見出し画像

ケーキ

あの女ほど思い出したくない女はいなかった。
俺のことを始終馬鹿にしてきた女。
学生の頃はまだ良かった。
始終良いことか父親の自慢話。
それでも見てくれの良かったあの女のドラマな作り話にずっと付き合った。
憂いを称えながら、時には涙で言葉を詰まらせながら俺に苦労話や悲劇話をする。

俺の誕生日にはルイジャド、エシェゾーのグランクリュを持ち込んで南青山のフランス料理店のテラスで食事をした。

「あたしにとって、ワインは命なの」

そう言いながらシャトー・ラギヨールのソムリエナイフでエシェゾーの封を切る。
リーデルのブルゴーニュワイン用グラスにソムリエが注ぐ。

「おめでとうございます」

あの女と青山を散歩し、夏の深大寺を散策し、井の頭公園で馬鹿げたスワンボートでキスをして俺はあの女との人生を僅かながら夢見た。

大学を卒業後、夕立製作所の研究所に配属された。

「妊娠したかも」

俺は喜んだ。入籍し、質素な結婚式を女の地元のカトリック教会で挙げた。

病める時も 健やかなる時も
富める時も 貧しき時も
妻として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか

誓った。

ザ・ジャパニーズ・カンパニーで10年耐えた。
家族のために。

あの女は開発者として外資系巨大精密機器会社に勤務し、いつも俺のことを馬鹿にし続けた。
誕生した娘は保育園へ預けた。

「日本の企業の体質そのものよね。あなたがうちに入れなかったのはあなたの語学力のなさ。これに尽きるわ。研究所の所員でも商品と直結しないといけないことしかできない。そこに甘んじるあなたも馬鹿よ」

俺は我慢した。あの女は残業時間200時間前後でも割と楽しそうにやっていた。

「あたし、今日も帰れそうにないから、あなたお迎えよろしくね」
「あたしは迎えに行けそうにないわ。あたしに風邪うつされると大変だから、あなたとレイは今夜別の部屋で寝てて。よろしく」

「外資だから年俸制だけど、それでもあなたのボーナス加味しても、あたしの方が年収がいいって、同じ大学なのに、格差よね。やっぱり、学生の頃、目標があったかどうかで変わるかな」

俺はずっとそうした侮辱的な言葉に耐えていた。
実際にあの女より200万前後年収に差があった。

ある日、あの女が自殺未遂をした。
心底喜んだ。
俺は娘を必死で子育てしながら研究所でなんとか仕事し続けた。
見舞いになんて行く暇はなかった。

女は会社を退職し、専業主婦になった。
俺は主任になって、ある金融機関のシステム開発の責任者になっていた。

複数の外資系コンサルティング会社からヘッドハンティングされた。

数年経ち、俺は転職した。
BIG4のひとつにシニアマネージャーとして金融系システム開発を第三者的に監査する。年収は夕立製作所にいた頃よりもはるかに上回る。

朝7時には家を出て、終電に間に合わず、タクシーで帰宅。深夜2時に寝る。

10年。

あの女はその間、ずっとカフェで友人たちと食事するか、自宅でゲームざんまい。
夕方、娘を迎えに行く。

夕食は近くのレストランの持ち帰り用。

あの女は自宅に引きこもり始めた。

臭いが充満し、隣で眠れない。
ソファで眠る毎日。

何の不満があるのか。

たまに口を開けば誰でも知ってる時事問題や社会問題の不平不満を並べ立てる。

「あなたは社会問題に目をむけなさすぎるのよ。よくコンサルなんかやってられるわね。ブルシットジョブって、あなたみたいな人たちのことを言うのよ」

「英語くらい話せないと話にならないし。あなたよくそれで外資コンサルやってられるわね。鼻で笑っちゃう。語学、時事問題、社会問題、勉強したら?山下さんの方がまだマシよ」

埃の舞い上がる居間で怒鳴っていた。
山下は時々逗子の卵を届けにくる近所の大工だった。

愛なんてとっくの昔に冷めた感情でしかない。

女との離婚を母親も薦めていた。

毎年の娘との旅行にあの女は来ない。誘う気もしない。
生ごみそのものだ。
いつまで俺はあいつを飼わないといけないんだ?

俺はあの女の父親でも母親でもない。

あの女がまた自殺未遂を起こした。
女の父親に引き取らせた。

一切の連絡を断ち、俺と娘はやっと自由を手にした。

さっさと死んでほしい。

正直な気持ちだ。
死んだら会社での信頼が落ちる。

部下のマナミに娘のケーキを買っておいてもらった。マナミといつものように食事した後、ケーキとメッセージカードを受け取り、帰路に着く。

マナミとの再婚に、あの女にはどうにかこのまま音信不通でいてほしい。思い出すだけでゾッとする。

テラスの部分を修繕工事依頼した工務店からのメッセージをタクシーの中で読んでいた。

「週末に現場調査にお伺い致しますがご都合いかがでしょうか?夕方〇〇時などご都合宜しければお伺いさせてください」

表向き愛想の良い男、山下は子どもの事だとか奥さんの事を聞きもしないのにペラペラ喋るやつだ。

自宅付近でタクシーを降りると、珍しく2階の寝室に灯りがついている。
娘がきっと何か探しているのかもしれない。

※全5話の連作です。

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。