見出し画像

今でも4歳の頃のことをよく覚えてる。
「こんなの要らないわよ!」
あのひとがそう言ってスニーカーを床に投げつけた。あのひとの誕生日プレゼントでパパと買ったやつだった。

それ以来、パパと私はあのひとの誕生日を祝うことをやめた。
あのひとは「そんな事、どうって事ないじゃないの」という態度で、毎年、自分用に花とケーキを買っていた。

あのひとは鬱で入院したり、お酒が入ると包丁を自分の腕にかざすふりをしたり、自殺してやる!だとか脅してきたりした。近所で「キチガイの母親」と噂されたりしてるのをきいたこともあった。お風呂には1週間以上入らないし、1ヶ月に一度しか掃除してくれなかった。近くに来ると腐った臭いがした。
だから一緒にどこにも行きたくなかったし、誰かに一緒に歩いているところを見られたくなかった。

中学、高校と6年間お弁当は毎日作ってくれてはいた。全て冷凍食品だった。
それでも学校のことだけは気にかけてくれていた。
イジメにあったとき、あのひとは学校に乗り込んできた。
忘れ物を必ず届けに来てくれたりもした。
雨の日や帰りが遅い日は駅まで迎えにきてくれた。
けれど臭いに我慢できなかった。
離れて歩く。

パパがさっさと離婚すれば良い。
ずっとそう思っていた。

パパと私はいつも映画に2人で出かけたり、外で食事したりすることも多かった。
買い物もパパと私の2人で出かける。あのひとを誘うことはパパも私もする気になれなかった。

大学に入って2年目。
コロナでパパがリモートワークになった。
それから段々とあのひとは自分の寝室から日中出てこなくもなっていた。

たまたま寝室を開けると、体臭が充満していて臭い。
息を止めて入る。

何人か大学の友達を家の近くに連れて来たこともある。海の近くだったり、昔からのお寺があったりするからみんな来たがった。

あのひとがいるから家には友達を呼ばなかった。

パパがふるさと納税で27万円納税し、10万円近く毎月届く地方の鮮魚や牛肉を選んだ。

ゴールデンウィークが明けた後、どこかの最高級みたいな和牛の肉が届いた。
相変わらず私もリモート授業だしパパもずっとリモートワークでストレス発散にちょうど良かった。
あのひとには食べる権利なんてない。
パパとわたしと2人で焼肉をした。
あのひとは仕事してないし家事だってやってない。
一日中部屋から出てこないくせにご飯の時だけは出てくる。

「何も家族としてやってないんだから、あなたに食べる権利ないよ」

パパはいつもそう言っていた。

私もパパも目を合わせて、あのひとに「何しに下きたの?」と言った。

あのひとは、「少しだけちょうだいよ」と言って自分の皿と箸を持ってきてイスに座った。

「いただきます」と言って、肉を食べ始めた。
眉にも前髪にもフケがこびりついている。

「これ、すごく美味しい。ありがとう」
そう言いながら虫歯で真っ黒な歯を見せて、肉を噛みながら言ってきた。

パパが「風呂くらい入れよ!」と言った。

「汚い!口に入れながら喋らないでよ」
私も後に続いた。

ニヤけながらあのひとはまた口に肉を入れたまま、「ごめん」と言って、お酒を買いに家を出ていった。

あのひとがウイスキーを買って戻ってくると自分の部屋で飲み始めた。

数時間後、泣き叫びながら、三階の物置き部屋から電気コードをテラスに引っかけ始めた。

私は怖くて自分の部屋に鍵をかけた。

「死んでやる!あんたたちのせいだからな!」

そう叫び続けていた。

「死んだらだめだってわかってんのに!死んでやる!」

訳のわからないことを延々と言ってた。

突然、あのひとがテラスから戻る音がした。
下で警察に自分で電話している声がした。

「すみません。孤独なんです。このままだと自殺すると思います。助けてください」

数分後、警察官たちがやってきた。

パパがあのひとがいつもの酔っ払っているときのことを話すと、「旦那さん、よく我慢してましたねー、とりあえず、奥さん、落ち着くまでこちらで保護いたしますので」そう言って、あのひとを連れて行った。

翌朝、おじいちゃん──あのひとの父親──にパパが電話した。「これ以上、置いておけないんで、引き取りに来てくださいよ、あなたの娘ですよね?警察署に身元引き受け人として来てくださいね」

おじいちゃんとあのひとの弟があのひとを迎えに行き、またここに連れてきた。

その日から、あのひとはおじいちゃんの家に行くことになった。

1年半前のことだった。

あのひとがいなくなって、パパも私もホッとした。
あと少し我慢すれば自動的に離婚できるんだろうか。

パパは時々夜帰ってこない日も増えた。

今日は私の誕生日だから、ケーキを買って帰ってくるらしい。

雨の中、私はパパからもらったお小遣いで本屋へ行った。
帰りも雨が止むことなく、降り続く。

家へと続く細い坂道を登りきると、家のドアの前に黒い塊りがあるのが透明なビニール傘越しに見えた。

傘を少し上げた。

私は凍りついた。

あのひとだった。

※全5話の連作です。


関連作品

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。