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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #17


【総合目次】

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<前回>

「あなたは、魔霊術師……なんですよね」

 振り返らない彼の背中が、ちいさく跳ねたのが見えた。

 レイチェルは目を逸らした。きっと傷つけてしまった。もうやめるべきだ。これ以上は、もう……。

「その、私……、ずっと知ってました。あなたの苦しみが、体ではなく、魂の性質に由来しているということ。それを抑制するすべを学ぶために、イラの村にきたんだということ。それは、ただそれだけのことだと思ってましたし、いまでもそう思います」

 彼は応えない。じっと動かずにいる。

「それに、その力で魔物や魔影の邪魔をして、私を助けてくれましたよね。たとえ呪われた力だとしても、あなたはそれを正しく使える人です。ミンミさんもそう。あの子の匂いは優しくて、人を傷つけるために魔物をあやつる魔教徒たちの臭いとは、ぜんぜん違っていました。……なのに」

 レイチェルは、無意識に組んでいた手を握りしめた。

 体が震える。寒いのではない。怖かった。これから聞くことへの返事を聞くのが、とても怖い。けれど、いちど堰を切った言葉は止まることなく、容赦なく彼女を導く。

 終わりの予感がするほうへ。

「ねえ、クリス。どうしてあなたから、魔教徒たちと同じ臭いがするの?」


 彼は動かなかった。

 レイチェルは、じっと待った。彼女のなかで音が消えた。ふたりの時間が凍り付いたみたいだった。

 やがて、彼が振り返る。

 近付いてくる。心を抑えつけた表情で。レイチェルはうつむいた。直視できなかった。

 目の前に立った。

「……イラの村を直接ほろぼしたのは《ベルフェゴルの魔宮》だ。それは間違いない。でも殺すべき奴は、まだいる」

 殺す。クリスはそういった。親しんでいるはずの言葉に、心臓をつかまれた気がした。

 レイチェルは震える声で問い返す。

「それは、ヘクター・ハドルストンのことですか」

「そうだ」クリスは頷いた。「奴は《ベルフェゴルの魔宮》の出資者だ。魔物に人や土地を襲わせ、その権利を横から奪う。イラの村もそうして奪った。神珠教団への貸付料と、白き森の光霊珠をめあてにね」

 ミーティスの村で会った老商人。紳士然とした振る舞いの裏に、策略と欲望を隠した立ち姿を思い出す。

 あの人がレイチェルの故郷を奪った。そしてクリスの両親も。ミーティスの村に招かれたあの日、奴は暗にそれを認めたと、クリスはいっていた。彼が憎悪を募らせるのも当然ではある。でも……。

「だから、殺すのですか。魔物を使って」

「……フィリップ隊には、魔物の殲滅だけでなく、捕獲も命じてきた。それはあくまで研究のためだ。そこに嘘はない」

 彼はいった。

「でも、ミーティスであの男と向かい合って、僕の心に芽生えたのは、怒りではなく復讐心だった。怒りと復讐は、『思い知らせてやりたい』という願いの有無で分別される双子のようなものさ。自分と同じ苦しみを。大切な人と同じ苦しみを」

「思い知らせて……やりたい」

「君の心には、ない感覚だろうね」

 たしかに、わからない。レイチェルにだって、ハドルストンに叩きつけてやりたい感情はある。穏やかなものではない。言葉にすれば、殺意と呼ぶべき危険な感情だ。けれど、『思い知らせてやりたい』というのとは違う気がする。それに同じ苦しみといったって、それを味わわせる手段を、レイチェルは持っていない。

 ああ。そうか。

 クリスは気付いてしまったのだ。自分がその手段を持っていることに。『思い知らせて』やれる力を持っていることに。

 やりたいからやるのではなく、

 やれるから、やりたくなった。

 そういうことなのだろうか。

 クリスは表情を消したまま続ける。

「いま、奴はミーティスに逗留している。カンディアーニの汚職行為を武器に教団を脅して、支配権を握っているらしい。時間を稼いで、まだ掘り出していない光霊珠や、神狼珠を捜しだそうとしているんだろう。奴はすべてを奪い尽くす。今度こそ、白き森は死ぬ」

「……」

「そうはいくか。これ以上、奴の好き勝手にはさせない。ミーティスの村にいるのはちょうどいい機会だ。死すべき者はみんな殺してやる」

「そんなこと……」

 なんとか彼を翻意させられないかと考える。故郷を辱められるのを黙って見ていられないのはレイチェルとて同じだ。でも魔物に襲わせるなんて……。

 そこまで考えて、ふと、違和感をおぼえた。

 レイチェルは問う。

「ちょうどいいって、どういう意味ですか?」

「……」

「『死すべき者はみんな』って……イラの滅亡や、霊珠の違法採掘に関わった人たちのことですよね。カンディアーニの他にも汚職者がいるということですか」

「……」

「そっか、わかりました。《ベルフェゴルの魔宮》の生き残りが、ハドルストンの傍にいるってことですね。あの人があなたのいうとおりの人間なら、《操魔の呪法》の使い手を確保しておきたいのは当然ですものね。……そう、なんでしょう?」

 クリスは緘黙している。頷きもしてくれない。

 ざわざわと、とても厭な感覚が、体中に満ちた。レイチェルはその答えを知っていた。自分の心の隅にあるちいさな欠片が、それを示していた。

「……まさか、ですよね」

「……」

「だめよ。クリス。お願い、それだけは思い留まって。そんなことをしたら、あなたは、」

「村の入り口に、赤ら顔の男がいただろう」

 彼は遮った。

 それはレイチェルの問いへの答えでもあった。

「君は覚えているはずだ。豚のスペアリブと葡萄酒をもって、訪れる人々にまったく同じことを話しかけていた酔っ払い。あいつ、なんていっていた?」

「……ッ」

「『ようあんた! 俺たちのふるさと、ミーティスへようこそ!』……誰彼かまわずそういってたよね。胸を張って、誇らしげに」

 たしかに、いた。レイチェルの記憶にも、その通りの男が焼き付いていた。

 クリスは拳を握った。

「君はあの日、みんな楽しんでいるみたいで素敵だと、そういった。本当にそれだけだった? 少なくとも僕は違う。あいつに話しかけられたとき、僕はこう思ったよ」

 彼は軋むような声でいう。

「俺たちのふるさと、だって? ふざけるな。ここは優しくて誇り高い狼たちの故郷だったんだ。穢れた豚に飼い慣らされてることも知らない豚が、身の程知らずなことを抜かすな。……そう、思ってしまった」

「……!」

 レイチェルは項垂れた。咎めることはできなかった。そこまで強くはなかったにしろ、レイチェルも同じような気持ちを抱いたからだ。

「当事者である君を差し置いて、僕がこんなふうに思う資格はないのかもしれない。でも、抑えられないんだ」

 クリスはかきむしるように胸に手を当てる。

「彼らがほんの少しでも、君たちに対する罪悪感を見せてくれていたなら。あるいは白き森を穢している自覚があったなら……僕はこの気持ちを抑え込めたのかもしれない。でも彼らは、心から宴を楽しんでいた。美味しい食事をたっぷり味わって、その恵みを与えたカンディアーニに……生きていることに、感謝を捧げていた」

「それは……、当然です。誰だってそうです。それは決して罪なんかでは、」

「でも奴らの食べている肉は穢れていたじゃないかッ!!」

 クリスは咆えた。想い出のなか、レイチェルを痛めつけた賊を石で打ち殺そうとした、あのときと同じ声で。

「魔霊に染まっていたとか、そういう話じゃない。あの食糧は、ハドルストンが《ベルフェゴルの魔宮》に用意させたものだ。白き森を侵して稼いだ罪深い金と交換したものだ。そんなものを恵みと呼んで喰っておきながら、さも自分は穢れていないように振る舞っている。穢れているくせに穢れてないみたいな顔をしてのうのうと生きている! ……そういう人間を赦せないんだ。僕の、魂は」

 クリスの視線は痛いほどにまっすぐだった。レイチェルは打たれ、動けなかった。水晶のように紫色の彼の瞳は、涙をたたえて濁っていた。

「だから、もう、駄目だ」

「クリ……ス……」

「彼らを殺す。絶対に殺す。ハドルストンにも、村人どもにも、魔物に襲われる苦しみを思い知らせてやる。僕はそう決めてしまった。だから躊躇できない」


――だから、決断を躊躇するな。

――そして一度決めたならば、もう迷うな。決断の実行を躊躇するな。お前が信じると決めた道ならば。

――まっすぐ、まっすぐ、まっすぐに歩いていきなさい。


 レイチェルのなかに、神様の声がひびいた。自分を導いてきてくれた言葉のなかでも、いちばん大切にしている言葉だった。

 きっと彼も、大切にしてくれている、神様の言葉。

「……本当は、君に話すつもりなんかなかった」

 クリスはいった。

「これは僕の身勝手な復讐だ。君のためじゃないし、イラのみんなのためでもないし、僕の両親のためですらない。我慢のきかない愚かな子供の最期の癇癪だ。そんなもののために、君を苦しめたくはなかったのに……情けないよね。わかってほしいって、思っちゃったんだ」

「わからないよ」いやいやと、首を振る。「私には、わからない。何も」

「うん。ごめん」

「最期とか、いわないでよ。また一緒にお酒飲もうよ。お互い大人になったねっていいながら、子供の頃のこと、みんなのこと、たくさん話そうよ。私にはもう、あんたしかいないんだよ」

「ごめんね」クリスは優しく微笑んだ。「僕の魂が決めたことだ。もう言葉では止まれない。たとえ今回失敗しても、命あるかぎりやり続けるだろう。本当に僕を止めたいなら」

 ききたくなかった。レイチェルはふたたび彼の手を包んだ。背を丸め、額にあてた。

 冷たかった。

 あたためたかった。

 レイチェルはいった。

「いかないで」

「……君の神様によろしくね」

 クリスの手は、するりと逃げていった。

 下を向いたまま、レイチェルは震える自分の手を見つめていた。

 決めなくてはならない。自分はどうするのか。彼をどうしたいのか。彼は決断した。いま、ここで、自分も決断しなくては。

 わかっているのに、レイチェルの心と体は、ぴくりとも動けなかった。

 彼女は決断を躊躇した。

 雪が降りはじめる。ぱらぱらと。零れ落ちてくる。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 亡霊のようなレイチェルを、《緋色の牝鹿亭》のドアはいつも通りの金切り声で出迎える。

「あ! レイチェルさん、おかえり!」

 カウンターに座っていたトビーが、勢いよく立ち上がりながら笑顔を咲かせた。

 レイチェルはぎこちない笑みで返した。

「ただいまです。トビーさん」

「雪、降ったんだ」小走りに駆け寄り、レイチェルの肩をはらう。「寒かったからね。葡萄酒あっためてあるよ。すぐ用意したげる」

「ありがとうございます。でも、ごめんなさい、いまはそういう気分では……」

 トビーはきょとんと見上げてきた。思わず目を逸らすが、少年は怪訝そうな顔でまわりこんできて、逃がしてくれない。

「何かあった?」

「……」

「何かあったよね。レイチェルさん、泣いてるもん」

 レイチェルは虚を突かれた。親指で目尻を拭うが、特別濡れてはいない。

「……嘘は良くないですよ」

「嘘じゃないし。噓つきはそっちでしょ。それはぜったい泣いてる顔」

 トビーはレイチェルの手を取って、有無をいわさず引っ張った。抵抗する気力もなかった。

 彼はレイチェルを無人の食堂に連れてくると、無理やりに椅子へ座らせた。それから厨房に向かった。竈には鍋が煮えており、小さな樽が熱湯に揺られてちらちらと頭をのぞかせている。

「あち、あちち! あっためすぎたかな」

 彼は布越しに樽を取り出すと、ふたを開けて杯にそそいだ。慣れた足取りでテーブルまで運ぶ。蜂蜜を混ぜた赤い葡萄酒が湯気をたてていた。

 トビーは向かいの席に座る。

「ちょっと冷ました方がいいかも。でも美味しいよ。レイチェルさんのために買っといたんだ。すこぉしだけお高いやつ」

「……」

 何か答えるべきだと思ったが、言葉が出てこなかった。トビーは自分用につくった蜂蜜湯に息を吹きかけ、喋りつづける。

「お仕事、どうだった? うまくいかなかったの?」

「……いえ。そういうわけでは」

「ふうん。決着ってやつはついたんだね」

「そう、ですね。つきました」

「じゃあ、レイチェルさんがうちを出ていく理由はもうないわけだ」トビーはテーブルに肘をついた。「どうするの? しばらくはお休み?」

「いえ……それは……」

 レイチェルの声は尻すぼみに消えていった。トビーは目を細めた。

「なるほど。まだやらなきゃいけないことがあると」

「……」

「僕、子供だから、レイチェルさんの考えてることはわかんないけどさ」トビーは湯をすすった。「いや、子供とか関係ないか。大人だってわかんないよね。他人の考えてることなんて」

「そうですね」レイチェルは頷いた。「本当に、そうです」

 ミーティスを訪れたあの日以来、クリスがどんなことを考えていたのか、レイチェルはわかっていなかった。わかろうとしていなかった。彼のために力をふるうことばかり意識して、彼のための言葉を考えてこなかった。

 もし、彼の気持ちに気付くのが、もう少しだけ早ければ。

 かけるべき言葉を、見つけられたのかもしれない。彼が決断してしまう前に。その後悔が、レイチェルを打ちのめしている。

 わからない。どうするべきだったのか。いま、どうするべきなのか。

「そういうときこそ、お祈りすべきじゃない?」

 トビーはそういった。

 レイチェルは少年の目を見返した。

「どこに行けばいいのかとか……行くべき道はわかるけど、そっちに行っていいのかとか……神様ってのは、そういう『よくわからなくなったとき』に、先へ進むための勇気をくれるもんだ、それが欲しくて祈るもんなんだよって、母さんがそういってた。教会で聴いた話とはちょっと違うけど、僕はこっちの説が好きだな」

「……」

「祈ればいいじゃん。いつもみたいに、レイチェルさんの神様にさ。僕も祈ったげる。ええと、こうかな」

 少年は祈りの手を組んだ。見様見真似なのがすぐわかる、ぎこちない手つきだった。

 ふ、と、笑みがこぼれた。

「変わりませんね。トビーさん」

「ん? どういう意味?」

「覚えてないですか。そうですか。私は覚えてますよ」

「だから、何のことさ」

「秘密です。頑張って、自分で思い出してください」

 トビーは不満そうに片方の眉をさげた。変な顔だ。レイチェルはくすくすと笑った。トビーも笑った。

「効いたかな、僕のお祈り」

「ええ。ばっちり効きました」レイチェルは杯を手にし、椅子から立つ。「ありがとう、トビーさん。これ、お部屋で飲んでもいいですか?」

「ご自由に。夕飯、食べる?」

「はい。できたら呼んでくださいね」

「ん。そうする」

 レイチェルは食堂を出た。

 軋む階段をのぼり、二階の自室へ。ベッドが一台と、中央に丸テーブルが一脚。相変わらず殺風景な部屋。レイチェルは古めかしいベッドに腰を下ろした。ギイ、と悲鳴があがった。

「祈り、か」

 少年の不格好な手の組み方を思い出す。

 作法は重要だ。でも必要なものではない。大切なのは、声を聞くこと。神様の声に耳を澄ますこと。レイチェルはそう学んだ。

 その意味では、彼女にとって、酒こそが本当の祈りなのかもしれない。酔夢の微睡みのなかこそ、神様の声がいちばんよく聞こえてくるからだ。

 もしトビーにそう告げたら、「それ、言い訳?」といわれるだろうか。「呑まれるんなら酒呑むな」と教えてくれた子だからな。でも、本当にそうなんだよ。

 だから、祈ることにした。

 ぐい、と。温かい液体が喉をくだる。

 迷える者に、夢を見せる。




→ 酔夢 7

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