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僕の志賀直哉

この文章は独我論的です。ご了承ください。
一部Instagramと重複いたしますが、追記しております。

久方ぶりに志賀直哉の暗夜行路をめくってみた。


静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。
そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩永遠に通ずる路に踏み出したというような事を考えていた。
『暗夜行路』志賀直哉全集 新潮社

サンテグジュペリの『夜間飛行』にも通ずる達観した視線と自然描写の写実性。志賀直哉の真骨頂のような一節が次々と現れてくる。

僕は暗夜行路のあらすじを語りたいわけではないため、簡易的に新潮社の公開しているあらすじを載せておく。

ひとは過ちをどこまで、赦せるのだろう。不義の子・謙作の魂の昇華を描破した、日本近代文学の最高峰。

祖父と母との過失の結果、この世に生を享けた謙作は、母の死後、突然目の前にあらわれた祖父に引きとられて成長する。鬱々とした心をもてあまして日を過す謙作は、京都の娘直子を恋し、やがて結婚するが、直子は謙作の留守中にいとこと過ちを犯す。苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描く。
新潮社による暗夜行路あらすじ

祖父の買わされた様々な全集のひとつに新潮社の日本文学全集なるものがある。
僕がまだ小さかった頃、僕と兄の部屋にそびえ立つようにして置かれた天井まで届いた本棚は、僕らの部屋の1/3を占拠した。
僕はそのころとても内向的であったことも手伝い、子どもの好奇心とエネルギーのままに、その本棚をかたっぱしから読んで過ごすことになった。森鴎外、夏目漱石、有島武郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎、ありとあらゆる近代日本文学の文豪たちを読み進めていると、ある日、志賀直哉全集にたどり着いた。
少年だった僕が「このひとについてゆこう」とそのとき決心したのを覚えている。

端的で写実的描写───志賀直哉の文章の特徴であろう。

現代文学を否定ばかりしてはならないけれども、現代文学に魅力をどうしても感じないときのほうが多い。なぜならば、言いたいことや主張したいテーマを見かけだけの美しい装飾音符が連続しているものばかりに思えるときがあるからである。
特に休言止めの乱用が散見していて、僕もこれに準ずることが多い。
反省しないといけない。

また、共感を得られるためにここぞとばかりに感傷に訴えかける。
共感できないもの=難しい
で片付ける読み手の凡庸さ。
そこに迎合する書き手。


ドラマ仕立てのような起承転結のメリハリをつけたものに想像の余地なく事細かに描写しそこにてんこ盛りの比喩が飾られる。

髪が何色、髪型がどうこう、服が何色、コーヒーの淹れ方、かけているジャズやクラシックレコードの指揮者とオーケストラに今日の天気。
目の形から鼻の形に歯並び、年齢。
音楽は出てくるのに、テクストからは音楽が流れてこない。おしゃれな建物や街は出てくるけれど、海や山、季節の木々、花々、季節の香りはテクストからただよってこない。
だから、読んでいても僕の頭に音楽が流れてこない。
無機質なテクスト───エクリチュールになれなかった記号の羅列。

ありとあらゆる《キャラクター》が簡単に思い浮かぶような描き方で、内容は、社会問題に触れていそうで、実は自分の内側にしか向いていない。

キャラクターを際立たせて、キャラクターのために物語がある。想像しやすくするためにありとあらゆることが書き込まれ、受け取り側に想像の余地、余白は残されていない。
読みやすいし書きやすい。
とかく勉強することなく難なく書ける。
読むときもそうだ。とくに調べてみるなどせずに、気楽に読める。
そして、心に残らないまま忘れていく。
心に残って忘れていくのとは違う。残らないまま、読んだ時間ごと忘れてしまう。
あらゆることに余白がないのだ。

僕の文章も気をつけていないとこれに準じる時が多い。

自分とは違う他者の世界を描くには相当に勉強が必要でもあり、あるいは、自分の世界を社会に開くとき、その経験の少なさにも驚く。

だから、自分の世界のことを着飾るために心地よい言葉で比喩する。

あるいは極端にグロテスクなものを正当化するかのようにする。

いずれも《感傷》に訴えかけるものだ。
これは読み書きだけでなく、現代の、というよりも産業革命以降の、風潮の在り方の特徴でもあるのかもしれない。

フランス革命で権力の座を手に入れたナポレオンがなぜあれだけいとも簡単に堕落した貴族社会を転倒させ民衆のアイドルとなれたのか?
ヒトラーはどうしてあんなにも手を痙攣させながら感情的に演説し民衆を扇動できたのか?
サラザール、ムッソリーニやフランコらファシストたち。
レーニン、スターリン、プーチンはなぜ国民から引きずり下ろされないのか?

彼らの共通点はいくつかあるが、ひとつに「感情に訴えかける」《感傷》の脆さを利用することに非常に長けている点に思う。

大衆は真実を求めているのではない。
彼らに必要なのは幻想なのだ。
ギュスターヴ・ル・ボン

これについては群衆心理を書いたル・ボンも言っているため、詳しく知りたい方は群衆心理を読んでみて欲しい。

民主主義という未完の宗教について、これもひとつの幻想だと思うけども、取り憑かれたかのように、民主主義と無神論が普通とされるのは民主主義という言葉を盾にした全体主義的傾向にも見えなくもない。

余白を許さない現代のあらゆるイデオロギーなきイデオロギー。区別や差別、比較させて嫉妬や欲望を煽ることで摩擦をわざと起こすかのようだ。

感傷というものの怪しさに気がつかないままのめり込む姿は、思考停止直前のロボットでもある。

現代文学の簡単にのめり込めて感傷を昂らせるやり方はそれを助長したり、あるいは、消耗的とわかっていながらも、消耗のための消耗品、産廃品としての記号の羅列を垂れ流しているかのようでもある。良くも悪くも文学はその時々の社会風潮をよく表している。

古典、近代文学はその点において、記号の羅列にとどまらず、陳腐化することなく、魂を持つ───エクリチュールとして羽ばたいたものたちだろう。

だから、端的であれど芯があり、歯ごたえのようなものが感じ取れる。

国内外問わずにこうしたエクリチュールを羽ばたかせた作家陣はたくさんいる。

透徹さで言うと、スタンダール、フローベル、ドストエフスキー、志賀直哉、サン=テグジュペリ、ジッド、カミュ、サルトルらがパッと思い浮かぶ。僕なんぞが志賀直哉について語るのは100万年はやいのだが、敢えて読書記録として付け加えるなら、志賀直哉やジッド、サン=テグジュペリも外へ向けた心理描写を自然の中に一旦くぐらせて、端的に写実的に描写している。そうすることで文章が陳腐ではないため、輝き色褪せないのだろう。

中でも志賀直哉は頭ひとつ抜けているように僕は思うのだ。

須賀敦子さんの志賀直哉、ジッド論を読んでいて、少し懐かしくなりながら暗夜行路や清兵衛と瓢箪、和解、城崎にて、をめくっていた。

開け放たれたテラスの窓から何処となく夜の沈丁花の香りがして、夢うつつになりながら、謙作の歩いた大山を想像した。

人間が鳥のように飛び、
魚のように水中を行くという事は
はたして自然の意志であろうか。
こういう無制限な人間の欲望が
やがて何かの意味で人間を
不幸に導くのではなかろうか。
人知におもいあがっている人間は
いつかそのためむごい罰を
こうむる事があるのではなかろうか。
『暗夜行路』志賀直哉全集 新潮社

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