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【けだものは神に祈るのか?】 #1





 死のにおいが漂う洞窟の奥、紺色の修道服を着た女がオークに馬乗りになり、幾度も顔面を殴りつけている。その髪は祈りの力によって白く輝いていた。

 血と肉に濡れる打撃音と、許しを乞うようなオークの悲鳴。前者が響くたび、後者はか細くなってゆく。

 地面に転がされた松明が照らし出すのは、二つの人影と、三十匹のゴブリンの死体。十三匹は、岩壁にもたれて喀血する剣士の男に斬り伏せられたもの。六匹は、不運にも致命の一撃を首に受け事切れた術師の少年に焼かれたもの。残りは修道女によって殴られ、蹴られ、砕かれ、へし折られ、引き千切られたものである。

 死体の数は計三十一。今、頭蓋の砕ける音が小気味よく響き、ひとつ増えた。

「ああ、お酒が飲みたいですね」

 修道女は両手をぷらぷらと振り、首を大きく回しながらそう言った。抜けるように白かった髪は、あざやかな金糸雀色を取り戻していた。

 オークの胸板に手をついて立ち上がり、振り返る。スリットから覗く黒タイツの脚が交互に動き、血溜まりを悠々と歩き進む。やがて剣士の前で両膝を地に下ろした。彼は俯いたままそれを見て、掠れた声で問うた。

「あ、んた……、殺ったのか。奴らを」

「ええ。皆やっつけました」

 修道女は穏やかに答えた。

「喋らないで下さい、ヒースさん。あんな太い棍棒で胸を打たれたんですもの、肋骨が肺に刺さっててもおかしくありません。……彼は残念でしたけれど」彼女は沈痛な眼差しを少年の死体に向けるが、すぐにヒースへ微笑みかけた。「貴方は助けられます。今、治しますからね」

 そう言って彼女は目を閉じ、両手の指をたおやかに絡ませ、祈りの言葉を唱える。ヒースの躰を蛍のような光が包みこんだ。

 彼は痛みが引いていくのを実感しながら、優しい声色と血に塗れた両手で祈りを紡ぐこの女性を、ただ畏れた。



 修道女の名はレイチェル・マクミフォート。冒険者。自認ロールは治療役ヒーラー

 彼女は、躊躇しない。





【白狼の子たる修道女】






 交易都市リディアに朝を告げる二度目の鐘が鳴りひびく。聖霊に祝福されたその音色におどろいて、教会の屋根から鳥たちが羽ばたいた。

 陽光をあびて閃く彼らの翼の下、都はすでにざわめきに満ちている。東西をつらぬく石畳の目抜き通りには、住民、商人、兵士、巡礼者、冒険者、荷馬車や幌馬車、牛や犬や猫など、多くの命がひしめいて、思い思いに流れていく。店を並べる者たちはてんでに声を張り上げ、その流れを堰き止めようと必死だ。

 鳥たちは下界の喧騒から逃れるように、北の空へ。その群れの中、たった一羽だけ黒い翼をもつものが、何を思ったか地上へ向かった。

 目抜き通りから枝分かれすること三回、傾斜の半端な坂を上り詰めたところにある、周囲の民家から頭一つ抜けた建物。よく転ぶ子供のように補修の跡が目立つ三角屋根で、その鳥は翼を休めた。

 喧騒もはるか届かぬひっそりとした路地を見下ろす。その建物の前で、十を超えたばかりという風情の少年が、箒を手に背を伸ばしていた。

 少年が鳥の視線に気づく。彼は片手を口に当て、はばかるような声で言った。

「お客さん、《緋色の牝鹿亭》にお泊り? それなら一泊20クリムだよ。安いのだけが自慢でーす」

 営業をかけられても、鳥は小首をかしげて見つめ返すばかり。少年は肩を竦めた。

(辺鄙な場所に建つボロ宿とはいえ、鳥を泊めるようじゃお終いだよな……)

 彼……トビー・クレイグは心の中で苦笑する。金さえ払ってくれるなら大歓迎なのだが。

 大きな金切り声を上げ、入り口のドアが開く。冒険者の一党が出てきた。宿泊していた四人の内の三人である。

「よう坊ちゃん、世話になったな。いっちょ稼ぎに行ってくるぜ」槍を担いだ男が歯を見せて笑った。

「行ってらっしゃいませ」トビーは頭を下げて応える。「お金を稼いだら、また落っことしに来てね」

「悪いが次はワンランク上の宿にするって決めてるもんでな。また素寒貧になるまでのお預けだ」

「その槍、もう古いだろうし、買い換えたら? 次はミスリル製にするといいよ」

「ははは! その手には乗らないぜ!」

 槍使いはぽんぽんとトビーの頭を叩き、坂を下って行った。仲間たちも挨拶して続く。三人とも満足そうで、トビーは安堵した。

 残りの掃除を仕上げ、中に入る。正面に受付カウンターがあるだけの殺風景な広間。右手、すなわち東側に廊下があり、そこから宿の主人が寝具を抱えて出てくるところだった。

 主人はでっぷり肥った背の低い中年男性。若い冒険者には金勘定が甘くなるお人好し。最近、頭髪も薄くなってきている。直視しがたい現実だが、これがトビーの父親であり、二人しかいない従業員の片割れである。

「父さん、一階やるから。二階頼むよ」山盛りのシーツから丸い顔を覗かせ、父が言った。

「分かった」箒を壁に立てかけてから、トビーは問う。「レイチェルさんは?」

「ああ、昨夜帰ってきてたよ。一仕事してきたみたいだったな。いつものやつ、嬉しそうに抱えてたぞ」

「げえ……」

 顔をしかめるトビーの横をにやにやしながら通り過ぎ、父は奥の部屋へ引っ込んだ。

 三人が出て行ったので、現状唯一の宿泊客である女性。それがレイチェルである。この都市を拠点として活動する中堅の冒険者だが、なぜか《緋色の牝鹿亭》を常宿としている。慢性的な資金不足のためだろう。宿からすれば安定した収入源となってくれているわけで、諸手を挙げて歓迎すべき人ではあった。

 トビーは軋む階段を上る。二階には大部屋がひとつと個室がよっつ。階段に最も近い個室がレイチェルの部屋だ。

 扉の前に立ち、ノックする。

「もしもーし、レイチェルさーん?」

 返事はない。もう一度繰り返してみるが、同じだった。

 トビーは肩を竦め、把手に手をかける。勝手に女性の部屋に入室することにはもう慣れた。後は面倒なことにならないよう願うだけである。

「入るよ、レイチェルさん」

 一応声をかけてから、扉を引き開けた。

 ほぼ正方形の小さな部屋。正面の壁には長方形の窓。家具はベッドと円形のテーブルと椅子しかない。そのテーブルの上には、グラスが一杯と、ウィスキーの瓶と、幸せそうに眠る修道女の横顔が載せられていた。

 陽光を僅かに反射し煌めく金髪。それらが流れ落ちる柔らかな頬。しなやかな曲線を描く彼女の背筋を、トビーの視線が無意識にたどる。スリットから放り出された太腿に到達したところで、彼は自分のしていることに気が付いた。

「ほら、レイチェルさん! 朝だよ!」

 気恥ずかしさに後押しされ、本来の目的を果たすことにする。ゆさゆさと強めに肩を揺すると、何度か喉を震わせた後、ゆっくりと瞼が持ち上がった。

「んんー……」

 暫しの間、その紫の瞳は机の表面に向けられていた。ほんの少し動かしてトビーの姿を捉えると、追随して体を持ち上げる。

「あぁ、トビーさん。お早うござい……ふあぁ……ます、です、よね?」

「もう九時の鐘が鳴ったよ」

 トビーは素っ気なく答える。レイチェルは座ったまま大きく背を伸ばし、もう一度欠伸をした。

「そうですかぁ……。あ、寝具なら片付けなくて大丈夫ですよぉ。私、昨日は使ってませんから」

「そうみたいだね」

 彼は横目でベッドを見る。シーツは整えられたままだった。夜中に帰ってきて、一人で酒盛りをして、そのまま寝入ってしまったのだろう。

 まあ、それは良い。彼女は騒ぎを起こしたり、所構わず吐き散らしたりするタイプではない。どれだけ飲んでも幸せそうにへらへら笑っているだけで、他人に迷惑をかけるようなことは今までになかった。トビーに限っては、そういうことも無きにしもあらず、と言えなくもないのだが……。

「あぁ、でも気持ちの良い朝ですねぇ……。何だか二度寝したくなっちゃいました。しちゃっても良いですか?」そう言って彼女はトビーに手を伸ばしてきた。

「止めはしないけどさ!」反射的に身を躱す。また抱き枕にされるのは御免だ。「冒険者ギルド、行かなくていいの? 仕事とられちゃうんじゃない」

「一仕事終えたばかりだから、いいんです。『頑張った後は好きなことしてぐっすり休みなさい』と、私の神様も仰ってますから」

「あ、そう」

 トビーは目を細めた。レイチェルはしばしば『私の神様』とやらの言葉を引用するが、そんなこと言う神様いるのかな、と疑問に思うことは多い。

「ま、実際、ひと稼ぎできたみたいだね。珍しいんじゃない? 一晩で瓶まるごと空けちゃうなんてさ」

「そうなんですよぉ」レイチェルは弛緩させた頬を空き瓶に擦りつける。「依頼を終えた帰り道から、もう、楽しみで楽しみで仕方がなかったんですもの。宿に帰るまで我慢しなきゃダメよって思ってたんですけど、酒屋さんの前を通ったら、何だか頭がぼんやりしちゃって。気が付いたらここで、琥珀色の水が入ったグラスを握ってたんです。そりゃあ飲んじゃいますでしょう? ね?」

「ね? って言われても分かんないよ」

「ええ、じゃあ、大人になったら分かりますよ、トビーさんも。ああ、本当に美味しかったぁ……。もしかしたら今までで一番美味しいお酒だったかもしれません。また飲みたいなぁ」

「そりゃ、何より」空き瓶を愛おしそうに抱くレイチェルに、トビーはより目を細める。「そんなに美味しいお酒じゃあ、高かったんじゃないの?」

「うーん、どうでしょう……。何せ記憶が曖昧でして」

「きっと高いよ。僕でも聞き覚えがあるくらいの銘柄だもん」

「あら、言われてみれば、そうですね。いつか一度は飲んでみたいなあ、でも高いなあって、思ってた物のような」

「レイチェルさん、宿に帰るまで我慢しなきゃって思ってたんだよね?」

「え? ええ、はい。何だか我慢しなくちゃいけない理由があったような気がしたんですけど。何だったかしら……」

「教えたげる」トビーはにこやかに言った。「多分それ、先月分の宿賃だと思うよ」

「宿賃……あっ」

 レイチェルは小さく口を開けたまま凍り付いた。幸福の余韻に染まっていた顔色が、見る見るうちに青褪めていく。

 トビーは笑みを崩さないまま胸を逸らし、できるだけ尊大な態度で言った。

「しめて600クリム。払って頂けますね?」

「ち……、ちょっと待ってくださいね」

 レイチェルは頬を引き攣らせ、抱いていた瓶をそっとテーブルに戻すと、部屋の隅に置かれた荷物袋へ小走りに寄り、ごそごそと検めた。

 中から小さな革袋を取り出し、口紐をほどく。逆さにして手のひらに落ちてきたのは、銀貨一枚、銅貨七枚、小銅貨五枚。175クリム。

「ああ、神よ!」彼女は悲鳴じみた声をあげた。「な、何故!? ヒースさんと分け合った分とで1200はあった筈なのに……」

「しめて600クリム。払って頂けますね?」

 トビーは無慈悲に繰り返した。レイチェルは未練がましく荷物袋を漁っていたが、やがて諦めたようだった。膝を引きずりながら移動し、トビーの足元で祈りのポーズをとる。

「あのう……大変厚かましいのですけれど……」

「レイチェルさんの神様はさ、呑まれるんなら酒呑むなとか、そういうこと仰ってないの?」

「えっと、そうですね、そういうことは……」

「じゃあ僕からの言葉ってことで、覚えておいて」

「はい、肝に銘じます」

「月末までは待ってあげる。今月分も含めて1200クリム。冒険者ならひと月で稼げるでしょ? 本当は利子つけたいとこだけど、大目に見るよ」

「ああ……トビーさん、なんと慈悲深い……!」レイチェルは目を潤ませる。「こんな約束破りの不埒者に赦しの機会を与えてくださったこと、感謝に堪えません」

「そういうのいいから。そう思うんだったらさっさとお仕事見つけて、早く安心させてよ」

「はい!」

 レイチェルは大急ぎで最低限の荷物を纏め、「行って参りまぁす」と残してどたどたと階段を下りていく。最後の方で足を踏み外したのか短い悲鳴が聞こえた。

(あれでよく冒険者が務まるよな……)

 そもそも、どうして冒険者などになったのだろう。宣教や巡礼をしている様子もなく、取り立てて禁欲的なわけでもない。戒律らしきものを守ろうとしているようには見えるが、それが具体的にどんなものなのか、数ヶ月付き合っていても一向に分からない。

 改めて思う。彼女は、本当に修道女なのだろうか。

「……ま、どうでもいいか。お金払ってもらえれば」

 幾度も湧き出てきた疑問に対し、いつもの答えで切り上げる。それより目の前の仕事を片付ける方が大事だと、トビーは自分に言い聞かせた。


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