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供述によるとペレイラは……

著者 アントニオ・タブッキ
訳 須賀敦子
出版 白水社
再読での感想です。

あらすじ

舞台は1938年のサラザール政権下でのリスボン。
リスボンはきらきらとしていながらも、ヨーロッパ全体が死臭にみちていた1938年でもある。

新聞記者ペレイラの供述形式で、物語は語られる。快活に生きることを望む青年ロッシの哲学論文が掲載予定になったことから、うだつの上がらない妻に先立たれた肥満のペレイラは事件に巻き込まれていく。

われわれの存在の意味をなによりも深くまた相対的に特徴づけているのは、生と死の関係である。
というのも死が介在することによってわれわれの存在に限界がもうけられている事実が、生の価値を理解するには決定的と考えられるからだ。
『供述によるとペレイラは……』アントニオ・タブッキ 白水社Uブックス

テーマ

長きに渡ったポルトガルやスペインの独裁政権に対する批判
生と死
ジャーナリズム、哲学や文学の責務
個としての独立

感想

ただしいか、ただしくないか、それを決めるのは歴史
『供述によるとペレイラは……』アントニオ・タブッキ 白水社Uブックス p107

再読での感想です。

本作品のメインテーマは独裁政権への批判であろう。それとともに、やはりいつものタブッキのテーマである生と死、偶然と必然が全体に流れている。また、要所要所でタブッキ独特の文章が光り、淡々と物語が進んでいく。
また、ペソア、ロルカ、ベルナノス、モーパッサン、バルザックら文学者たちとマルクスやヘーゲルら哲学者らも参照される。

他作品とは少し違い、だいぶタブッキのポルトガル研究者としての側面が出ている作品のようにも僕は思える。

ペレイラの供述は誰に対してか? 

それは読者、ひいては声なき市民たちへの供述だと感じる。 
過去のポルトガルの貴族的軍事政権サラザール派及びスペインの独裁政権をペレイラの供述という形で厳しく批判しながらも、出版当時の1994年代のジャーナリズムと文学の果たすべき責任に対するタブッキの思想があたかも淡々と供述されているような印象が残る。

主人公ペレイラが関わることになる、快活に生を望む若い青年は突如として政治的背景の中で死を描くことを強要される。 
青年=未来、希望を暗闇の中へと引き摺り込む全体主義への強い批判を文学者、ポルトガル研究者の責務として果たそうとした作品のように思える。

ポルトガルの軍事政権や作品中でも触れられるポルトガルの国民的詩人フェルナンド・ペソアに関しては、僕は、ジョゼ・サラマーゴの「白の闇」の感想で少しだけ書いたことがある。

これは2021年現在においても共通の問題ではなかろうか?
とりわけ日本のジャーナリズムの弱さ、批判力のなさに対して時々声が上がる。
例えば、隣国のウイグル問題、ミャンマーの問題など同じアジアの出来事に無関心ではないか?
ジャーナリズムだけではなく、現在の文学においてはどうだろう?

新聞社にいるくせして、きみはいったいどこの世界にいるんだ。
いいか、ペレイラ、しっかり情報を集めるんだ。
『供述によるとペレイラは……』アントニオ・タブッキ 白水社Uブックス


哲学や思想といったものよりも、身近な文学にこそ、市民に社会で今起きている問題を伝える力が本来ならばあるかもしれない。

しかしながら、読書する人口が減少傾向にあるのも事実であり、国内において、文学者として社会的責務を果たそうとする作家も中々稀有であるように思える。

ジャーナリストではあっても文学の大切さ、死を探ることによっての生の価値、個としての独立への誘いなど、多くのテーマについて我々に淡々と供述するペレイラがタブッキのリスボンの街への愛とともに描かれている。

哲学は真理のことしかいわないみたいでいて、じつは空想を述べてきるのではないだろうか。
文学は空想とだけ関わっているようにみえながら、ほんとうは真理を述べているのではないか
『供述によるとペレイラは……』アントニオ・タブッキ 白水社Uブックス p27


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