザシャには大司教の心中が理解できない。
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