『非-知』と現代社会の危機
はじめに
ジョルジョ・バタイユが提唱する「非-知」の概念は、合理性や理性主義に対するラディカルな批判を通じて、現代社会の根本的問題を浮き彫りにする。バタイユは、知の限界を認識し、それを超える試みとしての「非-知」を探求しようとした。現代に生きる我々にとって、その試みは人間と社会の深層を解明しようとしているようにも映る。
このエッセイでは、バタイユの「非-知」概念を中心に置きながら、実存主義哲学者サルトル、マルクーゼらの思想、さらには憲法の理念や格差是正策なども交えて検討することで、多角的な視点から現代社会を捉えてみる。
まず、バタイユの「非-知」概念について詳しく見ていこう。
『非-知』について
本題に入る前に、バタイユの『非-知』について軽く触れておく。
バタイユは本書にて、合理性や目的性に依存する従来の歴史観に挑戦し、人間の存在のより深遠で複雑な側面に光を当てようとした。
バタイユのヘーゲル批判は、歴史や人間の経験をより広い視点から捉え直す試みと言える。バタイユが『非-知』で主張するポイントは以下の通りである。
・絶対知には到達できず、非知の領域しか残されていない
・非知は言語化できず、沈黙によってしか表現できない
・知的探究を続けても、非知から逃れられない
・非知を体験するには、死や供犠などの極限状況に身を置く必要がある
・愛や日常生活では非知から遠ざかってしまう
・歴史の終焉が訪れれば、完全な無意味の状態、つまり真の非知に到達できる
・非知の状況では、道徳的価値観は無意味になる
・最後の人間になれば、一瞬の限界の中で非知を体験できる
つまり、バタイユは言語による知的認識を超越した領域としての非知を探求し、そこに至る極限状況を描いている。非知への到達は、人間存在の限界に挑むことであり、従来の価値観を相対化することにつながる。
バタイユはヘーゲルの理念や歴史観、特に理性と目的性の進行に基づいた歴史の展開に疑問を投げかける。ヘーゲルが歴史を理性の進歩として捉え、最終的な目標への達成と見なすのに対し、バタイユはより混沌とした、非線形の歴史観を提案している。バタイユは、歴史や人間の行為が常に合理的な枠組み内で完全に説明できるわけではないと考え、この「非-知」の側面に注目した。
この一文は、他者を断罪せず、自らも同じ世界に生きていることを認める姿勢が窺え、人類に対する寛容さと愛情が感じられる。絶望的な状況にあっても、他者を裁かず、共に生きる世界の一員であることを自覚している。
バタイユの混沌とした、非線形の歴史観は独自的であり、現代の歪なそれと合致するではないか。
人類愛に満ちた思想に時々耳を傾けることで、新しい視点が増えていくときもある。氏の入門書的にも最適の書だと思う。
近現代の共通の神─資本
現代社会において「神〈資本〉」とも言える市場経済は、非情で、冷酷なものとなっている。
このシステム、いわばこの〈資本主義〉教は、利益を追求する過程で、社会的格差を拡大させ、多くの人々を経済的に疎外している。
例えば、税制における不平等や、国際問題に対するダブルスタンダードは、資本主義の内在的矛盾を象徴している。
格差の事例と政府の対応
日本の相対的貧困率の問題は、2023年11月の報道によって強調された。
ところで、格差是正について、トマ・ピケティについて言及しておこう。
r > g
ピケティはこの式を根拠に、累進課税の強化など格差是正策の必要性を主張した。
ピケティは資本収益率(r)が経済成長率(g)を上回る傾向があることを示唆した。つまり、資本収入の伸び率が、国全体の所得の伸び率を上回るため、富の集中が起こりやすくなるということだ。これは傾向であり絶対ではない。
経済が成長しても、自動的に所得が公平に分配されるわけではないため、政策的な対応が求められるというのがピケティの主張である。
これについては、僕も一部賛同する。
一部の資本家や権力者のみが通常運転であれば良しとされるのか?
2024年1月の能登半島地震に対する政府の鈍感な対応や、イスラエル・パレスチナ問題における日本の外交姿勢は、このダブルスタンダードを明らかにしている。
さらに地震で甚大な被害にあった被災地北陸能登半島に丁寧に対応しているかどうか甚だ疑問である。
イスラエル・パレスチナの問題に対し、パレスチナ自治区ガザ最南部ラファへのイスラエルの軍事行動について「深く懸念している」と表明しておきながら、具体的行動を取らず、イスラエルを支援する米国へ日本の総理大臣がにこやかに渡る。
JETROによれば日本からイスラエルへの輸出は、輸送用機器が約50%を占め、次いで一般機械が約13%を占めている。輸入については、電気機器、化学製品、科学光学機器等が主要品目となっている。
パレスチナの国家樹立に賛成するスペインでは、国会議員が以下のような発言をしている。
大雑把に訳すと、以下である。
日本の国会においても、このような質疑が行われる事を期待する。
引き返すことのできない神〈資本〉を信仰してしまっている中で、僕たちが最善を尽くすとしたら、〈経済はあらゆる動植物があるがままのためにある〉、という視点を忘れず、とれる行動をとる、ということだ。
これらを踏まえて、バタイユに戻ると、理性的認識を超えた領域に踏み込もうとする「非-知」への探求と、過去の反省的省察とを両立させることが肝要なのである。
バタイユ的視点からの解決策
バタイユは、理性を超えた領域に踏み込むことの重要性を説いている。
資本主義に囚われず、人間の実存的な側面に焦点を当てることで、新たな社会的アプローチが可能になりうる。
哲学者J.P.サルトルやH.マルクーゼも、人間の自由と尊厳を重視し、合理性だけでは解決できない人間の問題を指摘している。
サルトルは、実存主義とは人間的なるものの側に身を置く試みである、と説き、マルクーゼは、人間が人間らしく生きるには、合理性だけでは不十分である、と主張した。
彼らの思索は、合理性の彼方に存在する人間の実存的な側面の重要性を指摘しており、この点でバタイユの「非-知」概念と通底するものがある。
憲法との関連
日本国憲法における平和主義と民主主義の精神は、国際社会での正義と秩序の追求と直結している。
憲法尊重の義務は、すべての公務員に課されており、これを基に、市民自らが憲法違反に目を光らせ、平和を希求する姿勢が求められよう。
現代日本社会においては、自民党(公明および維新もそれに含む)一党独裁体制の下で、修正主義的な歴史観や憲法改正の機運が高まっている。
たしかに、国会召集期日を明記していない憲法第53条のように改正せねばならぬものも散見はするが、9条などを改正することは安易に許してはならない。
戦前の軍国主義体制への回帰は危険であり、近代合理主義の狭隘さを超えるバタイユ的視座から、人間存在のより根源的な側面を見据えることも意義が見出される。
結論
バタイユ的視点から見れば、これらは合理主義的資本主義体制の病理に他ならない。
トマ・ピケティの指摘するように、資本収益率が経済成長率を上回る傾向が格差拡大の一因だ。格差を埋めることの社会正義については問題が先送りされ続けている。
わかりやすい例を挙げるならば、累進課税の徹底や不透明な消費税の廃止などがある。所得再分配の抜本的な改革が求められるだろう。
戦後日本の平和主義と民主主義は、過去の戦争の愚行から学んだ教訓に基づくものである。
憲法9条がその精神を体現しており、その尊重は日本国民すべてに課された責務である。
同時に、真の主権国家として自立するため、従属的な日米地位協定の抜本的見直しを行うべきだ。
無論、国防論無くして、憲法は語れないが、第9条を改正したり拡大解釈することなく、自律的な防衛力の構築と平和の両立を目指さねばならない。
僕たち一人一人が、思索の灯を掲げ続けることなくして、未完の民主社会はいっそう荒廃するであろう。
バタイユの唱える「非-知」の探究と、過去の過ちを直視する知の両立を目指しながら、現下の諸問題に果敢に取り組まねばならない。
そこに新たな地平が開けるはずである。
参考文献
『非-知』ジョルジュ・バタイユ 西谷修訳 平凡社
『民主主義とは何か自由とは何か』B.ラッセル 牧野力訳 理想社
『実存主義とは何か』ジャン・ポール・サルトル 海老坂武訳 人文書院
『Eros and Civilization』Herbert Marcuse Beacon Press
『一次元的人間』H.マルクーゼ 生松敬三他訳 河出書房新社
『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』矢部 宏治他 創元社
『檻の中のライオン』はんどう大樹 かもがわ出版
『檻を壊すライオン』同上
『21世紀の資本』トマ・ピケティ 山形浩生他訳 みすず書房
『資本とイデオロギー』トマ・ピケティ 山形浩生/森本正史訳 みすず書房
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