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とりとめのないこと2023/02/01

写真の中の切り抜きされた古い新聞にはマーガレット・ミッチェルの肖像とともに作家の人生が書かれていた。



お世話になっている先生の研究室から出て、冬の雨降る夕暮れの田舎道をしばらく歩いた。路面の溶けた雪が凍り、頼りなさそうに白く街灯がアスファルトを照らしはじめていた。

「電気代が去年に比べて二倍になってる、あなたがいなくてふたりなのに」───妻が電話の向こうでそう言うのを少し上の空になって聞いていた。

僕は昼の休憩に読んでいたタブッキの短編『将軍たちの再会』(『時は老いをいそぐ』収録)が頭から離れないでいた。ハンガリー動乱、ひととひととの争い、動乱下で対立するふたりが時を経て、平穏なテーブルを挟んでチェスを交える。いまも変わらない妻の祖国の状況……。ひとは長い間、それが幻想と知っていてもその幻想のために──イデオロギー、革命や救済──と称して血を流し続けている。

強い向かい風のようなその時を流されたり抗ったりしながら生き抜くと、流れた血は事実であれ、《幻想》のように思いたがるのは何故だろうか。

須賀敦子さんがグレアム・スウィフト(1996年ブッカー賞作家、マザリング・サンデーやウォーターランド)の『この世界を逃れて』の書評で、
「歴史の意味を小説をとおして解明するように」感じたと書いている。

そうした本は少し思い起こせば、いくつか確かにある。
タブッキの『供述によるとペレイラは……』やゼーバルトの『アウステルリッツ』、最近読んだものではバオ・ニンの『戦争の悲しみ』、国内のものだと大岡昇平の『野火』など───ホテルを通り越すと、信号機の向こう側に本屋が見えた。

小さくも大きくもない、なんの変哲もない普通の本屋だった。新潮社の文庫だけが品揃えよく置かれている、そんな店だった。誰かの手に取ってもらえるのをじっと何年も前から待つような、そんな錯覚を覚えた僕はしばらくタイトルをぼんやり順番に見ていた。

『風とともに去りぬ』の新訳が目に留まり、懐かしく思い、SNSでも流れてきたのを思い出した。
「そうか、新訳か」
気付いたら、ホテルまで連れて帰ってきていた。

多分、妻には、また呆れられる。



子どもの頃、祖父の本棚から引っ張り出して読んだ本だった。
素敵なカラーの挿絵が要所要所に差し込まれ、スカーレット・オハラの人生に夢中になっていた。
子どもだった為、時代背景や差別問題をあまり気に留めていなかった。レット・バトラーとの愛の行方にドキドキしたり、スカーレット・オハラが力強く時代という風に逆らって、自分の道を開拓していく生き様が素敵だと思えた程度の記憶しか残っていない。

新訳版はサラサラとした手触りの表紙で、僕をタラまで連れ出してくれる、そんな気がしてくる。

新訳の新潮文庫版

「『風とともに去りぬ』の新訳買ったよ」、と祖父に電話で伝えると、
「ちょっと待ってなさい」
と言いながら、その場でむかし読んだあの本と彼がいつだかに切り抜きした新聞記事を添えて写真を撮って送ってきてくれた──よほど好きなのだろう。

祖父の蔵書 河出書房版
切り抜いた新聞は38年前、昭和60年(1985年)
マーガレット・ミッチェルの本書が祖父の座右の書のひとつらしい。

「老人は早く死んでくれって言わんばかりの政策だよ、まったく」ぼやきながら祖父は電話を切った。

南北戦争や人種問題といったさまざまな時代背景。戦争に負けた南部の土地で立ち上がって時代の風と勇敢に対峙するスカーレットの物語を久しぶりに少しずつ読む。



窓の外は雨が降ったり止んだりしている。
この寒い夜をきちんとした部屋で僕は過ごしている。
読んだ当時も屋根のある安心して眠れる場所だった。

一方で空襲に怯えたり、路上で疲れて眠ってしまったり、寒さや暑さの中でいまをただひたすら生きようとする子どもたちもいる。

僕は時々不安に駆られる。
ウッドショックのあおりからさまざまな生活を取り巻く経済や家族のこと。
果てることのない欲望、利権と搾取と犠牲が延々と回る昼と夜。
それでも、タラへの道を精一杯歩かなきゃ。
だって家族がいる。
押し潰されそうになるニュースや感覚が馴染めない言葉の洪水、押し寄せる違和感と虚脱感や疲労感の波濤。でも僕にはささやかながら子どもの頃からの友人たち───読んできた本たち───もいる。自分で自分を奮い立たせるしかないとき、そうした虚構の中の友人たちが僕を後押ししてくれることもある。
だから、子どもたちには本を少しでも愛を感じながら安心して読む空間を作ってあげたい。
過ごす空間と時、それらがその子たちの人生を包み込みながら、ある日、心の拠り所になったりもする……。

どうしてだか、少年の頃の湿った土を思い出したくなって、冷たい雨の中、濡れたアスファルトを裸足で歩きたくなった。

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