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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #10


【総合目次】

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 レイチェルたちの位置から見て北西。その方角に、呪わしき古木のうちの一本が祀られている。

 今、その広場では、《ユニコーン騎士団》の兵士たちと《ベルフェゴルの魔宮》の教徒たちとが激戦を繰り広げていた。

「我らが故郷を蹂躙する悪人どもめ! 父祖の墓標は汚させはせんぞ……!」

「どの口でほざくッ! おれの家族を……父さんと母さんを返せッ!」

 左目に切り傷のある壮年の魔教徒と、仇を追いつづけてきた槍歩兵の青年が相対している。数の上では魔物を従えている魔教徒が圧倒的有利。しかし、どれだけ魔物に傷をつけられても、青年は怯まず戦いつづけた。彼は自分に力をあたえてくれる癒しの結界に感謝し、憎悪を研ぎ澄ませた。

「そこだァーッ!」

「おがッ!?」

 魔物の壁を振り払い、青年の槍はついに両親の仇の喉元をつらぬいた。魔教徒の口からごぼごぼと血が溢れた。

「ああ……父さん、母さん。おれは……おれは……!」

 青年の目が涙でにじんだ。しかし魔教徒は最期の瞬間、全霊を《操魔の呪法》に注ぐのを忘れなかった。

「「「オオオォォォッ!!」」」

「うぐあッ……が……」

 殺意を最大限に増幅されたオークたちが押しよせ、青年を叩きのめした。癒しの力も間に合わず、青年はぐちゃぐちゃの肉塊と化した。酸鼻なる臭いが立ち込め、灰色の地面は血でその身を潤していく……。

 この場において、それは珍しい光景ではない。彼らはみな、殺し合うためにここにいるのだ。

 だがある一画だけは、戦場に相応しいとはいえない特異な空気が漂っていた。そこを満たすのは血の臭いではない。肌にほんの微かな痛みを刺し、心を甘くとかすような、淫靡な匂い。

「く……くそぉ……っ! 頭がおかしくなりそうだ……!」

「しっかりしろ! 相手は小娘だぞ……!」

 列を並べた歩兵たちが、不自然に前かがみの姿勢で槍を構えている。

 その先には、ほとんど紐同然の黒い下着をあらわにした青肌の少女の姿があった。彼女はみじかい舌で唇を湿らせ、小首をかしげて笑った。

「オカしくなっちゃえばイイじゃんさ、お兄さんたちィ。レムちんの下僕になってくれたら、イイことたっくさんシたげるよォ?」

 彼女は両手の爪を、己の腿にゆっくり這わせた。ただそれだけの仕草が、淫靡な匂いをいっそう強めた。槍歩兵たちは目を逸らした。

「ちくしょう! 俺は年上以外は抱かねえって決めてるんだ! なんでこんなガキに……!」

「淫霊術だ! 道理を越えて本能に働きかけているんだ! 屈してしまったら、魂まで奴に支配されるぞ!」

 槍歩兵たちは必死にあらがっている。レムは蠱惑的に整えていた顔をゆがめ、舌打ちした。

「ちっ……うざってーなァ。さっさと理性なくしておッ勃てちまえっての」

「わたくしが参ります! てやーッ!」

 ボブカットの女性兵士が突撃した。レムは素早い突進を難なく躱しながらも、不思議そうに彼女を見る。

「あり? あたしの術、女にも効くんだけどな」

「生憎と、わたくしには心に決めたひとがいますのよ!」

 女性兵士は目にも止まらぬ連続突きを放つ。だがレムはそれらを造作もなく払いのけ、身を屈めると、豹のような速度で女性兵士の背後にまわった。そのまま跳びかかり、両手両足を絡めて拘束した。

「しまっ……! は、放しなさい! 放して!」

「ヤだよん。お姉さんキレーだし」

 レムは女性兵士の顎に指を添わせ、自分の方を振り向かせた。睫毛がふれるほどの距離からとてつもない淫臭を嗅がされ、女性兵士の頬が赤らんだ。

「ああぁ……! お、お願い、やめて! わたくしには夫が……」

「あら。お姉さん、人妻? サイコーだね」

 レムは容赦なく、唇を奪った。

「んむッ……~~~~~!?」

 女性兵士は目を見開いてもがこうとするが、レムに舌を絡めとられればもう逃れられはしない。淫霊術師の唾液を流し込まれる快感は、その匂いを嗅ぐことの何百倍にも達するのだ……!

「んむ……ちゅ……んぅぅぅ……!」

「ぷはぁ。ンフフ、おいしかったぁ」

 レムは拘束を解き、地面に下りた。女性兵士は惚けた表情で全身を痙攣させながらも、膝を折ってはいない。レムの意思がそうさせているのだ。

「これでお姉さんはアタシ専用の肉人形。そういうわけで、お仲間のこと、サクっとヤってきちゃって」

「あ……ああぁ……」

 女性兵士はビクビクと震えながら、仲間たちを振り返り、槍を構えた。涙がとめどなく溢れていた。

「み……皆さん……わたくしに、構わず……あっあぁ、あっ……ごめんなさい、あなた……ごめんなさいぃぃ……」

「く……くそおッ! 卑怯者のガキめッ! よくも、こんな……ッ!」

 槍歩兵たちはさらに前かがみになって後退した。レムは手を叩いてそれを笑った。

「キャッハハハ! 人妻が小娘に犯されんの見て勃っちゃったわけ? やーらしー。ほんと男ってザコ……あり?」

 ふらり、と、レムの体が揺れた。急な立ち眩みだ。それも心地よいふらつき……淫らな意味でなく……。

「ありりり? なんかぁ、急にきもちぃ……いや……すっげえ頭イタ……うぷッ!?」

 レムはとっさに口を押さえた。意識の混濁、激しい頭痛、そして吐き気。急激な酩酊に襲われている!

「ちょ……これ、まじヤバ……おぐっ!? おごえぇぇぇッ!!」

 我慢しきれず、レムは胃の中のものを地面に吐き出した。

 あたりの空気が一変した。吐瀉物の臭いが淫らな匂いを塗り替え、低い声でえずく少女の姿を見た兵士たちの背筋がのびた。言いなりの人形にされていた女性兵士は、ぷっつりと糸が切れたように膝をついた。

「ようやっと嗅ぎ慣れた臭いになった。これでお互いスッキリだな、嬢ちゃんよ……イック」

「うぐえっ、げほっ、ごへっ……お、おっさん、アンタ……!」

 レムは四つん這いのまま、声の主を睨みつけた。

 古木の根にひそむように座っている、赤ら顔の男だった。彼は透明な液体の入った瓶を片手に、煙を吐き出していた。摂取した酒精を何倍にもした酔霊術《酔煙》の使い手。イェンス・アッペルバリである。

「北方極地の名産品、《聖火の接吻》だ。度数九割越えだぜ」アッペルバリは瓶を揺らした。「そんな様を見せられちゃあ、百年の恋も冷めるってなもンだ。うちにゲロ趣味の奴がいなくて助かった」

「ハァー……ハァー……、ナメんなよ、おっさん……!」

 ふらつく体を強いて、レムは立ち上がる。口の周りについた吐瀉物を拳で拭った。彼女の体から、ふたたび淫臭が漂い始めた。

「アタシはレムちん。《モアブの娘》序列第四位。ゲボ吐いたくらいで、アタシの魅力が殺せるもんかよ……!」

「大した自信じゃないか! 敵ながら見上げたもんだね!」

 馬の足音とともに、風が吹いた。

 レムは振り返る。爽やかな風を巻き起こしながら、駿馬が軽やかに駆けてきた。馬上には波打つ黒髪の女騎士。風霊銀の槍を手に、冷たい視線でレムを見すえる。

「実際、あんた素敵だよ。悪魔に魂を売ってさえなきゃね」

 女騎士ジルケの操る愛馬は、あっという間に槍の間合いにまで近付いた。

 ジルケはすれ違いざま、螺旋状の風を纏った槍をレムに突き出した。レムはそれを払おうとした。だが重度の酩酊にある体では遅すぎた。槍は彼女の口にねじ込まれ、風が頭を吹き飛ばした。首を失った体は仰向けに倒れ、もはやそこから漂うのは死の臭いのみである。

 ジルケは止まらず、槍の穂先に風をあつめる。やがてそれを烈風の刃として、古木の胴体にむけて放った。刃は驚くほどするりと通り抜け、両断された古木はぼそぼそと崩落した。夜よりも黒い煙が解き放たれた。彼女は顔をしかめ、離れた。

「ああもう、胸糞悪い……」胸元から《ささやく翡翠》をとりだす。「ジルケだ。こっちの古木は処理したよ。残りは一本!」

 喋りながら、彼女は愛馬の足を止め、周囲を見まわした。生きている敵の姿はもうない。仲間の数はおよそ十五。当初はその四倍はいた。駿馬の風でも払えないほどの血の臭いが、鼻の奥をついてくる……。

「よう、お疲れさん」アッペルバリがのそのそと歩み寄ってきた。「縦横無尽の働きだったな。おかげで早くケリがついた」

「仲間をたくさん死なせちまったけどね……」

「お前さんのせいじゃねえよ」

「まあ、くよくよしてる時間もない。みんなの様子はどうだい?」

「疲れてる奴らばかりだな」アッペルバリは酒瓶を口につけながら、後ろを振り向いた。「誘惑されて昂ってたり、腰が抜けてる奴もいる。ちっとばかし休息は必要かもしれんが、言うとおり時間もねえ。俺らだけでも会長かレイチェルの支援に……、あン?」

「どうした」

「いや……フィリップとミンミが見当たらねえ」

「なんだって?」

 ジルケも探したが、確かにふたりの姿がない。この広場に到達するまえに、彼らの部隊とは合流していたのだが。

「隊長たちなら、レイチェルさんのとこへ向かいましたぜ」

 フィリップ隊所属の槍歩兵が近づいてきて、言った。ミンミがナンパ野郎と呼んでいた青年だ。

「こっちの戦況が落ち着いたころに、ミンミがとつぜん走り出して……フィリップ隊長はそれを追っていきました。俺らはジルケさんらの指示に従えと」

「おいおいおいおい」アッペルバリは眉を顰め、頭をかく。「ほんと分かんねえな、あの嬢ちゃんは……」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ミンミにとって、怒りという感情は他人がうかべるものでしかなかった。

 物心ついた時には、親とよべる存在はいなかった。所有者がいただけだ。その所有者も転々とかわった。みんな、お金とミンミを交換しているみたいだった。

 ミンミには魔物をあやつる才能がある。その力で、人が死ぬようなことをたくさんさせられた。そうでない時には魔物と一緒の檻で過ごし、一緒の餌を食べていた。

 別になんとも思わなかった。これで普通だと思うことすら知らなかった。

 それが変わったのは、クリストファーと出会ってからだ。

 殺すつもりだった。当時の所有者に、そうしろと言われたから。でもできなかった。クリストファーの前に魔物を立たせると、なぜかあやつれなくなるのだ。ミンミはあっさりと捕縛され、これできっと自分も死ぬんだなと、特に感慨もなく覚悟した。

 結局、そうはならなかった。クリストファーは事情を聞くと、「君がそうしてほしいと願うなら、僕が衣食住の保障をしてもいい」と言った。おなかが空いていたから、深く考えないで頷いた。

 彼が最初にくれたごはんは……、何だったっけ。よく覚えていない。パン。チーズ。スープにはソラ豆が入っていたような気がする。至って普通のメニューだったのは確かだ。

 そう、普通だった。普通だったんだと、今なら分かる。

 でも、餌しか食べてこなかったミンミにとって、それは初めての食事だった。翌日、ミンミは食べ過ぎで消化不良をおこした。

 こうして、クリストファーがミンミの保護者になった。商売を手伝わせようとしたのか、彼は読み書きや計算などを教えてくれたけれど、ミンミは《ユニコーン騎士団》の仕事のほうに興味をもった。魔物をあやつるという自分の才能を、今までとは違う形で活かせるのではないかと思ったのだ。クリストファーは反対したが、最終的にミンミが押しきった。

 それからは、本当に楽しい日々だった。フィリップ隊に配属となって、仕事は命懸けだったけれど、今までのことを思えばそんなに苦ではなかった。何より、人を殺すためにしか使われなかった才能を、人を守るために使えるのは、なんかいいな、と思えた。

 そうして稼いだお金で食べるごはんはとても美味しい。それを知ると、フィリップが奢ってくれたごはん、つまり他人のお金で食べるごはんがより美味しくなることも知った。他人と一緒に食べるごはん……友達と食べるごはんが、いちばん美味しいということも。

 エメリ。生まれて初めてできた、わたしと同年代の友達。

(あなた、ミンミっていうの? 変わった名前だね)

(みんなそういう。わたしは変なヤツだって)

(なんか誇らしげじゃん)

(ほこらしげ? なにそれ)

(えへん、て胸を張りたくなるってこと)

(えへん)

(そうそう、上手)エメリはにっこり笑った。それから言った。(ねえ、一緒にごはん食べようよ。そんなに痩せてちゃ、胸張るのも息が切れるでしょ。今日はフィリップさんじゃなくて、あたしが奢ってあげる)

(やったぜ)

 彼女と食べたイノシシ肉の料理は、硬いし筋が張っていたし塩気も全然なかったけれど、エメリがたくさんお話してくれたから、すごく美味しかった。故郷のこと。幼馴染のケネトのこと。これからのこと。

 羨ましいと思った。自分もいつか、こんな風に彼女が誰かに語ってくれる存在になりたいと、そう願った。

 なのに……なのにあの時。たくさんの犬を連れた負け犬ヅラのクソ野郎と戦った時。ミンミは致命的なミスを犯した。ミンミだけじゃない、フィリップも、ケネトも、他の仲間も、そしてエメリ自身も。

 そのせいで、エメリはひどい目に遭った。死んだわけではないが、もう冒険者を続けられなくなった。これからのこととして語っていた未来が、二度と来ないものになってしまった。

 あれからずっと、ミンミの胸にどす黒い気持ちがわだかまっている。クリストファーやバルド、《ユニコーン騎士団》のみんなが時おり見せる表情のみなもとは、きっとこれだ。ミンミはそれを思い知った。クリストファーが反対していた理由も。

 知ってしまったからには、もう引き返せない。ミンミはすでに決めていた。人を守るために使ってきた才能を、もう一度、人を殺すために使おうと。誰の命令でもなく、自分自身の怒りのために、悪いやつらをブッ殺すんだと。

 そして、今。

 ミンミの眼前では、孔雀緑の髪の女騎士が苦しんでおり、金糸雀色の髪の修道女が一心に祈りをささげている。そのふたりを、たくさんの魔物と、それをあやつる悪魔憑きの女がとり囲んでいた。彼女たちを殺すために。

 あの日の繰り返しを見るのはもういやだ。だからミンミは《吸魔》の術で奴らを引き止めた。思っていたよりはるかに効果があった。

「今度は何だというのですか……!」

 悪魔憑きの女が、苛立ちをあらわにミンミを見る。

 ずっと感じていた。このミディアンの森のなかに、強くミンミを引きつける存在がいることを。邪悪な魂の在り処を。だからここに来た。

 ミンミは直感した。こいつがそうだ。

 どうしてこいつの存在を感じられるのか。そんなことはどうでもいい。

「わたしはミンミ。《ユニコーン騎士団》の魔霊術師」ミンミは静かな視線にありったけの憎悪をこめて、言った。「おまえらをブッ殺しにきたんだよ、クソ女」




【続く】

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