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とりとめのないこと2023/04/23
近所のお花屋さんでトルコキキョウとスイートピーで花束を作ってもらい、店の目の前にある個人商店でどの味のストロングZEROを買うか迷っていたら閉店間際の時間になってしまった───目を覚まし、それが夢であることに気がついてドアの隙間から溢れる淡い灯りをぼんやりと見つめた。その灯りの先はトイレで親父がトイレのドアをきちんと閉めずに座り込んでいた。フィリピン・マミーが親父に「パパ、クローズドアしてよ、何回言ったらわかる?」と怒っていて、親父が「大丈夫、もうすぐ出るから」と照れながら言うのが聞こえた。
それで僕は妻にあげるつもりだった花束をテーブルに置きっぱなしにしていたことに気がつき、慌ててベッドから起き上がらないまま、フィリピン・マミーに花束を花瓶に入れておいて欲しいと頼んだ。スイートピーがこの季節にどうしてあるのだろう?そう思って横で眠る妻に尋ねようとして横を振り返ると、午前3時半で妻と娘の大の字に眠る線が暗闇で曖昧に溶けていた───「あゝ、俺は夢を見ていたんだ」と思った。第一に寝室の目の前にトイレはないし、親父たちは母屋で寝ているはずだ。
どうしてだか、ここが寝室の前にトイレがあるか、その日の夕暮れに花束を買ってないことに自信が持てなかった。
水をとりあえず飲もうと思い、ぐっすり眠る姫ちゃんたちを起こさぬようにそっと起き上がって、キッチンに向かった。
昨日、しまったはずのヘッセとリルケの詩集とハイデガーのリルケ論とクリムトのダナエのポストカードがパントリーに置かれていた。
片付け忘れたのだ。
「俺の記憶が記録されていかないと曖昧になっていく」───記憶することと記録することの差異について整理しようと思った午前3時半。
歴史というのはひとの中に、建物やその土地に、痕跡(ときには傷痕のように)として記憶されている歴史と、書物や映像によって記録されている歴史がある。記録することと記憶することの差異についてはタブッキもよく短編でテーマにしている。
僕が今言っている歴史は日本の歴史とかそんなたいそうなものではなく、自分自身や近しいひとたちや故郷といった局所的な歴史だ。昨日のこと、おとといのこと、一週間前のこと……ひと月前、一年前、三年前、八年前。
八年前で実際には花の蕾の開花は止まり、時間が砂になっている───とにかく僕はそのようにして記憶に留めたいことをそれ以上極力増やさないでおこうと思ってしまった。
それでもひとの偶然というのは予期されぬもので、神さまが数年前に僕にラスト・チャンスを与えてくれた。
まだ明けない夜、
静かにささめき合う星々、
それは数多の死者たちの魂と天使たちの囁き。
僕はそれを聴こうとして、本を片手にテラスに出た。
湿度の高い生暖かい風が通り抜けて、僕は作業場の二階へ行き、本をドサっと置いた。ダナエのポストカードを立ったまま眺めた。
おとといの夕方、同じようにして僕はこのポストカードを見ていた。
ヘッセのいくつかの本を読んで、自分自身であり続けることは孤独を抱えて生きる崇高さと旅をすることと、三角形の頂点たちのような関係である。
自分自身を抱きしめる、誰ともひとつには決してなることのできない魂を抱きしめる。
だから僕はヘッセの後期作品とダナエとのあいだに因果関係を見出した。
けれど、それはヘッセだけでなく、リルケとダナエも似たような関係性がある。
辻邦生さんの素晴らしいリルケ論について、以前少しだけ書いたことがある。
ハイデガーはリルケ論『乏しき時代の詩人』でリルケの『重力』について
全体としての存在者の中心が重力であり、リルケがソネットで言う「未聞の中心」とはそのことであると解釈している。
そしてこの純粋な重力、すべての冒険の未聞の中心は永遠の遊び仲間であり、存在の遊戯と名づけた。
僕はこの冒険こそがヘッセのテーマであるかのような、魂と旅人と孤独にいま思えてならない。
だからダナエとリルケはつながりを持つ。
それは次のリルケの詩によって明示されているかのようでもある。
「空に満ちた雲から降るように
重さというゆたかな雨がそそぐのだ」
(『重力』リルケより引用)
自己の内部へと深く潜り、自己の中で世界を開く(これは俗に開くという意味でなく、深淵を知るに近しいと思う)リルケは僕の個人的な意見ではゲーテをドゥイノの悲歌で超えたように思う。
僕は結局リルケが好きだ。
ダナエを本に挟み、椅子に座ることもなく、
こうして僕は僕を記録して朝が来るのを記憶するのだ。
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