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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #3


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<前回>

 四歩のところで立ち止まり、それは……ローブに全身を包んだザシャは、もはやろくに見えぬ目で獲物を見下ろす。かすれるような寝息をたてる少年を。

 《ベルフェゴルの魔宮》より下された最後の命令。『狼を怒らせろ』。ザシャは生まれてから死ぬまで魔宮の忠実なるしもべだ。だからそれを果たすのだ。その身がどんな形になろうとも。

 彼は少年に手を伸ばした。

「何してるの。お前」

 背後から、凍てつきそうな女の声。

 振り返ろうとしたザシャより先に、レイチェルがその肩を掴んだ。白い髪が闇に踊り、ザシャの体を廊下の壁へと叩きつけた。




 男のうめき声を激突音が覆いつぶす。その音は眠っていた親子を叩き起こした。

「な、何だ、いったい!?」

 主人は目を瞬かせながらも、息子を守るよう半ば無意識に動いていた。トビーは鮮明に浮かび上がる白い髪の背中をまっすぐに見ていた。

「レイチェルさん……?」

「大丈夫。すぐ終わらせる」

 レイチェルはそう言って、すたすたと廊下へ歩を進めた。

 男は壁にもたれかかり、首を垂れて座り込んでいる。意識があるかは分からない。レイチェルはとどめを刺すべく慎重に近づく。

 男が弾かれたように顔を上げた。

 同時に、手のひらをレイチェルに向ける。レイチェルは目を見開く。二本の指が欠けた男の手のひらには、穴が空いていた。否、穴ではない。口だ。二対の牙が剥き出しの。

 耳の奥で、鼓膜が悪い予感に身じろぎした。レイチェルは咄嗟に両耳を塞いだ。男の手のひらの口が、人間の可聴域をはるかに超えた叫び声をあげた。

「く、う……ッ!」

 レイチェルは歯を食いしばって耐える。耳を塞いでいる状態でも、神経は痛みに悶え、脳髄を撹拌しようとしてくる。鼓膜は破れても治癒できるが、脳へのダメージはまずい……!

 超音波の嵐はすぐに去った。男は手のひらの口を閉じた。レイチェルは血を流す両耳から手を放し、鉤爪で男の首を薙ごうとした。

 だがその一撃は、虚しく空を裂いた。とつぜん男の姿がかき消え、代わりに、小さな黒いものが翼をはためかせ、不規則な動きで闇を舞った。

 姿はよく見えなかったが、動きで分かる。蝙蝠だ。魂の形に合わせて肉体を変化させる術。あの姿で忍び込んできたのか。

 蝙蝠は二階へ逃げていったようだ。レイチェルは室内の親子に目をやった。彼らも両耳を抑えて悶えていたが、レイチェルほどではない。おそらくは大丈夫だろう。

 レイチェルは階段を駆け下りた。

 見慣れた廊下を見まわす。聴覚は未だ戻らず、視界も揺れていて、よく見通せない。だが廊下にいないことは分かった。部屋の扉も窓も締まり切っており、あの姿では開けられまい。一階か。

 下りの階段に足をかける。

 一段、二段。そして三段目を踏んだ、その瞬間、彼女は後方へ身をねじりながら、裏拳を繰り出した。

 その軌道上には、蝙蝠から変ずる途中の男の肉体があった。天井の闇の中に潜んでいたのだ。レイチェルにはそれが分かっていた。そこからとても厭な臭いがしたからだ。

 拳は男の胸を打った。振り抜いて、二階廊下の壁に男を叩きつけた。

「がはっ! ごぼっ、こっ……かッ」

 男が血反吐をまき散らす濁った音が聞こえる。耳は癒えた。だがレイチェルは眉をひそめ、殴った手の甲を見た。

 男の着ていた布の切れ端がついている。手に取り、裏側を見てみると、そこには肉片が付着していた。肉片は腐敗していた。

「かはっ、は……は、は……。やはり、駄目か。万全な状態なら、貴様を殺すなぞ、簡単だったはずなのだがな」

 血泡まじりの咳を自嘲の笑いに変え、男は言った。

「御覧の、とおりだ。よく見てみろ。たかが蝙蝠一匹の分際で、傲慢にも悪魔を蹴落とそうとした、身の程知らずの姿をな」

 レイチェルは階段を上がり、男に歩み寄った。月の光が窓から射しこみ、男を照らす。

 力なく両手を広げ、男は胸をさらけ出していた。そこには紫色の光を放つ666の数字が刻まれていた。禍々しい刻印は彼を責め苛むことを悦ぶように、爛々と昏い明滅を繰り返している。

 彼の両手、両足は、急速に腐敗を進行させていた。月光が彼の手にかかると、まるで溶けるようにしてその手が崩れた。床に落ちた手は青黒く変色し、液状化していく。ぐずぐずと苦悶の音をあげながら。

「これが俺の罪に対する罰だ。魔宮のために身命を捧げた俺への最期の褒賞だ」

 フードの奥で、男はくつくつと笑う。

「俺には猊下の考えが分からん。あの方は忠実なるしもべよりも、お前たち《ユニコーン騎士団》の方がお気に召すらしい。狂っているんだ。俺はそんな男を崇め奉るのが嫌になって、結果、この様さ。笑いたくば笑え」

「……」

 レイチェルは黙っていた。男は引き攣るような声で、また笑った。

「猊下は腐りゆく俺に使命を下さった。お前たちを魔宮へ招くための言伝だ。行くがいい。行って、お前たちの怒りを見せてみろ。その怒りで、あの方の喉笛を嚙み砕いてみせろ……!」

「……」

「『グランダース南東。濁り河と黒曜の山の狭間。ミディアンの森』。確かに……伝えたぞ……」

 それを待っていたように、腐敗がさらに加速した。男の肘と膝の先が崩れ落ち、あたりに漂う異臭を強める。

 レイチェルは《白狼の祈り》を解いた。金糸雀色の髪の修道女は床にひざまずき、死にゆく男の胸にそっと手をあてた。その手が癒しの光を放ち、男の体を包んだ。腐敗が止まった。

 それはこの宿を穢させぬための祈りである。だがその光は、残された最期の数秒間、ザシャに苦痛を忘れさせた。それも確かなことだった。

「レイチェルさん!」

 転がり落ちるような勢いで、トビーが階段から下りてきた。蝋燭を手にした主人が慌てた様子で続く。二人は漂う悪臭に揃って鼻を抑えた。

 レイチェルは二人に微笑んだ。

「安心してください。もうやっつけました」

「……何だったの、そいつ」

「魔物を操って、悪いことをする人です。私を狙っての狼藉だったようですね。ごめんなさい、巻き添えにしてしまって……」

 レイチェルは頭を下げた。何も言葉が出てこないトビーに代わり、父が言った。

「お怪我は大丈夫なのですか。耳から血が」

「へいきです。まだ耳鳴りがしますけど、それだけです。お二人こそ、いかがですか」

「私どもも同じです。あなたが入り口で壁になってくれたお陰ですな」

「よかった。お二人に何かあれば、私の神様に懺悔のしようもありませんから」

 レイチェルは立ち上がった。四肢を失った男の死体を見下ろしながら、何事か考えている。やがて顔を上げて、トビーたちを見た。

「ご主人。トビーさん。今までお世話になりました」

「え」

「この人の狙いは私です。敵は組織なんです。私がここにいる限り、お二人を巻き込んでしまう可能性はなくなりません。だから、決着をつけに行きます」

 レイチェルは胸の前で両手を組んだ。骨の軋む音が聞こえそうなほどに、力強く。

「それが終わったとしても……ご存じのとおり、私は怒りっぽくて、暴力的ですから……きっとこれからもたくさん敵を作るでしょう。また同じことが起きるとも限りません。そうなる前に……」

「嫌だ!」

 トビーは叫んだ。

「嫌だ。行かないでよ、レイチェルさん。僕を置いていかないで!」

「トビーさん」

 レイチェルは痛みをこらえるような顔をした。トビーは頬を赤らめた。彼女にそんな顔をさせた自分を恥じた。

 ぽん、と背中を叩かれる。トビーは振り返る。父が頷いた。

 少年は躊躇いがちに、レイチェルに歩み寄った。

「レイチェルさん」

「はい」

「まず……最近、冷たくしてて、ごめんなさい。本心じゃなかった」

「いいんです。気にしないでください」

「明日、さ。地珠派の修道院の人が、リディアに野菜を売りに来る日なんだ。冬越し用にキャベツの漬物をたっぷり用意しておきたいから……買い物、手伝ってほしい」

「もちろんです。せめてそれくらいは……」

「それから」

 トビーはそこで息を継いだ。

「レイチェルさんがいっぱい仕送りしてくれたお陰で、余裕あるんだ、うち。だから家具を新調しようかって父さんと話してて。特にレイチェルさんの部屋のベッド。あれ、うるさいでしょ」

「……そうですね。ギシギシ叫んでます」レイチェルはくすりと笑う。「私が重いから嫌がってるのかな、って思ってましたけど」

「古いんだよ。前から気になってたんだけど、いい機会だから。買い換えようと思う」

「いいですね」

「一緒に選ぼう、レイチェルさん」

 レイチェルは固まった。視線だけが彷徨おうとしたが、トビーの目はそれを捉えて離さなかった。

「決着ってのをつけてからでいい。僕たち、待ってるから」

「……いいんですか。私で」

「レイチェルさんが使うベッドだもの。いいに決まってる」

 トビーの言葉はまっすぐだった。レイチェルは言葉を求めて息を吸ったが、やがて観念した。ああ、なんて我儘な子だろう。この子は私をお客さんだと思っていないみたいだな……。

「分かりました。素敵なベッド、一緒に選びましょうね」

「約束だよ」

「はい。約束します」

 レイチェルはしっかりと頷いた。

 それを見て、トビーの体からようやく力が抜けてきた。膝が折れそうになって、慌てて身を躍らせる。少年は照れ笑いで誤魔化した。




【続く】

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