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【その灯りを恐れなかったのは誰か?】 #7
「マティア……ダーヴァ……ギブル……ヴィズリフ!」
魔教徒がふたたび黒い水飛沫を放った。先ほどよりも勢いが強い。水をかぶった炎が次々と消えていく。
レイチェルは床に手をつき、獣のように身を低くして躱した。
「GRRRRRR……!」
渦巻くような唸りをあげながら、四肢に力を込める。両手の爪が石床を割り、食い込んだ。罅が広がっていくとともに、彼女の犬歯は牙と化していく……。
そして彼女はその蛮性を解き放った。
「ハギャアーッ!?」
手近なサハギンの顔面に向かって、白炎の軌跡がまっすぐに跳ねた。顔面を掴んだ右手でサハギンの眼を焼き、そのまま首を引きちぎった。
掴んだ首に、戦乙女の炎が燃え移る。彼女は躊躇なくそれを投げた。首は火山弾のごとく闇を裂く。魔教徒へ向かって。
魔教徒は右の触手でそれを受けた。分泌される黒い水が炎をかき消し、蒸気を立ち昇らせる。
「不躾な……かような眩い火を儂に投げて寄越すなど……!」
「……」
レイチェルは小さく鼻を鳴らした。魔教徒の憎悪にあてられて、魔物たちが彼女を取り囲んだ。
烈炎の波が焼き払ったためか、鼠やムカデの姿ははほとんどなかった。サハギンばかりだ。ミストサハギン……くすんだ水色の体躯をもつ魔王の眷属種も混じっているが、関係ない。どのみち殺す。
「「「ギョゴーッ!!」」」
三方向のミストサハギンたちが一斉に水を吐き出した。岩をも貫く水圧の槍。彼女は伏せて躱す。
一瞬後、その姿がかき消え、白炎が円を描いた。再び姿を見せたとき、彼女は両手と牙に三つの生首を携えていた。
「ミハ?」「ハギ?」「ミゲ……?」
生首たちは目を瞬かせる。彼らは首のない自分の胴体がゆっくりと倒れていくのを見ていた。
レイチェルは腕と首を大きく振り、生首を次々と投げつける。ひとつは壁に、ひとつは床に、ひとつは仲間のサハギンに激突して砕けた。
魔物たちに怯える間も与えず、彼女は風と化した。風は閃く流星のように駆け抜けながら、行き合うものすべてを屠った。
「シャゲッ!?」「ハギャーッ!」「ミハギァーッ!?」「ハゴッ……ゲ……」「ミギギ! ミゲーッ!」「ハギッ」「ハギゲッ」「ハギャ! ハギャァァァーッ!!」
死が吹き荒れた。闇に濡れた地下遺跡に、サハギンの悲鳴が反響した。
「おのれ……! おのれおのれおのれ! 憎らしや、眩き光の輩め……!」
魔教徒は忌々しさに触手をわななかせる。
女騎士への奇襲は失敗し、魔物たちは殺されていく一方。こちらの不利ばかりが積もってゆく。もはや加減などしている場合ではないか。魔教徒は心を決めた。
両手を掲げ、黒い水の球体にそそぐ霊力を強める。魔物たちも巻き込まれるが、ここまで減ってしまえば関係ない。女どもを殺し、贄をささげ、神が力を取りもどせば、どうせ魔物など不要だ。
「マティア……ダーヴァ……ダーヴァ……ダーヴァ……!!」
「……!」
どんどん体積を増していく黒い水の球体を、トビーは絶望的に見上げた。霊術の心得のない彼であっても、それが何を意味するのかは察せられた。
思考のなかで、いくつもの選択肢が弾けた。彼は考えることなく選んだ。
「うああーッ!」
トビーは中腰になって魔教徒に体当たりした。
だが魔教徒の躰は意外にも頑健だった。多少ぐらついたが、「ダーヴァ……ダーヴァ……!」と詠唱を続けている。トビーは自分が子供であることを呪った。
「ギブル……ヴィズリ、フッ!?」
呪わしき文言が綴じられる、その寸前、今度こそ魔教徒の躰が崩れた。アイリスだった。彼女はトビーが開いた隙をさらにこじ開けるべく、魔教徒の膝裏に全身でぶつかったのだ。狙いすました行動だった。
詠唱は完全な形ではなくなった。しかしそれでも完成はした。
球体は自らを力任せに収縮させ、一瞬後、そのすべてを爆裂させた。
「レイチェルさんッ!!」
トビーが叫んだ。レイチェルは応えるように振り向いた。横殴りの黒い豪雨が飛んでくる。
「シャギャーッ!?」「ハヒギャーッ!?」
豪雨は魔物たちをも容赦なく貫いた。もはや僅かな生き残りもない。
レイチェルは炎の右手でつかんでいたサハギンの死体を放り投げ、盾とする。身を低くし、腕を顔の前で交差させ、防御姿勢をとった。彼女の姿が雨に飲まれた。
雨は一瞬で通り過ぎた。
炎の壁も、白い光も、そこにはなかった。完全なる闇。
「ク……ク、ハ、ハハハ」
魔教徒は笑った。童たちの魂から甘美なる香りがする。これだ。この灯りなき空間こそ、自分の望んだ……。
ふるふる、と。
闇の中に、白い髪が躍った。魔教徒の笑みが凍り付いた。
けだものは交差した腕を解き、鬱陶しそうに頭を振って黒い水を払っていた。右腕の炎は消えていたが、道連れにいくばくかの水を蒸発させていた。それが彼女を守った。
「く……く……」
魔教徒はわなわなと身を震わせた。
白い髪の女は彼を睨みながら、黒い水を踏みつけて近付いてくる。もはや遮るものはない。
その奥で、女騎士も無事であることを魔教徒は見てとった。届かなかったのだ。詠唱を乱されたせいで。
童たちが微かな笑顔を浮かべている。
(眩い……。眩い。眩い、眩い、眩い!)
それを見て、魔教徒のなかで何かが切れた。
彼は子供たちの首を乱暴につかむ。
「神よ! 不完全な贄をささげる愚を、どうかお許しくだされーッ!」
彼は子供たちを後方へ放り投げた。
レイチェルは目を見開いた。彼女は駆け出した。
この場に満ちる闇のもっとも深いところから、贄のにおいを感じ取った魔神が触手を伸ばした。二本の触手が哀れな子供たちを絡めとった。
「あ……」
「い……いやああぁぁぁっ!」
トビーは声を失い、アイリスは叫んだ。
魔教徒は狂笑した。そのすぐそばを、白い風が通り過ぎた。
レイチェルはそれぞれの触手に手を伸ばし、つかみ、握りつぶした。子供たちは宙から落下した。
彼女はふたりを抱きかかえようとしたが、できなかった。新たな四本の触手がレイチェルの四肢を拘束した。
子供たちの目の前で、レイチェルは闇の奥深くへさらわれていった。
トビーは叫ぼうとした。
それを押しのけるように、アルティナの声が遠くから響いた。
「《戦乙女よ! この者に汝の愛の口づけを!!》」
アルティナは駆けながら左手をかざし、己に残された霊力を飛ばした。その意志はレイチェルの右腕の残り火と結びつき、もう一度それを燃え上がらせた。
熾された炎はほんの一瞬、曙光をじかに見たかのような眩さを閃かせ、すぐに消えた。だがそれで十分だった。
「MYUUUUUEEEEEE!?」
至近距離でその光を浴びた魔神が、のたうつような声をあげた。
刹那に照らされた光景が、トビーの目に焼きついた。無数の触手がうごめくその中心に巨大な瞳の座す、名状しがたき魔神の姿。そして触手から解放され、正面からそれと向かい合うレイチェルの後ろ姿を。
直視すべきでない光景を闇が隠した。
だから彼女は、躊躇しなかった。
「MYU!? MUGYAッ!? MUGEEEYAAAAAAAA!!?」
隠された闇の奥から、いくつもの音が響いた。なにかが潰され、引き千切られる音。びちゃびちゃと粘ついた音の多重奏。この世のものとは思えぬ悲鳴はやがて細くなり、聞こえなくなった。
「か……神……我が、神?」
魔教徒は呆然と触手を伸ばした。
ぴしゃり、ぴしゃりと、闇の奥から音がする。蛇がのたうつ音ではない。狼の歩く音。
姿を現したレイチェルは、魔教徒に向けて上向きの手のひらを差し出した。光の届かぬ深海のような色合いの球体がそこにあった。球体は得体の知れぬ粘液にまみれていたが、それでも魅入られるほどに妖しい色を湛えていた。
それは魔神の本体……魂そのものを封じた魔の霊珠。魔教徒が魔物の肉体に埋め込み、解き放とうとしたもの。彼の一族が代々受け継ぎ、封印し続けてきたものだった。
レイチェルは指に力を込め、それを強く握った。霊珠が罅割れた。
魔教徒が懇願した。
「やめろ! やめてくれ! それを砕いたら、我が神はもう二度と復活でき……」
「これは神じゃない」レイチェルは言った。「ただの化け物だ。私が殺す」
彼女は魔の霊珠を砕いた。
魔教徒はこれ以上ないほどに目と口を開いた。気の遠くなるほどの長いあいだ、霊珠のなかに封じられてきた魔と闇と水の霊素が、レイチェルの手のひらから零れ落ち、床を流れる水と混ざり合った。
「な……なぜ。なぜ、なぜ、なぜ」
魔教徒はおこりに罹ったように震えながら、慟哭とともに言葉を吐き出した。
「なぜ! なぜだァ! なぜお前たちは、儂からすべてを奪う! そ、それがお前たちの善良か! 儂がこんなに苦しんでいるのはお前たちのせいだというのに! 儂の闇は! お前たちが照らしたものだというのにッ!」
「知ったことか、クソ野郎」
レイチェルは冷酷に切り捨てた。
「お前はその子たちをさらった。私は怒った。それだけだ」
魔教徒は憎しみのままに呪文を唱えようとした。レイチェルは床を蹴った。
言葉がつむがれる前に、彼女の手は魔教徒の首をつかみ、へし折った。
魔教徒は後ろに数歩よろめいて、黒い水のなかに斃れた。もはやぴくりとも動かなかった。
「……終わったようだな」
遠くからそれを感じ取り、アルティナは剣を納めた。
灯火を生み出し、歩み寄る。か細い灯りが男の死に顔を照らす。もはや眩さに目を閉じることもない。彼女は短く黙祷した。
「大丈夫か。レイチェル」
アルティナは問うた。男をじっと見下ろしていたレイチェルは、目を閉じて深く呼吸した。その髪が金糸雀色にもどっていく。
やがて彼女は目を開けて、微笑んだ。
「私は大丈夫です。……アルティナさんこそ、頬に火傷が」
「ああ」
アルティナは左の頬に触れた。烈炎の波を放った際に負ったものだ。彼女は恥じ入るように微笑む。
「気にするな。私の未熟さが招いた傷だ。八つ目の恥として残しておかねばな」
「……」
レイチェルは右腕を伸ばした。焼け爛れた腕は雪白の光に包まれている。その手でアルティナの頬に触れた。冷たく優しい光に癒され、火傷は小さくなっていった。
「ちょっぴりだけ、残しておきます」レイチェルは頬から手を離した。「それは私と子供たちを守ってくれた証の痕です。恥なんかじゃありません」
「……!」
彼女は戸惑うように唇を震わせる。しかし言葉は出てこなかった。冷たさの残る頬に指で触れ、ただ頷いた。
それからふたりは子供たちに駆け寄った。アルティナは努めて明るく言った。
「さあ、もう大丈夫だぞ。悪い奴らはみんなやっつけた。安心しなさい」
「……本当、ですよね?」トビーがかすれ声で言った。
「本当だよ。今、縄を解いてあげよう」
アルティナは手早くふたりの拘束をほどいた。ふたりは恐る恐るといった様子で自分の手のひらを見て、ようやく安心できたようだ。力なく笑顔を交わし合った。
「怖かっただろうに、よく我慢できたな。偉いぞ。すぐにおうちに連れて帰ってあげるからな」
「特任騎士さん。助けてくれたことには心から感謝しますけど、そのいかにもな子供扱いはやめてくれません?」調子を取り戻したらしいトビーが澄まし顔で言った。「こんなの全然平気でしたよ。僕たち、あなたが思ってるほど、か弱くないので」
「む……す、すまん。気に障ったか?」アルティナは面食らい、しゅんとして謝った。
「……いじわるしちゃダメだよ、トビー」
アイリスはくすくすと笑っていた。トビーの口元はにんまりと歪んでいた。アルティナは揶揄われていることを悟った。拳骨のひとつでもくれてやろうかと思ったが、やめた。
その様子を、レイチェルは少し離れた位置から見守っていた。トビーが彼女を見た。
「トビーさん、アイリスちゃん。無事でよかったです」
「レイチェルさん……」
「本当に。……よかったです」
絞り出すような小さな声で、彼女は言った。けれども彼女は近付こうとはしない。アルティナにはそのわけが分かった。黒い水と、粘液と、おびただしい血に濡れた己を恥じているのだと。
トビーは眉をひそめ、わずかに口を尖らせた。アイリスと顔を見合わせる。ふたりは頷きを交わすと、同時に走り出し、左右から挟み込むようにレイチェルに抱きついた。
「きゃっ!? ふ、ふたりとも、いけません!」レイチェルは両手を彷徨わせる。「私、こんなに汚れてるんですよ……!」
「だから?」トビーは怒ったように言った。
「だから……って……」
「いつも不思議だった」彼はぼそぼそと続ける。「この人、こんなんで冒険者が務まってるのかなって、思ってたよ。でも、僕らのために戦ってくれて……なんていうか……その……」
「……かっこよかったです。すごく」言いよどんだトビーの言葉を、アイリスが継いだ。「ありがとう。私たちを助けてくれて」
レイチェルはしばしの間、言葉を探したが、結局なにも見つからないようだった。彼女は泣きそうな目で笑いながら、子供たちを抱き返した。
アルティナも穏やかに笑った。灯火が踊るように揺れた。
【その灯りを恐れなかったのは誰か?】 おわり
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