【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #36
獣たちの足跡を追っていると、人の死体を見つけた。
クリストファーは見下ろす。恐怖に硬直した男の額に、尖った土が突き刺さっている。男の手にはフリントロック・ピストルが握られている。クリストファーはすべてを察し、先へ進んだ。
樹の幹に、誰かがもたれかかっていた。力なく四肢を放りだしている。足元には霊薬の瓶が転がっている。胸のところを染めているのは血の赤だろう。
無言で近付く。
老人は重たそうに首を上げる。
「やあ、メイウッド君……。気分はどうだね。満足かね?」
「……神狼珠が目当てか」クリストファーは言った。「お前は何らかの手段で僕たちを観察していた。そして逃げるレイチェルを見て、神狼珠のありかに向かっていると推測し、横取りを企んだ。だからこの森に入った。そして邪魔になるバルドを足止めしようとして、返り討ちにあい、その様になった」
「ご明察だ」
「欲をかきすぎたな。慎重なお前らしくもない」
「まったくだよ。焦りとは怖ろしい。簡単に人を愚かにする」
ハドルストンは自嘲した。
「正直に言うがな、メイウッド。この土地を搾取し尽くしたら、儂は隠棲するつもりだったんだ。六十年間、金稼ぎのことしか考えてこなかった。疲れたんだ。どうせ何もせずとも金が入るような仕組みも構築している。ここらが潮時だと思っていた」
「……」
クリストファーは黙って聞く。右手に銃の重みを感じながら。
「だが、だからこそ、感傷の入る隙間をつくってしまった。この地には豊かな霊脈が流れているだけでなく、神の御霊を封じた霊珠さえあるという。儂でさえ手にしたことのない、たいへん希少なものだ。儂は気になった。神様とは、いったい幾らで売れるものなのだろうか……と」
「……」
「気にならんかね? 君も商人の端くれだろう?」
「僕はお前のような強欲ではない」
「ふん、そうだったな」
「遺言はそれで終わりか?」
銃を揺らす。ハドルストンは左手を前に出す。
「まあ待ちたまえ。儂もまだ死にたくない。商談といこうじゃないか」
「僕が応じるとでも思うのか?」
「応じる。でなければ、君は殺すべき相手をひとつ取り逃がすことになる」
「……」
クリストファーの視線はどんどん冷たくなっていく。ハドルストンは気にする様子もなく、語りつづける。
「まず第一に、ミーティスの……イラの村の所有権をレイチェル嬢に返還する。もちろん白き森もだ。住民については、生かすも殺すも君の好きにしろ。儂はそこまで関知しない」
「……」
「そして、ここからが本題だ。儂がイラの所有権を欲しがった元凶……神狼珠の買い手の情報を教える」
「神狼珠の、買い手だと?」
「考えてみたまえ。神珠教団は強大だ。その影響力は大陸全体に及び、儂ごときに逃れられるものではない。質のよくない霊珠程度ならまだしも、神を宿したものを売ってしまえば必ず足がつく。普段の儂ならば、そんな危険をみずから冒したりはせん。ならば何故? 何故だと思うね」
眉をしかめる。不愉快だが、ハドルストンの言葉に思考を誘導されている。クリストファーは言った。
「大陸の外に、取引相手がいるのか」
「いかにも」ハドルストンは頷いた。「儂のような欲深は世界中にいる。奴らは異邦の神に敬意など払いはせん。奴らにとって神珠とは、強大な力をもたらすただの装置に過ぎんのだ。儂にとっては都合のいいことにな」
「……」
「奴らの手は長いぞ。そして儂以上に狡猾だ。君に探せるかね? 探せるとしても、想像のつかんほどの苦労を強いられることになるぞ」
ハドルストンは、睨むように見た。その眼光は生への欲に輝いている。
「儂を生かしてくれ。欲しがるのはそれだけだ。儂はもう懲りた。余生は大人しく過ごすと誓うよ」
「……」
クリストファーは、黙った。長い沈黙だった。その間、ハドルストンは挑むような視線を一瞬たりと外すことはなかった。
やがて、クリストファーは言った。
「いいだろう。商談成立としよう」
ハドルストンは、頬を歪ませた。勝ち誇ったように。
「理性的な判断だ。感謝するよ」
「ただし、条件がある」
クリストファーは片手でポケットをまさぐり、取り出した物を放った。ハドルストンは雪に投げ出されたそれを見た。
銅貨だった。
たった1クリムの価値しかない、錆びた銅貨。
「拾ってみろ。雪の下に埋めている、その右手でだ」
「──」
ハドルストンは、彼を見上げた。クリストファーは冷たく見下ろした。
長い沈黙が、ふたたび満ちる。
彼らの間にあるのは敵意による沈黙だけ。それを確かめ合った。
どこかの樹から雪が落ちた。
ハドルストンが右手を上げた。銃を握っていた。死んだ傭兵から奪ったフリントロック。老人の指が引き金をひく、それよりも、クリストファーの方が速かった。彼は撃った。
ハドルストンの額に穴が開いた。
老人は、目を開いたままゆっくりと傾き、雪に倒れた。
クリストファーは銃を下ろした。
老人の死体を蹴りどかし、森の奥へ進んだ。
意図した形ではなかったが、クリストファーがもっとも憎悪する相手は、これで殺せた。だが黒角はまだ消えない。ミーティスの住人たちを魔物によって殺す。ハドルストンの語りが真実であれば、大陸の外にいるという連中も殺す。何十年、何百年かかろうと、憎悪あるかぎり黒角がクリストファーを生かす。
それを邪魔する者があれば、そいつも殺す。
歩きながら、フリントロックに装薬する。撃つ機会はまだある。
クリストファーは血の跡を追う。獣たちの足跡も続いている。一角獣と、狼。憤怒の罪を宿したけだものたち。
彼は思い出す。
雪の積もった森。獣の足跡。胸が苦しくなったなら、心の中でそれを追って、歩いてみなさい。
かつて、リアが教えてくれたおまじない。湧き上がる憎悪で自分自身を焼きそうになるたび、クリスはいつも、そのおまじないに助けられてきた。だから生きてこられた。
今も胸は苦しい。
けれど、彼はもうおまじないには頼らなかった。
この苦しみと共に生きると、クリスは決めたのだから。
開けた場所に出た。
クリスは見た。
雪が月明かりに煌めくなか、血だまりが広がっている。白き森の空気にも漂白されないほどの生臭さが鼻をついた。凄惨だった。
その中心に、ふたりはいた。
一角獣の力を失い、元の姿になったバルドが、仰向けに両腕を広げていた。薄く開かれた目に生気はなかった。
レイチェルは、彼の胴にまたがって、胸板に額づいていた。顔は見えない。白と金色の入り混じった長髪が、だらりと這うように広がっている。ぴくりとも動かない。
生きるものの気配はなかった。
クリスは歯を食いしばり、胸を抑える。
唸るように呼吸した。
それでも彼は、両手でフリントロックを握り、震えながら、前に構えた。
万が一、レイチェルが生きていたとしたら。
殺さなければならない。
彼はゆっくりと呼吸を整えて、震えを止める。
頭頂部に狙いを定める。
撃鉄を起こす。
引き金に指をかける。
そして、
そして──
視界の端で、なにか動いた。
彼はそちらを見た。
白い毛並みの狼が、
じっと彼を見ていた。
悲しそうに。
怒っているかのように。
「リア、さん?」
クリスは瞬いた。
白狼の姿はどこにもなかった。
幻……だったの、か。
視線をもどす。
レイチェルは。
レイチェルは顔を上げて、
こちらを睨んでいた。
クリスは撃った。
弾丸は、
跳びかかってくるレイチェルの頬をかすめ、
消えていった。
クリスは押し倒された。
衝撃に閉じた目をもう一度ひらき、見上げる。
レイチェルは拳を振り上げていた。
クリスを殺すための拳を。
──そして一度決めたならば、もう迷うな。決断の実行を躊躇するな。お前が信じると決めた道ならば。
──まっすぐ、まっすぐ、まっすぐに歩いていきなさい。
拳が振り下ろされた。
鈍い音がした。
白き森がその音を吸いとり、ひとときの静寂が訪れた。
「……どうして」
その静寂を、彼は破った。
ふつふつと湧く怒りとともに。
「どうして、外した。どうして、僕を殺さないんだ!」
拳は、顔の横の雪を割っただけだった。
逸れた、のではない。明らかに、彼女自身の意志で逸らしたのだ。
クリスは咆える。
「言ったはずだ。僕はミーティスの連中を殺す。残酷で邪悪な手段で殺す。そう決めた。僕の魂はそう決めてしまった! もう後戻りできないんだと! 君がそれを止めたいなら、僕を殺す以外にはないんだと! 君もそう決めたはずだ! そうじゃあないのか、レイチェルッ!!」
「決めてたよ」
レイチェルは、ぽつりと応えた。
「私、決めてたよ。あんたを殺すって。そうしなきゃならないのなら、絶対にそうしてみせるって。でも」
拳をほどき、かきむしるように雪を握る。
「それじゃ駄目だ。あんたの罪を裁けない。あんたの心を、救えない」
クリスはただ、彼女を見上げた。
レイチェルは、胸の前で両手をつつんだ。
「あんたは決めちゃったんだよね、クリス。自分は一角獣だ。憎悪のけだものだ。そういう魂を抱いて生まれてきた。だから絶対に変われない。これが自分の本質なんだ。一度憎むと決めてしまったら、もう引き返せやしないんだ……って」
彼女はふるふると首を振った。
「そんなことない。変われるよ。たとえ私たちの魂が、本当にけだもののそれだったとしても。それでも私たちは人なんだよ。人だから、意志の力で、なんだって変えられる。私は変われたよ」
「レイチェル──きみは──」
「自分で決断したことでも、苦しいと思ったなら、やめていいの。やめられるんだよ。だから私は……あんたを殺すのをやめたの」
クリスは呆然と、その言葉を聞いた。
その意味に、彼は打ちのめされていた。
レイチェルは、己の決断を翻した。それは彼女にとって、想像を絶するほど辛いことのはずなのだ。
彼女の信じる神の──リアやブラッドの言葉に背くことになるのだから。
そうまでして、彼女は示してくれたのだ。決断を貫かないという道を。どんなに苦しくても、やめるべきだと感じたなら、やめるべきなんだと。
自分たちはそれを選べるのだと。
クリスは、震える手で顔を覆った。
そして呻くように言った。
「引き返せたのか。僕は」
「そうだよ」
「引き返せるんだね。僕たちは、いつだって」
「そうだよ。あんたがそうしたいと願うのなら」
クリスは歯を食いしばり、唸った。
父と母を想った。イラの村のみんなを想った。バルドを想った。ユニコーン騎士団の仲間たちを想った。憎悪のために捨ててしまったあらゆる大切なものを、彼は想った。
やがて両手をどけたとき……、
額の黒角は、消え失せていた。
「ごめん、レイチェル。君にこんな辛い思いをさせて」
「本当だよ。私、すごく怒ってるよ」
彼女はかすかに微笑んだ。
クリスはその頬に手を伸ばした。レイチェルはその手に自分の手を重ねた。彼らはそこに二人分のぬくもりをたしかめた。
彼女は言った。
「クリス。あんた、死ぬんだね」
「うん。ごめんよ」
黒角は、憎悪と魂をつよく結びつけることで、尋常ならざる生命力を授ける。代償に、憎悪が消えた時、その魂も散ってしまう。
クリスがミーティスの民への憎悪を捨てるということは、自分の命を捨てることなのだ。
手を重ねて、レイチェルにそれが伝わった。
クリスは、少しずつ躰が冷たくなっていくのを感じながら、残された短い時間のなかで、レイチェルに伝えたい言葉を探した。本当はいくらでも謝りたかったけれど、自分自身の選択がその道を閉ざしてしまった。
だから、ほんの一言だ。
クリスは死ぬ。レイチェルの想い出からも消え去ってしまう。それでも彼女は、自分の言葉を覚えていてくれるだろう。彼女の神様の言葉として。
そして彼は決めた。
この言葉が、彼女の導きとなるように、祈りながら。
「レイチェル。いつだって、僕たちは君を信じてる。いつだってだ。だから君も、いつだって君自身を信じてくれ」
彼は言った。
レイチェルは頷いた。
「うん。そうする」
もう、返事はなかった。
レイチェルは、ぬくもりの消えた彼の手を掴んだまま、両手を組み、額をつけた。
彼女は祈った。
神様。どうかこの者の罪をお許しください。
みんなの罪をお許しください。
私の罪を、お許しください。
森はその祈りを受け止めて、ただ静かだった。
【静けき森は罪人を許したもうのか?】 おわり
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