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とるにたらないこと2021/08/04,05

想像の第一特性。
イマージュ=像はひとつの意識である。
J.P.サルトルがそう言っていた。ほかにも3つ特性があって、色々と検証した結果、どうやら想像は意識を超えることは出来ないらしいと結論づけられた。
これはサルトルによる発見である。


 俺は明治から大正、昭和初期あたりの日本の少し奥ゆかしい古いものに何故か惹かれる。そうしたものたちに触れると、音や情景がありありと浮かんでくる時がある。想像の幅が広がる。

道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」
—『高野聖』泉 鏡花著

昼下がり、灼熱の太陽の光の下で図面を見る上人、高野聖の様子を鏡花独特のそこはかとなくエロいリアリズムの冒頭。

「その上、式の如く、だし昆布を鍋の底へ敷いたのでは、火を強くしても、何うも煮えがおそい。ともすると、ちよろ 〳〵、ちよろ 〳〵と草の清水が湧くやうだから、豆府を下へ、あたまから昆布を被せる。即ち、ぐら 〳〵と煮えて、蝦夷の雪が板昆布をかぶつて踊を踊るやうな處を、ひよいと挾んで、はねを飛ばして、あつゝと慌てて、ふツと吹いて、するりと頰張る。」
—『湯どうふ』泉 鏡花著

同じく鏡花の湯どうふのこの場面も何故か湯どうふを作って食べるだけなのに、エロい。

エロいと思えるのは人それぞれの感性で違うだろうけれど、俺はこうした日常の場面の官能に惹かれるのだろう。

だから、妻の脱ぎ捨てようとしている草履や下駄が好きであり、脱ぎ捨てようとする後ろ姿がエロい。

最近は草履フェチから下駄フェチ。

カランコロンと音を立てて庭に出てきて、コンクリートだろうと芝生だろうと、お構いなしに彼女は下駄を脱ぎ捨てていく。
裸足になって、地面の暑さを感じるのが好きらしい。

そんな屈託のない無邪気な妻らしい理由が可愛らしく、程なくして、また下駄を履き、家の中へ戻る姿がとても愛おしい。

スニーカーだとか、ビーチサンダルだとか、ヒールだとかではなく、下駄なのだ。

変態と言われようと、妻が脱ぎ捨てようとする草履か下駄じゃないとエロくない。
他の女の子がやってもなんとも思えない。

彼女の後ろ姿が可愛いとかではなく、脱ぎ捨てようとするなら別に前を向いていても構わない。

感性の部分に理由をうまく合理的にはめ込む必要性はない。

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