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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #34


【総合目次】

 #33




 雪を蹴散らすような歩調で、バルドは森の奥を突き進む。

 黒ずんだ樹々は鬱蒼と葉をかぶり、闇を降らせているが、夜はだんだんと白み始めていた。朝にはまだ遠いはずだ。ならば月が出てきているのだろう。黒角の加護を得たバルドにとっては忌々しいことだった。

 今、やっと両腕の再生が完了した。このために随分と体力を使わされたが、ようやく満足に走れそうだ。

 レイチェルは大量の血を残しながら逃げている。方角に迷うことはない。

「勝手に死ぬなよ。貴様は俺の手で殺してやる」

 バルドは吐き捨てる。彼自身すら意外に思うほどの憎悪が身を支配している。わずかに残った人としての理性が問う。俺よ、何故にそこまで彼女を憎むか?

 憎悪とは孤独なものである。道理に沿わぬものであれば猶更だ。誰も肯定してくれないし、共感もしてくれない。片方だけなら望みはある。バルドにとってクリストファーがそうだった。彼はバルドの憎悪を肯定してくれた。

 だが、共感はできないのだ。同じ過去を辿ってはいないから。

 それはバルドの方からも同じである。クリストファーの憎悪について、肯定はできるが共感はできない。どれほど望んでも、してやれない。

 レイチェルは違う。

 あれはこの世でただひとり、クリストファーを肯定し、共感もしてやれた女。

 そしてそれを拒んだ女だ。

 バルドはその一点を許すことができない。

「……」

 足を止めた。

 不愉快な息遣いがする。それも複数。鉄の匂いもだ。馬頭鬼めずきは憤怒に歪んだ顔をさらに歪ませる。

「なんだ、貴様ら。死ににきたなら殺してやるぞ」

「……我ら、さるお方に雇われた者なり」

 声だけが返る。木陰か、茂みの奥か。

「主は、もうしばしあの修道女に生きてもらわねばならぬと仰せだ。ゆえにお前を止める。悪く思うなよ」

 声が告げると、あちこちからフリントロックの銃口が覗いた。ざっと見ただけで十挺は超える。

 炎珠派の鍛冶衆秘蔵の品をこれだけ用意できるとなれば、相当な財力である。正体は知れた。バルドは銃には委細構わず、森の奥に目を凝らした。

 こちらに背を向けて遠ざかる影がふたつ。ひとつは初老の執事らしきもの。もうひとつは、新緑のテールコートをなびかせ早足で進む、背の高い老人。

 バルドの筋肉が膨れ上がった。

 銃声が轟いた。バルドは頭部のみをガードし、十数発の弾丸をその身に受けた。痛みの場所が射線を示してくれる。

「ぬうん!」

 バルドは地を踏んだ。細かい土塊が周囲に浮かび上がった。バルドはその場で回転し、土塊を殴り飛ばしていく。あちこちで鈍い音、そして悲鳴。

 腕を交差し、身をかがめる。雑兵などどうでもいい。狙うべくはただひとり。

「ブルルルオオォォォォーッ!!」

 突進。周囲の樹々がぼやけて後方へ流れていく一瞬の視界のなか、先に振り向いたのは執事だった。立ち塞がるなら、バルドはその男も撥ねるつもりだった。

 だが執事は、す、と身を引いた。

 ハドルストンを守るものはなくなった。振り向いた老人の、驚きに見開かれる寸前の顔を、バルドは目に焼きつけた。

 馬頭鬼の角は老人の細い躰をあっさり貫き、樹に磔にした。

「ぐおお……ッ!? ご、がぼっ、ごッ」

 ハドルストンは、己が吐き出す血に溺れるかのように呻いた。手が宙をさまよい、バルドの頭をかきむしった。バルドはその腕をつかみ、握りつぶした。ハドルストンは大きく口を開けて叫び、口の端からだらだらと血が零れた。

 角を抜く。ハドルストンはうつ伏せに崩れ落ちる。老人は残った腕を支えに立とうとして、失敗し、その勢いで少しずつ進んで逃れようとする。

「だ、誰か……誰かおら、ぬか。オ、オーリクよ、どこに」

 執事の姿はない。気付かぬうちに離脱したらしい。生き残った銃兵たちも、混乱に突き動かされ、あるいは冷静な判断のもと、散り散りに逃走をはじめている。バルドは蔑みの目で老人を見下ろす。

「金払いが悪かったようだな、強欲爺。貴様を守るものはもう何もないぞ」

「がはっ、かッ……く……ぉ、のれ……」

「貴様にあるのは金だけだ。それで命乞いをしてみるか? 言ってみろ。自分の命をいくらで買うのだ」

 死にかけの虫のような仇敵の姿は、バルドの嗜虐心をおおいに刺激した。当然ながら、どれほどの金を提示されようと、彼は突っぱねるつもりだった。

 ハドルストンは息を荒げつつ、憎々しげに見上げてきた。しばしそうした後、諦めたように顔を伏せる。

「どうせ助けるつもりなど、ないのだろう。いっそ殺してくれた方が楽だ。殺してくれ。さあ」

「……」

 バルドは目を細める。彼の憎悪を満たす答えではない。

 苛立ち混じりにハドルストンの膝を踏みつけ、骨を砕いた。老人は声にならぬ悲鳴をあげた。バルドはもう片方の膝も容赦なく砕いた。

「貴様を殺すのは会長だ。苦しみながら待つがいい」

 そう吐き捨てて、バルドは森の奥へレイチェルを追っていった。

 ……残されたハドルストンは、身をよじることもできず、土から顔を出す木の根を噛んで苦痛を耐えた。撫でつけた前髪は乱れ、脂汗の浮かぶ額に貼りついている。白き森の夜気はその汗もすぐ冷まし、血を失った老人の顔をより蒼白に染め上げる。

 しかしなお、ハドルストンは片腕ひとつで己の躰を引きずり、胸から流れる血の跡を残しながら、蛞蝓なめくじのような緩慢さで這い進んだ。鬼気迫るその様子は、紳士の皮に封じられてきた生気がいっぺんに溢れ出したかのようだった。

「愚か、者め……感傷で、機を逃すなど……」

 目指す先には、銃兵の死体。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 レイチェルも血を流しながら歩いていた。

 ふらつく足を支えようと、樹の幹に手をついた。かくんと膝が折れ、樹にしな垂れかかるようにして座り込んだ。しばらく立ち上がれそうになかった。

 自分自身で抉り取った脇腹は、未だ再生し切っていない。撃ち込まれた闇霊の毒が残留している。光が補うよりも、流れていく血の量のほうが多い。少しずつ着実に近付いてくる死の気配を、レイチェルは鋭敏に感じていた。

 それでも、レイチェルは立ち上がった。

 朦朧とする意識を強いて、足を前に動かす。

 どこへ行くべきか。どこへ向かっているのか。彼女自身もわかっていない。だが不思議と迷いはなかった。なにかに導かれるかのように、彼女は歩き続ける。



──大いに迷いなさい。迷い、考え続けなさい。



 神様の声が聞こえる。

 レイチェルは考える。

 アルティナやサイラスたちがうまくやってくれていたら、魔物の軍勢は壊滅している頃だ。だがクリスは諦めないだろう。何年、何十年かかろうと、決断したならばやり遂げる。決別のあの日、彼からそういう意志を感じた。

 そのためにも、邪魔となるレイチェルだけは、今夜中に殺そうとするはずだ。

 彼がそう決めたのならば。



──そして一度決めたならば、もう迷うな。決断の実行を躊躇するな。



 レイチェルも同じだ。バルドやクリスのことは必ず殺す。そうしなければならない。引き返すことなどできはしない。

 自分は、そう決めてしまったのだから。

「う、う……」

 レイチェルは、力が抜けたようにその場に座り込んだ。

 両手を雪につき、呻く。

 とても苦しい。血を失ったせいばかりではない。ずっと苦しかった。バルドを、クリスを殺すと決めた時から。気付かないふりをしていただけだ。

 だが、そもそもレイチェルに苦しむ資格などありはしない。

 心で苦しむのは、人の所業だ。怒りに任せた爪牙で人を屠るような、けだもののすることではない。

 

──まっすぐ、まっすぐ、まっすぐに歩いていきなさい。

──気高く愛しい、【白狼の子】よ。




 レイチェルは両指を組み、祈りを捧げる。

 そのように致しますと、いつものように応える。
 
 迷ってはいけない。決断の実行を躊躇してはいけない。私は白狼の子だ。一匹のけだものだ。獲物を噛み砕くと決めたなら、まっすぐ、まっすぐ、まっすぐに、跳びかかっていかなければならないのだ。

 そう信じた。

 そうだよね、神様?



 その時、辺りが俄かに明るくなった。

 レイチェルは顔を上げた。

 夜空が見えた。鬱蒼とした白き森のなかで、この場所は、まるで畏れられているかのように樹々が葉をよけていた。

 月があった。

 白くて、冷たい、真円の月。

 降りそそぐ祝福の光を浴びた雪が、生きるように煌めいた。

 眩しいくらいだった。

「ああ」

 レイチェルは、瞬きひとつしなかった。目を見開いたまま、じっと月を見上げつづけた。

 喉が震える。

 レイチェルは俯く。

 それは啓示だった。月と、雪と、そして森が示してくれた、啓示。

 彼女はたしかに、それを受け取った。

「許して、くれるの?」

 私の選択を。

 私の罪を。



「許すものか。たとえ世界がお前を許そうと、俺だけは許しはしない」

 バルドの声だった。

 憎悪の視線が、レイチェルの背中に突き刺さる。

「お前は会長の傍にいるべきだった。同じ罪を背負ったけだもの同士、お前だけが、彼の苦しみに寄り添えたんだ。俺のような紛い物では……駄目なんだ」

「……」

「だから俺はお前を憎む。ゆえに俺はお前を殺す。会長ではなく、俺自身の意志でそうすると決めた。それが紛い物の、せめてものできることだ」

 みしみしと、空気が軋んだ。バルドの筋肉が密度を増したのだ。背中を向けたまま、レイチェルはそれを感じ取った。彼女の感覚はいつになく研ぎ澄まされていた。

 祈りの手をほどく。

 手をついて、ゆっくりと立ち上がる。

 はらはらと、指先から雪が零れ落ちる。

「決めつけてばっかりだね。あんたも、私も」

 レイチェルは言った。

 胸の傷も、脇腹も、いつの間にか塞がっていた。修道服の下で筋肉が軋んだ。白い肌にはより白い和毛にこげが生え、ざわざわと逆立った。

 人狼は、月の光で化けるのだ。

「私、やっとわかった。決断は、考えるのをやめるってことじゃない。決断した後だって、考え続けなくちゃいけなかったんだ。たとえ私たちが本当にけだものだったとしても」

 狼女は振り返った。

 悲しみと憤怒とが混ざりあい、凪となった、狼の眼差し。

「教えてあげるよ、バルド。あんたにもわかるように。私はすごく怒ってるんだっていうことを」




【続く】

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