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とりとめのないこと2023/06/03

中欧文学者、須藤輝彦さんの文章を紹介したい。

それはやはり光源だろう、と僕は思う。七夕であれ震源地であれ、戦争の現場であれ「神の国」であれ、この光学的構造は変わらない。私たちはなんであれ祈りのさいに目をつぶる。閉ざされた暗闇のなかだからこそ、受けとめた光の源が鋭く感じられる。しかし光源それ自体は開かれた眼でもよく見えないし(人はそもそもよく見えないからこそ祈るのだ)、光それ自体も祈る者の存在によって遮られる。だがその意識は光に代わって押し出されるように、内側へ開かれていく感覚を伴いながら、身体を通って後ろのほうへと――どちらかといえば過去の方向へと――広がっていく。祈りとは視線の前方への延長というより、視野の後方への拡大なのだ。

『記録と多声――あるいは祈りについて』須藤輝彦

須藤さんはヨーロッパ周縁、主に中欧の歴史文化文学を専門的に研究されている方である。

彼の文章との出会いは、ノートルダムの火災ルポだった。

歴史的建造物の火災に熱を帯びつつも客観的にルポすることに徹し、かつ、奥行きと横の広がりを感じる端的な文章。

こんなにも真摯に建造物に対して歴史と今を繋げて書いてくれる方がいるのか、と感銘を受けた。

それ以来、僕は彼の文章を追い続けている。

須藤さんは戦争と記憶と記録、そして祈りについて、文学と今を縦横無双に繋げ、しっかりとした一本のストリームを流し語られた。

この文章を読んでいて、僕は娘が生まれた日に目を見開きあらゆるものを記憶しながら祈り続けたことを思い出した。

娘が生まれた日、真剣に祈った。僕は目を開けていた。仕事先から病院までの車の中で、何時何分どこを通過、天気、匂い、目に焼き付けておきたかった。クリスチャンだけど神さま仏さま何でもいいからとにかく!みたいな。

2020/12/10 夕方。
妻の陣痛と入院した連絡を受けた日。
親父が車を運転してくれた。
2020/12/11娘、生まれてきてくれてありがとう。
妻、産んでくれてありがとう。支えきれていなくてごめんね。

今は空を見上げて祈ることが多くなった。

祈り───宗教や信仰の有無によらず、それは希望を託すものが発する光でもある。

サルトルは「希望の中で死ぬ」と言ったが、まさにそうであろう。

ひとは夢や希望なくして生きていけない。
だからこそベンヤミンの言葉でもあるが「希望とは希望なき者のためにある」のだ。

他者との直接的な語り合いと語り継ぐこと、その記録のための受け皿としての文学はやはり時、空間が建てていかれるように書いてあることが多く感じる。そこに点在する/した《声》たちの重奏が空間に鳴り響き、ときには祈りを込めて音楽になるかもしれない。

彼の専門でもあるミラン・クンデラさんの文章を読んでいると、僕は音楽と重奏的声が聴こえてくる。クンデラさんの故郷への想い、クンデラさんの置かれた状況と苦悩、そこに託す希望が見え隠れする。他者との直接的な語り合いと語り継ぐこと、その記録のための受け皿としての文学はやはり時、空間が建てていかれるように書いてあることが多く感じる。そこに点在する/した《声》たちの重奏が空間に鳴り響き、ときには祈りを込めて音楽になるかもしれない。

記憶──個、地域、国家、国家間で──の記録。時ではなく記録によってヒトの記憶が曖昧になるリスク。
重奏的な対面での他者との「語り」と語り継ぐための記録を大切にしたい。己を社会に開き《声》に耳を傾け沈思する。ランダムノイズから何らかの因果関係を見出すことも。
空を見上げ、家族の平穏と家族の故郷、その周縁の平和を祈る日々。
さまざまなことを彼の文章から想いを馳せられた日。

単身赴任中だが、時と空間と願い、祈りを平家物語まで遡り今と繋げて書かれた須藤さんの文章でどうしてかじーんときて、家に帰りたくなってしまった。

地面をしっかりと踏みしめながら、少し遠く、あるいは月を見る───がんばれ俺。

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