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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #33


【総合目次】

 #32




「おじいさま、あれ」

「あん?」

 気付いたのはマッハだった。ウィップは彼女の指さす先、森の方角を見る。

 ふらふらと、小さな人影が歩いていた。小鬼の生き残りでもいたか、と思ったが、どうも少女のようだ。しかも見覚えがある。

「何じゃありゃ。誰だったかいの?」

「たしかミンミって子よ。ユニコーン騎士団の魔霊術師」

 答えるマッハも訝しく思った。ベルフェゴルの魔宮討伐戦で同行はしたが、あまり会話はできておらず、よく知らないのだ。

 それに、遠目からでもわかる不吉な赤黒い眼光。なにか嫌な予感がする。

 彷徨うように歩を進めながら、ミンミは両腕を前に伸ばし、掌を向かい合わせて大きく上下に開いた。見えない球体を挟みこんでいるかのようだ。

 その構えで、マッハは思い出した。

「そうだわ。あの子、《吸魔》の術の使い手よ」

「《吸魔》? おい、そりゃあ、やばいんじゃないか」

 サイラスの声は引き攣っている。その予感は、冒険者たち全員が抱くものであった。

 《吸魔》とは、周辺の魔霊を集めて糧とする魔霊術。そしてこの場には大量の魔霊がある。死して間もない魔物どもの霊が。

 雪原に、霊素の流れが生じた。それは渦を巻くようにしてミンミの構えのなかへ吸い込まれていく。小鬼ゴブリン騎士兎ナイトラビット竜人兵リザードマン、結晶魔人、人喰い鴉、そして侍悪鬼サムライオーク……数百にもなる魔物の霊がひとつに混ざり、赤黒く色付けられていく。

 ミンミは両腕を掲げる。魔霊の塊はもはや少女をすっぽりと覆えるほどに大きい。ミンミのみならず、術にはまったく疎いデルフィナにさえ瞭然はっきりとそう見えた。冒険者たちの背筋が戦慄に強張った。



「再誕せよ。《錆び爪の魔女》



 ミンミが呟いた。

 魔霊の塊から、母の胎を破るようにして、いくつもの魔影が生まれてきた。

 雪原に降り立ったそれらは、赤黒い裸の女の姿をしていた。ヒースはその姿に覚えがあった。数ヶ月前にもミーティスに現れ、カンディアーニや村人たちを魔人へ転生させた魔女……!

 魔女たちの影は、ゆっくりと行進を始めた。まだ歩くのに不慣れなのか躓く者もいる。その手をついた周囲の雪がぐずぐずに腐り、溶けていった。手指で触れたあらゆるものを腐敗させる《錆び爪》の術。魔女の二つ名の由来である。

 やがて歩き方にも慣れ、魔女たちは冒険者たちをその目に止めた。殺意に錆びた漆黒の瞳。そして姿勢を低くし、全速のスプリントで走り出した!

「撤退じゃ! 皆、ミーティスまで退けぇ──ッ!」

 ウィップは即断した。冒険者たちは躊躇なく従った。

 魔女たちの脚は異様に速い。どんどん距離を詰められていく。先頭はマッハを小脇に抱えたデルフィナ、その後をヨーナス、ウィップ、サイラスと続く。最後尾のヒースはふらついている。頭を斬られ、朦朧としているのだ。

 駄目だ。このままでは全員追いつかれる。ヒースはそう判断した。

 彼は雪面に手を叩きつけ、最後の霊力で《風の絨毯》を巻き起こす。風は斜面を下っていた冒険者たちの足を躍らせ、加速させた。サイラスが振り返った。

「おい、ヒースてめえッ!?」

「俺は置いていけ。やれるだけやる」

 いつもどおりの平坦な声で答え、ヒースは背中を向けた。

 ヒースは逃げる最中、竜人兵の死体から長剣を奪っていた。片目を失い、意識はうつろ、しかも得物は不慣れな。果たしてどれだけ斬れるだろう。唇の端、ほんの微かに笑みを浮かべる。

「傭兵の末期まつごなんてこんなものか。まあ、悪くない」

 魔女たちが眼前に迫った。

 先頭は二体。ヒースは潰れた左目の側へ回避し、すれ違いざまに首を斬る。魔女は雲散霧消した。斬れば死ぬ。ならばいつもと同じだ。

 魔女たちが一斉に飛びかかってくる。ヒースは躱しつづける。《風の靴》なくとも彼の足捌きは俊敏である。それだけではない。魔女の動きも単純だった。すぐ近くにいる敵を盲目的に襲うのみで、左目の死角を突こうという機転もない。思ったよりは連れていけそうだ。

 ヒースは剣を振るい続けた。二体、三体、四体、五体。血飛沫のような霧が散る。そして六体目の魔影を斬ろうとしたところで、ヒースは捕まった。

 魔女が長剣を掴んでいた。

 刀身は一瞬で錆び、ぼろぼろと崩れ落ちた。ヒースはとっさに手を放したが、もはや逃れようはなかった。幾重もの魔女の手が伸びてくる。ヒースはただ平坦に、己の死を受け入れる……。

 その時だった。

「咆えろ、ブリュンヒルトッ!!」

 凛とした声とともに、炎の刃が飛来して、魔女たちを薙ぎ払った。

 ヒースは声の方向を見る。特任騎士、焔の楯の戦乙女、緑髪の女騎士アルティナが、馬を駆って向かってきていた。

「いつかの助太刀の借り、これで返したぞ!」

 ヒースの前を駆け抜けながら、アルティナはそう叫んだ。

 呆然としているところに、ぐい、と肩をつかまれ、振り向かされた。サイラスだった。彼は怒っていた。

「このバカ。夢見が悪くなることしてんじゃねっつの」

「……ああ、悪かった」

 そう答えたところで、ヒースの糸は切れた。彼の意識は途絶え、サイラスの肩に倒れ込んだ。

 サイラスは彼を担ぎ、再び斜面を下りていく。アルティナはそれを確認し、ひとり頷いた。

「よし。あとは私がどうにかする……!」

 彼女は前を向く。かつての先輩の愛馬、シグルーンに拍車をかける。駈足キャンターから襲歩ギャロップの速度へ!

 走りながらブリュンヒルトを振るい、群がってくる魔女の影を炎の鞭で次々と雲散霧消させていく。倒すのは容易だが、あの錆び爪がシグルーンに触れれば終わりだ。一瞬も気を抜けない。

 その上、魔影の操り主……かつて共に戦った少女ミンミは……掲げた魔霊の塊から絶え間なく魔影を生み出している。アルティナもシグルーンも消耗している。早々に決着をつけなければならない!

「駿馬よ。力を貸してくれ。あと少しだけでいい、お前の主の風を……!」

 シグルーンは、応えた。

 駿馬の切る風は、彼女の鼻先で烈風となり、螺旋となった。

 アルティナは炎を投じた。風と炎が混ざりあい、輝く回廊のなかを、シグルーンは軽やかに駆けた。《熱情螺旋烈風の回廊》。戦列を焼き裂く戦乙女ヴァルキュリアの騎行を、かつてジルケはそう名付けた。

 燃えさかる烈風は流星のごとく雪原を駆け、行き交うすべてを蹂躙する。雲散霧消する魔女どもの影を置き去りにして、アルティナは駿馬の首を少女に向けさせる!

「ウウウ……アアアアアーッ!!」

 ミンミが哭き叫んだ。生み出された魔女の影が、ふたたび元の場所に吸い込まれていく。魔霊の塊が肥大化した。それを投げつけるように雪面に叩きつけた!

 魔霊は煙のように拡がっていく。そしてひとつの形をとりはじめる。上半身だけの巨大な魔女の姿を。

「また貴様が立ち塞がるのか……!」

 アルティナは歯軋りする。かつて彼女をキズモノと嘲った魔女が、蔑むように見下ろしてくる。

 巨大魔女の掌が叩きつけられた。アルティナは馬首を左にめぐらせ、間一髪で回避する。赤黒く腐敗した雪が飛び散り、降ってくる。

 さらにもう片方の手が、正面から地面をえぐり取るように襲い来た。シグルーンは風に乗って跳び、それを跨いだ。大きく旋回して距離を離す。まだ速度は保てている。

「いいだろう、魔女よ。何度でも滅ぼしてやる。私は特任騎士アルティナだ!」

 もう一度、魔女の懐に向かう。ブリュンヒルトの刀身が陽色に染まっていく……。




 その魔女の背中に守られるようにして、ミンミはひとりぼっちで泣いていた。

「見えない……わかんない……なにも……なにも……!」

 彼女は無明の闇にいた。瞳は赤黒い錆に覆われていて、痛くて暗い。どれだけ泣いても錆は落ちてくれない。眼球をかきむしりたかったが、指だけでなく、躰全体の感覚がもうなかった。感情と衝動の渦に翻弄されているようだ。

 彼女にはただ、助けを求めて腕を伸ばす感覚だけがあった。誰かに連れて行ってほしかった。思えば、ミンミは元来がそういう性質なのだ。人を殺せと言われれば躊躇なく人を殺した。考えるのを他人に任せる方が楽だったから。

 だから何も決断できない。

 何を望んでいるのかなんてわからない。

 それを決めてくれるのは、他人か、衝動か。それだけだ。だからミンミはそれに従う。そうすればとても楽なんだ。苦しまずに済むんだ……。

「嘘をつくな。お前は苦しんでる」

 誰かが腕をつかんだ。

 赤黒い闇のなか、そのぬくもりを、たしかに感じた。

「だ……れ……?」

「猪にケツ掘られた野郎だよ」

 ケネトだ。彼はさらに強く握ってきた。痛いくらいだった。心地よい痛み。

「断言して悪い。正直いって、俺はまだお前のことをよく知らないよな」

 ケネトは言う。ほとんど初めて、ミンミは正面から彼の声を聞く。

「だから、一緒に飯を喰おう。そんでいろいろ語り合おうぜ。お前とエメリが、そうやって仲良くなったみたいにさ」

「エメリ」

 ああ、そうだ。そうだった。

 ミンミが心の底から望むのは、おいしいご飯を食べること。クリストファーがくれたみたいに。フィリップやエメリ、みんなと一緒にそうしたみたいに。誰に言われたわけでもなく、ミンミが自分自身で感じた歓び。

 それを思い出した。

 彼女は手をつかみ返した。

 少女の瞳の錆がとれた。

 すぐ傍に、ケネトの顔がある。ミンミをまっすぐに見つめてくれている。

「餓鬼野郎! 邪魔ヲスルンジャアリマセンッ!」

 魔女の背中から、等身大の魔女が生まれた。ケネトに手を伸ばそうとしている。ミンミは叫ぶ。

「だめだ! ッ!!」

 ミンミは瞭然とそう叫んだ。巨大なものも含め、魔女の影が揺らいだ。

 ケネトは左腕を振り、腕に装着した小盾で魔女の手を弾いた。続けて振り下ろした剣で、魔女を肩から斬り下ろし、両断した。

 魔女は雲散霧消した。

「行こう、ジルケ先輩ッ!」

 ほぼ同時。駿馬が疾駆するさなかで、アルティナは鞍のうえに両足をついた。そして跳んだ。

 駿馬の風が、それを助けた。

 高く、高く、高く、アルティナは跳んだ。巨大魔女の頭を越すほどに。

 ブリュンヒルトを掲げる。

 雲から出た満月が、その剣をより白く輝かす。

「戦乙女よ! この魂に裁きと救いの抱擁を!!」

 アルティナは降下した。

 ブリュンヒルトは魔女の額を裂き、鼻を裂き、喉を裂き、胸を裂き、腹を裂いた。女騎士が力強く着地した直後、曼殊沙華リコリスが花開くようにして、炎が魔女を包み込んだ。

 魔女は声もあげず焼かれ、火花とともに雲散霧消した。

 アルティナは、ゆっくりと立ち上がった。雪原のあちこちに炎がくすぶっている。想定よりも火の勢いが強い気がする。そういえば走っている最中、風のなかに酒精の匂いを感じた気もするが、たしかとはいえなかった。

 陽炎の向こう側、少年が少女の手を引っ張って、遠くへ去っていくのが見えた。

 アルティナは追わなかった。

 シグルーンが後ろから寄ってきて、肩に鼻をのせてきた。撫でながら、アルティナは空を見上げた。

 満月は、雪のように白い。




【続く】

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