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秋、ある日のリルケ

柘榴、柿、栗、銀杏が裏の山で実り土に時折ぽとりぽとりと落ちている。

柘榴や柿は小鳥や鳶が啄み、そのおこぼれに妻はあずかるようにして取ってくる。

栗拾いをしていると彼女は夢中になってしまうそうだ。

拾ってきた栗を乾燥させ、お菓子にしたり栗ご飯にしたり

彼女が一生懸命に栗拾いをする間、僕は仕事を早めに切り上げて、美容院へ2ヶ月ぶりに行ってきた。

僕は髪の毛を触られるのが実は苦手でもある。
髪の毛というか、頭を触られるのがなぜだか苦手なのだ。

天然パーマの僕は髪の毛にコンプレックスがある。
朝起きると、クルクルになって大爆発しており、髪質が柔らかいのも手伝って絡まって、ブラシで梳いてもまっすぐにならないどころか切れてしまったりする。
真っ直ぐな髪の毛に憧れる。

朝、シャワーを浴びて、頭を洗い、真っ直ぐに梳く。そうするとやや落ち着く。

娘も僕の髪質のため毛量はあるがかなり細く、天然パーマだ。
でも小さなひとだと天然パーマも愛らしい。

コンプレックスの髪の毛も美容院でしっかりセットしてもらうとなぜか自然な流れになる。
ワックスをつけてセットしてもらう間、僕は目をつむり、くすぐったいのをじっと我慢する。

幼稚園に通っていた頃、三人兄弟の僕はかなり放任されていた。構ってほしくて母にしがみつくと、母が「私の大事な大事な〇〇」と言いながら髪をくしゃくしゃとする。
くすぐったくて、僕は安心し、遊ぶ兄たちを追いかけた。

僕は髪の毛を肩まで伸ばしてサラサラにして揺らしながら今練習しているショパンの曲を弾きたいと馬鹿げた夢を持っていた。

伸ばせばサラサラヘアではなく恐らくバッハだ。

髪の毛にコンプレックスがある分、女の子の長い髪の毛が僕は好きなのです。

とにかく、僕は肩まで伸ばしたい。
何度も夢見た。

でも妻は「短髪しか勝たん」主義らしく、髪が少しでも伸びると、美容院へ行くように急かす。

「こざっぱりした方が男らしい」
そうだ。

僕はサラサラセミロングでポニーテールを無造作にしている男の方がエロくて男らしいと思う。

こざっぱりすると童顔の僕はボッチャンになる。
だから嫌なのに。

でも結局、美容院に来てしまった。

覚悟を決めて、美容師さんに告げる。
「やっぱりダメでした。短くしてください」
と。

滝口仮称さんがニヤニヤしながら、
「まあまあ、もうこの際、アレやりましょうよ」
と言う。

アレ、とは。
バーバースタイル。

なぜか彼は僕にバーバースタイルをやりたいらしい。
僕は断固拒否し、「伸ばせる希望を断ち切らない程度の長さで」とまどろっこしい注文をする。
いつものやりとりである。

滝口さんはこの一年ほど、僕の髪にハイライトを施してくれている。
「髪の毛の動きと光の加減で〇〇くんの天然ボケが際立ってカッコよくなるように」という彼の意味不明な理由からだった。

美容師さんの美的感覚は鋭く、かつ、個々の性質まで見抜く力まで備わっていることに僕は時々驚く。

様々なひとたちを常日頃から極めて客観的に見つめ、その本質を引き立つようにする。

職人としてのプロ魂。

頭を触られることが苦手な僕だが滝口さんにはお任せできる。

仕上がって、短髪になった僕を見つめる鏡の中の滝口さん。
自然な白髪にダンディさとエレガンスがある小柄な街の美容師。

妻の国の情勢のこと、相手方の情勢のことなど、僕に配慮しながら言葉を選んで、滝口さんが僕を少し慰めてくれた。

こざっぱりとして家に帰ると、姪っ子姉妹ふたりが遊びに来ていた。
妻と娘と姪っ子ふたりの4人で栗拾いをしたらしい。

僕は彼女たちの栗林の話を聞きながら、須賀敦子さんの全集第二巻の『レーニ街の家』を読む───娘のピアノレッスンに付き添い向かう途中の知人に著者は15年ぶりの再会を偶然果たす。
知人の娘はふたりいたが長女ではなく次女が連れ立っていた。著者は短い邂逅で長女のことの顛末を聞く。
───僕の姪っ子ふたりがピアノに向かい、好きな曲を歌いながら弾いて聴かせてくれた。
彼女たちは、ひと通り弾き語りに満足すると、今度は僕の読む本が気になったらしい。
本の裏表紙の著者の写真をしばらく見つめて、「優しそうなおばあちゃまだね」と呟き、ほかには何か本がないかと尋ねてきた。

「これ読める?どう思う?」

リルケの『僧院生活の巻』彼女は音読してくれたあと僕に感想を言ってくれた。

読書会、はじめてリルケに触れた9歳の友人(姪っ子ちゃん)

「”感覚”とか”感じる”というのが多いね、感じるの大事だもん」

素直な9歳の感想なのだろう。
けれども、僕はその感じるがまま言葉にすることを忘れていたことを思い出した。

いま時間が身を傾いて 私にふれる
明るい 金属的な響きをたてて。
私の感覚はふるえる 私は感じる  私にはできると……
そして造型的な日をとらえる
私が眼にとめるまで何ひとつ完成されてはいなかった
すべての生成がとまっていた
私のまなざしは熟れている そして花嫁のようにどの一瞥にもその欲するものがやってくる
何ものも私にとって小さすぎはしない それでも私はそれを愛し
金地のうえに大きくえがいて
高くそれをかかげる そして知らない
それが誰のたましいを解き放つかを……
『僧院生活の巻」(1899)から ライナー・マリア・リルケ
富士川英郎訳
新潮社版
Da neigt sich die Stunde und rührt mich an
mit klarem,metallenem Schlag:
mir zittern die Sinne. Ich fühle: ich kann─
und ich fasse den plastischen Tag.

Nichts war noch vollendet, eh ich es erschaut,
ein jedes Werden stand still.
Meine Blicke sind reif, und wie eine Braut
kommt jedem das Ding, das er will……

Nichts ist mir zu klein und ich lieb es trotzdem
und mal es auf Goldgrund und gross,
und halte es hoch,und ich weiss nicht wem
löst es die Seele los……
Das Buch von mönchischen Leben(1899) 
Rainer Maria Rilke

色々なことで頭をいっぱいにしている僕。

リルケを心のままに3行ほど読んで、感覚で本質的な何かを知る小さな僕の友人。

僕はようやく少しリルケの灯火としての愛を感じ取った気がする。

愛されること愛することを渇望しその摂理が自然の動植物や季節の中にこそあることを知っている者に、リルケは彼の心の深淵を少しだけ垣間見せてくれる。 

詩を感じ、感性の澱を掬い取るには、耳目鼻触感温度が必要だ。

全てを真摯に受け止めたとき、そのイマージュは顕在化することもある。
愛され愛することを感じ概念化し、その時に瞳に映る風にそよぐ生命によって顕在化される。

五感で感じ愛すること──禅的なもの。

ようやくこうしたことを少し言語化できるようになった、未熟な僕。

小さな僕の大事な友人たちに感謝しよう───僕が髪を切ったことについて家族たちは興味なかった模様。

さて、友人は日曜、学習発表会で外国語、スペイン語を披露する。
スペイン人でもある祖母と父(彼女たちにとってはひいおばあちゃんとおじいちゃん)に特訓してもらった。

僕もこれから聴きに行く。

Buena suerte💫

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