とりとめのないこと2023/05/02 本の愉しみ方
一日すぎるごとに緑が深く濃くなってゆく。
ついこのあいだまで、潮風は肌をひりひりとさせ、朝と夜のはじまりはぐっと冷え込み、体を硬くこわばらせ、身構えるほどに寒かったのに。
冬から春へ──待ち望んでいた、あの陽光、死と生が入り混じり、混沌の中を陽の光が差し込む季節──僕を取り巻く色も香りも温度もすべてが足早に駆け抜けていった。
秋がはじまってしばらくした頃、新作小説の長編を通読することが精神的に辛くなった。
最初は、季節的なものだろうと思っていた。
短編や中編なら何とか通読できるし、昔読んだものならかなりボリュームのある長編も読める。
新作だけはどうしても、最初の数ページで手が止まってしまうのであった。
海外出張での渡航中も小説に関してはかなり短いものを選んで読んでいた。通読しないといけないという義務感はもともと持ったことがなかったし、読むスピード自体速い方だと思っていた。
本を読むことがじぶん自身になれるひとときで愉しみでもあり、心の支えでもあった。
季節が過ぎてゆき、日本の現代作家ものを一、二冊、新しい訳のものなどを手にしてみた。
読めない──正確には、集中が途切れるのと、「なあんだ、じぶんのことしか書いてない」、「むかし読んだ訳の方がしっくりくる」と思って読むのを辞めてしまうのだった。エッセイや興味のあるアカデミックな本や実務にかかわる本は読めている。
お気に入りの作家が増えなかったわけではない。
この数年ほどだと、カズオ・イシグロ、ミラン・クンデラ、ミシェル・ウエルベック、ゼーバルトに、日本人では須賀敦子、石沢麻依ら。
秋が過ぎて、冬が来て、春が芽吹き、新しく読めるかもしれないと思い、他の作家を手に取ってみる──やはり読めなかった。
ところで、僕は本を読むとき、基本的には万年筆でメモをとりながら読んでいる。
読書ノートという体裁ではなく、子どもの頃から付けている日記の一部として、日記に使っているノートに書き込んでいる。
日記を読み返すと、そのときの些細な感情のみならず、時事や気候、家族に起こったことなどと一緒に読書のメモが広がる。
再読のものは気になったフレーズを思い出してそこだけ読み返し、メモをとるため、ページは順番どおりではなく、飛び飛びで、物語の真ん中のメモが書いてあるかと思えば、物語のはじめの方のことがそのすぐ下に書いてあったり、また、別の本のことを、そのメモから思い出して書いてあったりする。
最近では、そのメモも、ほとんどが書写になり、本文とページ番号を書いて、そこにたまに手短に普段じぶんの感じることが書いてあったりする程度である。
読書を愉しむというのは、通読かもしれない。
けれども、文学そのものを愉しむというのは再読でところどころを行きつ戻りつし、そのたびに書写する、となってゆくのではないか?
と、僕は次第に思うようになってしまった。
重要な作家、お気に入りの作家は人それぞれいるだろう。
お気に入りの作家たちの好みが僕の中である程度固まってきたのだと思う。
そうしたお気に入りの作家たちが書き残した文章をエクリチュールとして羽ばたかせ、僕なりに作家それぞれの全体を読むこと。
例えば、泉鏡花なら泉鏡花の書いたものをすべて読む、アントニオ・タブッキならタブッキの書いたものをすべて読むことで、ようやく、ひとつの作品をぼんやりとではなく、僕なりにくっきりとなにかしらの輪郭を捉えることができるようになっているのだろう。
だから、僕の読み方になるけれど、ひとりの作家が気に入ったら、刊行されたものほぼすべてをちゃんと通読しておかないと、輪郭が捉えられないし、作家の全体像を見ぬままに終わってしまい、それは作家に失礼な気持ちになってもしまうのだ。
ぜんぶは難しくとも、粗方読んでおきたい──言葉として、作家は永遠になるから。そして、誰かに読まれることで、目を覚まし、繰り返し読まれることで心の中を少し見せてくれる。その見え隠れする心の移ろいの気配を通じて、読み手も読み手自身のじぶんとじぶんの周囲で起こっている気がつかねばならぬことに「はっきりと」目を見開く可能性は高まる。読むたび、時が流れていくと、さまざまな視座を持つから。
それでも、たまには新しいお気に入りの作家も見つけたい。
昨年、『アウステルリッツ』(ゼーバルト著)を読み、とても好みだったのを思い出した。
それで、今年はひとりゼーバルト祭りをしようと、コレクションのため、刊行されているものをまとめて購入した。
明日、届くのでそれもまた愉しみだ。
もうすぐ初夏のような日もやってくるだろう。
先日、家族で北陸旅行を愉しみ、雨の日が僕は好きなことに気がついた。(旅館のおかげというのもあるかもしれない)
雨を待ち侘びるなんて思いもよらなかった。
雨が降りそうな日、お気に入りの作家たちを読み返し、書写したり、新しくお気に入りに追加した作家を掘り下げたり。
僕はお気に入りの作家たちの言葉をなんども掬い上げることが、その作家との対話になり、読書ではなく、文学をすることになるように思った。
文学はわかり合えない他者たちとの共存のための承認論のようなものかもしれない。
そのようなことをとりとめもなく考えながら、数日ぶりに庭を見るとたくさんの俯くスズランが白く透きとおっていた──古い書物の言葉たちが響く骨を想像した。
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