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『砂の女』 安部公房

ひとり安部公房祭 第一回『砂の女 』

再読してみた。
渡航先で現在隔離中のため砂的な自由と不安より壁的な自由と不安の状況ではあるのだが。

それはさておき、社会主義であろうと民主主義であろうと管理の仕方の違いでしかない様にも思う。

砂的自由であれ壁的な自由であれ不安と表裏一体で、段々とその状態、環境に慣れてくると、馴染んだものの範囲でしか希望だとかは考えるのが面倒になってくるかもしれない。

管理と従属/隷属の関係が成り立つ上で「ラベル」が重要な意味を持つと思う。
その「ラベル」の価値を承認する/されることは社会生活をしていく上で重要でもある。 そうした「ラベル」が無化され「自分は何者でもない」と純粋に思えるには希望より勇気が必要だろう。希望というのは大事だが、環境に流され適応しやすい人間の性を考えると、希望とは危ういものでもある。

「自分は何者でもない」≒「ラベル」の「無化」

危うい面と強い面の両方あるなぁと思っている。 帰属するというのは社会ではなんだかんだで重要かもしれない。
「ラベル」の「無化」はもっと突っ込んで言うと、 「である」の「無化」とも言える。 
つまり、サルトル の『存在と無』にこの辺りは繋がると僕は捉えている。 
安易な「希望」というのは流された結果のブラインドネスな希望かもしれないため、危うい。 

純粋に「自分は何者でもない」とするならば「希望」より「勇気」の方が必要になってくる。

先日再読したドストエフスキーの『罪と罰』で露呈されているとおり、人間は罪と向き合うより罰を先に考えたがる側面を持つ。
罪と向き合うには勇気がいる。
罰がある方が楽だろう。 だから、ルールがあり罰がある枠組みに入っていた方が楽だろう。

罰がなければ、逃げる楽しみもない 
『砂の女』安部公房

砂は社会風潮そのものかもしれない。

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